六本木随想 |
李・青山華 |
六本木では、道を歩いていると、目的が一つのような男たちと、その目的に沿うように装った、見事な身体の女性が大勢歩いている。他の東京の街とは、まったく人種構成が異なっている。上野・浅草方面は観光客と年配者の街で、池袋は地味で、上品である。新橋・恵比寿方面はビジネスマンでいっぱいだし、新宿・渋谷は子供の街だ。なぜ、六本木にいるような人種が他の街にはいないのだろう。 地下鉄の六本木か神谷町の駅で、見事に身体の長所を表現しきった衣装の女性の後ろを、数人のビジネスマンらしい男たちが、ふらふらとついていくのを目撃した。まったく関係のない数人の男が、その女性が移動するに連れ、つかず離れて見え隠れについていくのである。確かに目の保養にはなるだろう。できれば同じ車両に乗りたいという気持ちが、頭の後ろに吹き出しのように出ているのが見える。本人たちは、そのように見られているとは思っていないのか、あるいはその女性の魔魅に惑わされて、自分がどう見えているか、判断できないのだろう。 ストーカーよりもぐっと消極的な猟色者たちの、その微妙に距離を置いた集団は、ふわふわとホームを移動していった。その女性も大いに私の心を騒がせてくれたが、それ以上に刺激的だったのは、よく漫画にある、魅力的な女性に男たちがふらふらとついていくという現象が、まさに現実にあるということを知らされたことである。リビドーの力の偉大さを再認識し、大いに創作意欲を刺激された。 女性のスタイル・衣装も魅力的だが、私が六本木に行く目的は、青山ブックセンターと他2−3軒の店だけである。いずれもそこでしか手に入らないものばかりを購うために行くのだが、その青山ブックセンターがつぶれたというニュースを見た。私の中の文化的側面では、かなりつらい出来事だ。池袋のLoftも頑張っており、ここで日本では知られていないイラスト作家の画集を見つけたりしたのだが、こだわりの強さでは、まだまだ及ばない。 青山ブックセンターでは、独自の分類方法に表される思想性が、まったく違った空間を創り出しており、ここをうろつくだけで、頭の中でうずまく様々なものを混合し、また分離して、新たな考えを醸し出すことが出来た。いつも2−3時間店の中を歩き回って、最低でも数万円分の書籍を買い込んで、身体にかなりの負担を強いて帰ることになる。六本木に出かける用事はそんなにないし、来なければ来ないで済まされてしまうので、足が向くことは少ない。だから、飢えた者が食べ物に飛びつくように、色々買い込んでしまうのだ。 買い込む本の中には、普通の書店で普通に買えるものも、もちろんあるが、そこでは化学反応が起きない。青山ブックセンターの、独自のこだわりによる配列が触媒になって、反応が起きる。これは強いものも弱いものもあり、色々な思想が頭の中にどんどん流れ込んでくる。青山ブックセンターに行った後は、頭の中にたっぷりと蜜が満ちており、しばらく発酵させれば、様々な形で結実してくれる。 これでは、もう六本木に行けないではないか。行けば、あの店がないことを、現実としてつきつけられてしまう。だから、もう六本木には行かないことにする。もし行くとしても、用事をぎちぎちに詰め込んで、忙しくて行きたい店にはよれない状態を作り出すことにするしかない。そうすれば、私の中では、あの場所に、青山ブックセンターは存在し続けることになる。私は、幸か不幸か、日本の各地にそのような場所を持っている。 |