弐.山南敬介
インテリゆえの悲劇
人間と人間のつながりというものは、本当にひょんなことでつながり、また離れていく。当人たちに問題がある場合もあるし、当人たちにはまったく関わり合いのないことで起きる場合もある。北辰一刀流の山南が、なぜ近藤たちの天然理心流道場に出入りしていたか。同じ流儀の藤堂に引かれてというのが妥当な線かもしれないが、その藤堂自身がなぜ、という話になってしまう。
それなりに、お互いを重んじることがあって、その上であえて自分の流儀を離れて、近藤たちと行動をともにしたのは確かであろう。その重んじるところが大きかったから、身分の保証もまったくない、とんでもなく困難な時期に、力を一にして、まったく新たな組織を作り上げることが出来たのだ。
夢中で動いている時は、色々なことを考える必要もなかったろう。新撰組を、京都一、いや、日ノ本一の武力集団として築き上げていく只中では、余分なことを考えることもなかったかもしれない。しかし、組織が安定してきて、総長の立場に押し上げられてしまうと、ゆとりが出来てしまう。そのゆとりが、山南の安定を乱してしまう。
そんな矢先に、新撰組の乗っ取りを腹に隠した伊藤が入隊してくる。同流の藤堂、山南には、当然打診があっただろう。この場合の流儀は、現在の学閥に例えるとわかりやすい。主流が他学であれば、組織内での位置は不安定で、不利益を蒙ることも多いし、場合によっては足を掬われる。藤堂、山南とも、そのような経験があっただろう。あるいは他意のないことを、両人が思い込みでそのように受け取ってしまったことが。
そして若い藤堂は伊藤組に鞍替えしたが、山南はそこまで割り切れない。人間として脂の乗り切った時期に、旗揚げから一緒にやってきてここまで作り上げた新撰組を、山南は捨てることは出来なかったろう。山南にとって、新撰組は、既に血肉のようなものであったから。だからこそ、山南は脱走しなければならなかった。
山南は、脱走することで、自分が新撰組にとって必要であるかどうかを量りたかったのだ。引き止めてもらいたい、などという女々しい心ではなく。もちろん、山南はわかったいたはずである。軌道に乗った組織に、総長などというものが必要ないということは。
土方との確執も確かにあったろうが、そのようなものは、ちゃんと動いている組織には付き物であり、それが原因で進退問題にまで発展することは滅多にない。人間にとって進退を考え始めるのは、自分がその組織にとって必要ではないのではないか、と疑問を持ったときだ。ワン・アンド・オンリーであるという確信を持てなくなった時、人は初めて揺らぐ。
これ以上中途半端な立場にいれば、伊藤のように誘うものもまだまだ出てくるだろう。今は心がはっきりしているからいいが、気が弱くなってきた時に、誘いに乗りたい心が出てくるかもしれない。それは、場合によっては新撰組を損なうことになるかもしれない。自分の全精力を傾注して作り上げた組織を。山南はそれを是としなかった。
山南は捕まるために逃げた。捕まれば、自分は隊法で裁かれる。誰も傷つくことも、非難されることもない。そして自分は新撰組を損なうような行為をしなくて済む。逆に総長でさえ、隊法によって裁かれるという事実は、若い隊士を奮い立たせ、そろそろたがの緩んできた古参の隊士の背筋をぴしっと伸ばすだろう。新撰組は、より稠密な組織となり、戦闘部隊として、理想的な空気が生まれる。山南はそれを望んだのだろう。
山南は、おそらく回りの全員に惜しまれながら、自刃した。それは、一つの仕事を成し遂げた者にとって、これ以上はない喜びであるだろう。去れば、新たな疵もない。全ての人間の心に、最もいい形の山南が残る。山南は他の被粛清者のように、無念の思い、悔しさを噛み締めながら死んだのではない。殉教者のように、喜びの中に死んだのだ。
山南が死んで、伊藤が離脱し、粛清されてから、新撰組の組織が揺らぐことはなくなった。新撰組は鉄の規律を持った戦闘集団となる。単体でこれほどの強さを持った戦闘集団は、世界を見ても珍しいだろう。そして新撰組は、時勢だのという言葉に惑わされずに、一直線に、滅亡への道を突き進むことになる。
04.09.22