微量毒素
魔ヶ物紀行

Travelogues of weird places

荊木

李・青山華
 私は外の音、エンジン音の騒音に満ちた車の後部席で大きく伸びをしながら言った。
「ちょっと時間がかかりそうだな」
 クシナは助手席で身じろぎし、振り向いた。
「すまない。私のせいで」
「いや、そういう意味じゃない。時間は必要ならばかける。今こういう成り行きになったのはこうする必要があったからだ」
「私が来なければもっと簡単なのだろう」
 私はふき出した。
「それじゃあ意味がないだろう。おまえを姫のところに連れて行くのが目的なのに」
 クシナは黒い目を私に向けた。虹彩のない瞳は光を反射せず、吸い込まれるような漆黒である。
「それが目的なのか?」
「それが目的さ」
 クシナは納得したのか、前に向き直った。我々の目的の一つは、クシナが春の花を愛でることの出来る地に行くことである。クシナはたぶんホモ・サピエンスではない。ホモ・サピエンスの定義がはっきりとはわからないので言い切ることはできないが、違う種族なのだと思う。クシナは春の花を見ることができない。花に近づくと何らかのフィルタ機能が働いて弾き飛ばされてしまうのだ。このフィルタを設定したのが誰かは知らないが、共同体以外の人間を排除するためにしたものなのだろう。一般には魔除けという機能である。それでいくとクシナは魔ということになる。
 ホモサピエンスというと通常は旧人以降現代人までを含む人類を指すようだ。しかしもう一つの定義として、理性を有するというところに人間を他の動物と区別する本質があるとする考えがある。こちらの考え方で言えばクシナをホモサピエンスと考えることも出来る。でもきっと違うのだろう。彼女は私の周りにいるたくさんの人間とは明らかに違うし、生物学的な意味では動物と考えることも出来ないのかもしれない。彼女は今人間が持っている分類学では分類できない部分に属していると思われる。クシナは存在しているが、どの分類に振り分けていいのかわからない、というのが現在の状況だろう。
「私は人間ではないよ」
「人間って何だ?」
「………私じゃないもの?」
「んなアホな」
 私はといえば、クシナと齟齬のないコミュニケーションがとれており、意思が通い合わせられる以上、自分と同じようなものだと考えている。社会学的にいえば、日本語を母国語としない集団と日本語を母国語とする集団の間にある差異よりも彼女と私は近い関係にあると言えるだろう。
 いくら挙げてもきりがない。このような人と人の関係において、学問に出来るのは分類とラベル付けだけである。学問は本質を明確に表すことなど金輪際出来はしないのだ。学者が100人いれば100人の学説があり得る。ラベル付けの考え方が1件違えば違う学説を標榜できるのだから。だから私は自分の皮膚感覚で判断する。クシナは私の輩(ともがら)である。だからクシナの希望を聞いてやりたいというのは、私にとって自然なことである。
 また、それほど遠慮のある間柄でもないと思っているので、自分の用事をそれに乗せてしまうのも悪しとしない。クシナが合意してくれたので、これ幸いと併せて済ませることにした。それが我々の目的のもう一つである、北の地方の状況視察である。邯東周辺は私と中の妹が収めた。西は母と末の妹、南は父が収めている。祀国は上の妹が収めた。上の妹はそのために姿を失うこととなったが。北はまだまつろわぬモノが多くある。収める必要がなく世界が構成されているのだが、高速の移動手段で南西の風が流れ込み、どんどん変わっていっている。それで現状を観るために私が行くのだ。
「水戸黄門?」
「違うわ! …たぶん。しかし何でそんなもの知ってんだ」
「常識だと思う」
「そうなのか… じゃあ俺よりおまえのほうが人間に近いんじゃ…」
「んなアホな」
「…」
 始めに向かうのは荊木。首都周辺がどんどん都市化しているのに対し、そちらにはいつまでも人が入らないエリアがある。そこの様子を観たいと思ったのだ。クシナは新幹線や自動車の中に長時間いることが出来ない。箱の中に長時間いると気が失せてしまう。ちょうど荊木方面に向かう友人がいたので、その車に乗せてもらうことにした。
「しばらくなら大丈夫だ」
「しばらくってどれくらいだ」
「…わからない」
「しんどくなりそうになったら言えよ」
その友人の車は年季の入ったなかなか優雅な車である。最高速度も3桁に達しない。初夏のよく晴れた朝、我々はその車に乗せてもらい、我々の旅に出発した。
07年11月14日
 20年も前に造られた車なのだ。ヴィンテージカーというわけでもない、当時はそのあたりに溢れていた大衆車である。ゴムも劣化しているのだろう、建て付けが悪く、そこらじゅうの隙間から賑やかな音が聞こえてくる。所有者もマニアックに手をかけているわけでもなく、走ればそれでいいと公言している。高速道路で100キロ出そうとしたらパーツがすべて自主的に分離しようとしている気配を感じたので、早々に高速道路を下りたという話も聞いた。そんな話をしながらも、所有者は楽しそうに見える。
「愛しているのだね、この車を」
 避ける暇もなかった。中身の入った缶コーヒーを額に受けるのはあまり楽しくない経験であるが、ちょうど咽喉も乾いてきたので有難く飲ませていただくことにした。
「なぜ買い換えない?」
「なぜ買い換えなくちゃいけない?」
 質問に質問で返すのを禁止する法律はなかったろうか。幸い相手は続ける言葉を持っていた。
「移動するのに不足はないんでね」
 足るを知る、という奴か。
「高度消費型社会に貢献しなければならないという思いはないのかね」
「車自体を持たない者に言われる筋合いはない」
 ごもっとも。
「いい車だな」
 脈絡もなく私の連れが口を挟む。空気を読めない奴だ。
「あいつなら皮肉だと思うところだが、お譲ちゃんのは素直に受取っておくよ」
 失礼な奴だ。しかしふと気がついて訊いてみる。
「調子はどうだ?」
「大丈夫」
「こっちの方はそろそろ胴体と手足が分離しそうだが」
 ミラー越しに所有者が私を睨む。
「首から先に分離してくれると静かになってありがたいが」
「なかなか望んでいる事象は起こらないものだね、お互い」
「まったくだ」
 我慢しているのかと思ったが、見たところクシナに苦しそうな様子はない。
「まあ、大丈夫なら結構な話だ」
 窓は全開である。少し熱をはらんだ空気が車を通り過ぎてゆく。風に誘われて外を見ると、建物がゆっくりと流れていく。店と住宅が適度に混ざり合って懐かしい景色を形作っている。
「ここは千波かな?」
「まさに千波真っ只中だ」
 風は砂っぽいが、砂は生気をはらんでいる。ここは大地がいい。そのためもあり、人がたくさん集まってくるのだろう。助手席ではクシナが髪を風に泳がせている。精一杯人のふりをしろと言ってあるが、けっこうリラックスしているようだ。それでも黝く見える髪は陽の光を受けると時々青金色に光って見えるが、車の所有者はそれも魅力と受け取っているのか、時おり眩しそうにクシナを見ている。この車に女性が乗るのはついぞ見たことがないので、あまりこういう状況に慣れていないからかもしれない。こういう微妙な空気は嫌いじゃないので、コメントは差し控えて景色を眺め続ける。豊かな土地だ。緑は大きくその葉を広げている。車は神楽のように賑やかな音を立てながら北へ向かって街道を走り続けている。
07年11月21日
 車から降りて腰を伸ばすと、景気よい音が響いた。
「うぎぎ…」
 クシナも降りて周りを見回す。油断のない表情だ。私も心なしか緊張している。ここまで送ってくれた礼を受けて、友人は窓から出した手を振りながら去っていった。クシナはその車を見送りながら呟いた。
「いい車だ…」
「ひどい乗り心地だったが」
「大事にされている。私はつらくならなかった」
「それはそうか…付く喪神にでもなるかな」
「それはないだろう。あれは静かに朽ちようとしている。欲が残らないほどよく使われたようだ」
 クシナは名残惜しそうに車が去ってゆくのを見ていた。
「それは守られていたところから放り出されたというニュアンスも含んでいるな?」
 クシナは私を見た。
「おまえも気づいたのか」
「まあね…」
 広い景色が開けている。建物も山影もないので遠くまで見渡せる景色は、初夏なのにどこか寒々としている。木々はそれなりに茂っているのに、その木々に護りの気配はない。自分たちを守るのに精一杯なのかもしれない
「何かおかしいな…」
「ここには何もないんだよ」
「何もない…?」
 言われて私は意識を広げた。意識は何の抵抗もなくふわんと広がる。広がりすぎて慌てて意識を戻した。
「何がないんだろう?」
「…何もないんだ…」
 私は愕然となった。
「統べるものがないのか? いったい何で…」
「荒びかたを見ると、ずいぶん前からみたいだよ」
 確かにこの地には護るものがいないようだ。それもずいぶん前から。これでは人は住むのが難しい。遠くまで見渡せるのは人の意識が入っていないからだ。
「ここで何があったのだろう」
 何もなくなれば周りから何かが入ってくるものだ。そういう風に変わっていくことは普通にある。しかしここのようになくなった後に何も入ってこず、空虚のままであるケースはほとんどない。
「障りがあるようでもないし…」
 このエリアの空白は以前から気になっていたのだ。空虚な気配の何かが統べていると思ったのだが、どうやら本当に何もないらしい。以前に何か大きなことが起こったのだろう。この様子をもっとよく観るためには少なくとも一つの夜と昼を過ごす必要がある。
「俺は野宿をするつもりだが、あんたは宿をとるかい?」
「おまえが野宿なら私も野宿でかまわない」
「年頃の若い娘が野宿というのは剣呑だと思ってな」
「私を誰だと思っているのだ」
「年頃の若い娘」
「…私がその気になれば、おまえなど明日の朝にはかけらもなくなっているだろう」
「その気にならないでもらえるとありがたい」
「…努力しよう」
07年11月28日
 街から離れ、原野を歩いて木々が固まって生えている場所にたどりつき、そこを寝場所と定めた。自分を守るのに精一杯の木々でも、その根方に宿る意味はある。根方に居れば、木々自身を守ることが我々の守りにもつながるからだ。その夜は木々の震えが私の眠りを妨げた。起き上がると、クシナがおそらくは海につながる地平を眺めている。背筋が伸びたいい姿勢だ。三日月が空にかかり、白く大地を照らしている。
「何かな」
「護られないもの」
 私はため息をついた。
「やっぱりいるんだな、いけないものが」
 クシナは頷き、表情のない目で地平を見ている。
「遠いのか?」
「何を言う」
 嘲るように聞こえるのはこちらがほぞを噛んでいるからだ。クシナにそんなつもりはないだろう。当然気づくべきだった。影が出来るようなものもないのに見える黒いものは影であるはずがない。意識を後退させるとそれらの声が聞こえてくる。愚痴とも呪詛とも寿ぎとも聞こえるそれは、すなわち見捨てられたものたちの言葉だ。彼らに力はない。そのため観えなかったのだ。
「それにしてもこの数は尋常じゃないな」
「私は悼む」
 表情のない目で彼方を眺めながら、クシナが言った。
「彼らをか?」
「このことどもを」
 悼むことは祈ることだ。クシナにはクシナなりの情動があるらしい。ここのものたちは、統べるものがないのでいくことも消えることもない。おそらく海からかなりの広範囲に渡って、この状態は変わらないのだろう。
「何とかできないのか」
 クシナが言う。
「残念ながら、かなり難しい」
「不可能ではないのだな」
「俺の命を贄にしても、見える範囲が精一杯だな。桁外れに大きな力を持ったものでないと無理だ」
「マヒルなら?」
「あいつは限度を知らないからな…」
「それでもすべては無理なのか」
「ああ」
 ここを蘇らせるには神の力が必要だろう。本来ここにいたはずの神に匹敵する力が。時が過ぎても変化はない。ここのものはどこにも行けず、何ものにもなれない。邯東周辺でここだけが活性化しない理由はこれに間違いない。このあたりは妖怪や都市伝説にも乏しい。それは、ここに何もないからなのだ。
「私は悼む」
 クシナはもう一回、確認するように言った。彼女は彼女なりにかなり深く感銘を受けているのだろう。クシナの顔に朝日が射しかかる。もはや影は跡形もない。陽の光にも耐えることが出来ないのだろう。私は立ち上がった。クシナは私を見上げる。
「ここはわかった。次の場所へ向かう」
 クシナはもう一度彼方を見る。ここには花を見るどころか、朝日を見ることもできないものがたくさんいるのだ。
「何とかできないのかな…」
 私の答えは既に聞いている。だからこれは独り言なのだろう。それでも私はそれを聞き流すことは出来なかった。
「また戻ってくるさ」
「そんなことはないだろう」
 クシナはここを去ったもののことを言っている。でも、それは私の意図とは違う。
「戻ってくるのは俺たちだ」
 クシナはまた私を見上げる。
「北への旅の課題が一つ増えた。この理由を知るものがいるかもしれない。それを知ればやりようもあるだろう」
「おまえがまた来るのか?」
「俺はまた来る」
「私は…」
「来たければ来ればいい。花を愛でるのに飽いたらな」
「私が来たければ…?」
「おまえが来たければ」
 クシナはゆらりと立ち上がる。ゆっくりと回り、私を向いて止まる。
「では、次の場所へ行こう」
 俺は頷き、荷物を担ぎ上げた。クシナはもう一度彼方を見る。
「きっと」
 それだけ言って、クシナは俺を見る。俺は頷き、歩き出した。
07年12月05日
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