壱.沖田総司
剣のことだけを考えていた、永遠の少年
沖田は、成熟して大人になるということとは無縁の人だった。子供の時に棒振りをして、筋がいいと回りのお兄ちゃんや大人たちに誉めそやされて、誉められるとうれしいからどんどん打ち込んで、その天びんを伸ばしていった。ちゃんと工夫する頭の回りのよさもあったから、回りの人間の得意な技もどんどん吸収していった。そのようにして、天然理心流という実践流儀の中で、純粋培養されてできあがったのが、天才剣士・沖田総司である。
特定の世界で早熟な者がそうであるように、沖田もまた精神面は子供のままだった。むしろ、子供のままの方が剣を使うときの迷いがなく、よりいっそうの凄みをもたせたかもしれない。だから沖田は大人の武士でありながら子供に好かれたし、子供と遊ぶことを喜んだのだろう。本来は、子供と遊んでいる方が楽しかったのかもしれないし、喜んで子供に剣術を教えたりしただろう。
精神面が子供だったために、立ち会った相手を斬るのに、何のためらいもない。子供は、自分の知らない世界の痛み、悲しみとは無縁である。他人の死というものに何の思い入れもなく、斬ると決めたら、悩むことなく斬る。刀が鞘から滑り出る時には、もう相手のどこを攻撃するかは決まっている。
沖田にとって、相手を斬るということは殺人術ではなく、技術者が熟練した技術を発揮するだけのことである。骨だけになった魚を客の前で泳がせる板前の包丁捌きや、手探りで真円を作り出す磨き職人のそれと同じ事である。そこには負の感情はまったくない。ただ、思ったとおりのラインで刀を廻すことができたとか、そこにしかない隙を、見事に突き抜くことができたとかいう達成感があるだけである。
人の死を技術発揮の延長に見ていた沖田は、生死ということについて、深く考えることはなかったろう。だから、自分が死病だとわかった時も、それほど動揺することはなかったのではないか。自分が病気で死ぬだろうことはある意味で天然自然のことであると受け入れ、それまでに自分自身の人斬りの技術をもっと高めていきたいと、職人的な熱情で思ったのではないだろうか。
沖田は生涯、刀を振ることについて罪悪感を持つことがなかったろう。そして病が進み、立ち上がることもままならなくなった頃、沖田は思う。人間は斬り易い。まるで斬られるために自分のほうに吸い込まれてくるようだったと。それに比べ、あいつは。沖田は、今まで斬ることのなかった、人間にもっとも近くいながら、野生を失わない動物に、効かなくなった腕に刀をかい込んで這いながら近づこうとする。その沖田を、黒猫は油断のない金緑色の瞳で見つめている。
「近藤さん、土方さん、やべえよ。おりゃあ、あいつを斬ることができねえ」沖田はそう呟いて、這い出た縁側の上で、残った力を振り絞って転がり、仰向けになった。視界の半分は屋根の翳、残りの半分は晴れ渡った青空である。沖田は息をするだけで数千本の針が刺されるような痛みをどこかに感じながら言った。「やっぱ、江戸の空はいいわ」やがて既に危険のなくなった縁側に黒猫がひらりとあがってきて、喉をごろごろ鳴らしながら、丸くなった。
04.08.27