愛についての考察 〜言葉遊び〜 | ふと考えたこと |
02 | 愛についての考察(2) − 日本語の中の愛 − |
李・青山華 | |
前回で、愛ということばは、何かを大切に思い、大事にしようとする心である、と規定したが、今回は、日本語の中に現れてくる、愛の概念について考えてみる。 愛という言葉自体は、日本語にはなかったようである。愛という概念は、日本語の中では形を変えて存在している。 たとえば、「愛しい(いとしい)」という言葉がある。 これはごく普通に大切なものを大切に感じる、とても素直な愛である。 「愛でる(めでる)」という言葉も、また素直な言葉である。大切なものを可愛がる気持ちを示す言葉である。 これらに比べ、かなり激しい感情として愛を語る言葉として、「愛しい(かなしい)」という言葉がある。音の通り、悲しい、哀しいと通じている。どれも強い感情を感じさせる言葉である。身体の中から溢れ出そうとする気持ちを抑えて、抑えても溢れ出るのがこの言葉で表される愛である。 「愛しむ(おしむ)」という言葉もある。これは「惜しむ」と通じている。大事なものがなくなりそうな不安を感じさせる、これも強い感情のこもった言葉である。 日本語に含まれる、愛情をあらわす言葉は、かなり具体的な行動までうかがえる言葉ばかりである。それに対し、愛という言葉の実態のなさはどうだろう。 西欧的な愛の概念は、日本語に置き換えるときに、なかなかぴったりした訳語がなかったようだ。御大切と解釈されたこともある。言葉の意味が愛より限定されるので、なかなかいい訳語だと思う。 もともと、愛ということばは、実態のない概念をあらわす言葉である。何も具体的な意味を持っていない。母性愛、自己愛、郷土愛のような、何かと組み合わされた形にならない限り、何の意味も持っていないことばなのだ。 実態のない概念をあらわす言葉は、それを必要とする、実態のない学問があって、はじめて必要になるものである。つまり、学問のための言葉であり、普段の生活から現れてくる言葉ではない。だから、日本語には、愛に相当する言葉がないのだ。 先ほどの御大切は、もともと仏教の言葉である。仏教も、とりあえず衣食住の心配のない世界で、本来の宗教的な行動から離れ、理屈のための理屈を捏ね回す学僧たちが、いろいろな概念と言うものを作り出している。そのうちの一つなので、言葉としてはしっくりくるのかもしれない。 |
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結論;だから、愛という言葉を、信じてはいけない。
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