釣り堀 |
李・青山華 |
観光農園は陰惨だが、同じような商売でありながら、釣り堀は妙に明るい。 観光地の釣り堀は、普段釣りなどしないものにも、ちゃんと釣れるように、魚を飢えさせている。 餌をつけた針を振り込んだ途端に、魚が水面が波立つほど寄ってきて、あっという間に釣れてしまう。 初めて行ったときは唖然としたものだ。 これはもはや釣りではない。ちょうど、時代劇の吉原あたりの風景を思い出した。 格子戸の内側から、手を伸ばして客の袖を引くあれである。 「お兄さん、寄ってってよ」 「ねえ、ちょっと特別なことをしてあげるわよ」 「ねえ、こっちを見てよ、そら!」 「ああら、そこのいい男!」 本来の釣りの楽しみである、魚との息詰まるような駆け引きはないが、これはこれで、 自分が特別な人間になったかのような気分にしてくれる。 小さな女の子が釣れ過ぎて、両親が困っていた。女の子はもちろん大はしゃぎである。 こちらも、浮かれる心を抑えて、適度なところでやめさせたが、所用時間は5分もなかったのではないか。 これも、客の回転を早くする知恵なのかもしれない。 おまけに焼き代を一匹あたりで取っていたので、けっこうな儲けになるであろう。 遣り手ばばァという、岡場所特有の言葉が浮かんできた。 これと少し毛色の違う、渓流を使って仕立てた釣り場に行ったこともあった。 こちらは自然の川の一部を引いているので、本来の天然の餌もあるのだろう、なかなか釣れない。 それでも、目下の流れには、魚が群れになって泳いでいるのが見える。 本当の渓流釣りのように、スポットを間違えて、まったく釣れない、などということはなく、 場所を変えたりしているうちに、釣れる場所を見つけられた。 このあたりは、観光地の釣り堀より、はるかに高度な駆け引きが必要である。 言ってみれば、高級妓楼で太夫と戯れるようなものである。こちらもそれなりの返しをしないと、 無粋な客と疎まれて、妓楼にあがることすらかなわなくなってしまう。 8匹釣るのに1時間、その後、自分たちで炭火で焼くのに30分かけて、十分に楽しむことが出来た。 「またお出でになあまし」 と、三つ指をつかれて送り出されるような、贅沢な満足感があった。実際に釣りをしての満足感は、 こちらの方がはるかに高かったし、後々も話題に出るのは、こちらの釣り堀だけである。 観光農園と釣り堀、どちらも、買われるべく待っているものを、買い手が買うところには変わりがない。 それなのに、これだけ違うのは、提供される商品の特性によるものだろう。 果物は、とってからも置いておけるので、欲望の赴くままに取りまくることが可能だ。 魚はそうはいかない。そのままでは持ち帰れないし、旅行の途中では邪魔になるだけである。 一度に食べられる量だってそうそう何匹もというわけにはいかない。 つまり、あらかじめ満たされるべき欲望が制限されているのだ。 そのため、釣り堀に来る買い手は必要以上にがっつくことがない。 買おうとする側の、欲求充足の中に、駆け引きを楽しむという過程がある分、 やみくもに取り込むだけでない余裕がある。 買われる側にも、ある種の覚悟に基づく同意がある。 そのため、こちらがそれほど悲惨さを感じなくても済むのだ。 |
041006 |