参.土方歳三
すべて計算し尽くした、冷徹な武力集団のかなめ
京都:
組織を作り、人を動かすことにかけては一流の人間だった。しかし、そういうことのできる人間はトップに立つことができない。土方はそれに気付いていて、トップは近藤に任せて自分は組織を引き締め、常に最大の効率で能力を発揮できるように調整していた。いわゆる人格の校長に、やり手の教頭といった図式である。この教頭は純粋に校長を盛り立てることだけを考えていたので組織としての崩壊は起きず、その役目を全うした。
新撰組という組織は、その基本構造がいわゆる親衛隊のそれである。彼らは将軍を奉じ、心の底から心酔しきっていなければならない。そうでなければ将軍の前に立ち塞がろうとするものを撃退することはできない。思想を持ってはいけないのだ。将軍の敵対者即ち悪であり、悪は即ち滅せられなければならないのだ。たとえ将軍が理不尽なことをしても、それを是として進む。批判はなし。大局もなし。ただ、将軍を信じ、それに殉ずるものが親衛隊である。土方は近藤の要求でそれを作り上げた。
疑わしきは罰する、が最強の軍隊の証である。親衛隊は少しでも疑わしければ、思考を巡らすことなく人を斬らなくてはならない。それでも最初はちゃんと探査をしていただろうが、新撰組の名前が知られてくるにつれ一人一人を探査する必要はなくなってきた。後ろ暗いものは、新撰組の姿を目にしただけで自ら逃げるようになってきたからである。
逃げたものがいれば追いかけて声をかけ、相手の言い分を聞くだけでよい。斬りかかってくれば、それは将軍家の敵対者であるのだから斬ればよい。土方の作った組織は敵対者選別をすら自動化していった。こうして京の町は新撰組の剣で血に汚されたが、それは将軍家だけではなく天皇の意思でもあったのだ。
そして新撰組の悲劇は、あまりにも強くなりすぎたため親藩諸藩に反感を買ってしまったところから始まる。歴代の武家ではない彼らは武家同士のお約束を知らない。目上を立てて遠慮することを知らなかった彼らは、味方からも嫌われてしまった。そのため諸藩は新撰組の意見を冷静に受け取ることができず、感情的に反発してしまう。それを新撰組は、実践を知らないおぼっちゃま故のことと受け取り、両者の反発は深まっていくばかりになった。
鳥羽伏見:
鳥羽伏見の戦いの時、土方は刀槍の時代は終わったと言ったとされている。薩長の圧倒的な火力を目にしてはそう思わざるを得なかっただろう。しかし面白いのは、土方自身のそれからの戦い方である。彼は銃を使用した洋式戦闘も見事にこなしたが、要(かなめ)の一点突破の時は必ず刀による斬り込みをしているのだ。宇都宮城奪取の時も、宮古湾海戦の時もそうである。二股口でも、そして函館市街戦でも。
鳥羽伏見の時も火力の差は圧倒的だったが、薩長と同様の新式銃を装備していた幕府歩兵がさっさと敗走していたことを考えると、結局刀槍のみの新撰組が戦線を支えていたのである。土方は銃を持つということが人を臆病にするということに気づいたのかもしれない。銃を持ったものは間合いが遠い戦いに慣れてしまう。間合いの遠い戦いは命の遣り取りの実感を薄れさせる。そのため敵と肉薄した時の恐怖感がそれまでに比べてはるかに強くなる。
刀の届く範囲になった時に銃がいかに無力であるか。銃はその銃身が向いている方向の敵しか殺傷できないし弾がなければただの棍棒だが、刀はその存在自体が殺傷兵器であるため、薙ぎ、突くだけで簡単に命を奪うことができる。一閃で数人の戦闘力を一度に奪うこともできる。装填の必要もない。もちろん何人も斬るうちに膏を巻いてしまい、切れ味は鈍るが、突けばなんと言うこともなく殺傷できる。近い間合いでは圧倒的に刀の方が効果的であるし、乱戦になればさらに有利になる。土方は薩長との戦いの中でこれを実感したのではないか。
百姓出身の自分たちが旗本にまで出世したこの地を去るときも、土方には絶望感はなかったろう。喧嘩のやり方を変えれば今まで以上に戦うことができるだけの目星はついていただろうし、何より今度はふるさとでの戦いになる。町全体が自分たちに反発していたようなこの場所でもここまで戦えたのだから、地元に戻ればこれまでの比ではない力を発揮することができる。船の上から京の地を遠望し、来るなら来て見やがれと不敵に笑っている土方の姿が見える。
江戸:
しかし新撰組が江戸の地で戦うことはついになかった。官軍の進撃を食い止めるためということで甲府に行かされ、その地で戦うが、兵力の圧倒的な差はいかんともし難く、利を得ることはなかった。土方は救援要請に走り回るが、どこからも兵を調達できず身一つで戻ろうとした時には既に戦闘が終わっていた。ここで土方は江戸徳川に自分たちに対する好意などまったくないことに気づいたろう。
沖田は完全に療養に入り、永倉や原田たちとも別れ、新撰組はこの地で解散することになった。徳川慶喜は完全恭順をもって官軍に対し、江戸城は戦いのないまま明け渡された。それでも土方はまだ降伏することはできない。まだまだ戦うことができるし、勝ち目もある。奥州はまだ人も物も豊かにある。奥州連合をもって官軍に当たれば補給のない官軍は打ち砕くことができる。そして土方は近藤とともに流山に向かう。
流山:
しかし流山でも戦闘をすることはなかった。近藤が行ってしまったのだ。戦術・戦略に長けて戦をすることだけを考えていた土方と違い、近藤にはまず大義があった。上様をお守りする、という親衛隊としての誇りである。その将軍が恭順を貫こうとしているのに、それに背いて官軍に攻撃をかけようとするのは近藤の理念から大きく外れてしまっている。そしてどんどん将軍の傍から離れていってしまうことが近藤には耐えられなかった。近藤はあくまで親衛隊長たる自分に殉ずる道をとったのである。
その近藤の気持ちは実戦隊長であった土方には理解できなかっただろう。しかし近藤の気持ちが動かないことはわかる。そして土方は自分の一番大事な仲間、おそらくは太陽とも思っていた近藤と別れ、沖田とも離れ、試衛館のすべての仲間とも別れ、孤独な戦うだけの道に進んでいくことになる。自らがすべてを預けていた近藤を失った土方は、拠って立つべき理念を失った。ただ戦いをすることだけしか目的のない戦闘者となる。戦闘の中にしか存在意義を見出せない現世の死者となったのだ。そしてここから土方の戦(いくさ)狂いが始まる。
宇都宮:
宇都宮が戦略要地だから押さえるという軍義は実はなかった。宇都宮城は守りに固く、ここで城を押さえるだけの兵力と時間は旧幕府軍にはない。しかし落とせないといった大鳥に反発して、土方は少数の兵を率いて宇都宮城攻略に向かう。激戦の末、ほとんど無謀ともいえる突撃をして土方は宇都宮城を落としてしまう。華々しい戦功の蔭で、果たして土方の顔は笑っていたのだろうか。
流山以降の土方の戦いはどこか哀しい。いつも一人で突出して不可能と言われる戦だけを追っている。土方は死に場所を捜していたようにしか思えない。もちろん犬死ではかつての新撰組の仲間たち、死者も含めた仲間たちに顔向けができない。自分を信じてついてきた者たちに 俺たちはこんな死に方をするために新撰組を作り上げてきたのか、と問われた時に答えることができないからだ。そんな相手に誰が勝てるだろう。最強の敵と見えて刺し違えるのが理想だっただろうが、土方は勝ってしまう。そうでなければ脱出できてしまう。
会津-奥羽-蝦夷:
それまで京都からずっと一緒に戦ってきた会津軍が崩れ、ここでも土方は死にはぐれる。そしてもはや守るべき何ものも持たない旧幕府軍と奥羽を追われ、北の果て、かつて坂本と中岡が浪士による自治体を作ろうと夢見た蝦夷まで来てしまう。これより先は下がるところもない。頼みは新政府の対応遅れによる自治政府の樹立だが、新政府もこのままでは諸外国に対し統治能力のなさを示してしまうことになるため、死に物狂いで迫ってくる。
宮古湾:
追ってくる敵に対し、土方はまた大博打を打つ。宮古湾で新造船の鋼鉄艦を奪還することである。接舷戦闘で土方はまたしても斬り込みを試みる。新造船の奪還はならず、数多の死傷者を出しながらも土方はまた生き残ってしまい、荒れる海の上を最後の砦たる蝦夷へ戻って行く。その背中は寂しく、そして怒りに満ち満ちている。「どこまで弄(いじく)れば気が済みやがんだ!」その言葉は新政府軍に向けられたものではない。土方は黒々とした海を、白い波頭を白刃のように煌かせる波を睨んでいる。
蝦夷:
蝦夷に戻った陸軍奉行並は、やがて押し寄せる官軍に対し火の出るような戦闘を繰り広げる。正規の軍事教育などまったく受けていないこの男が、一人で軍事上の最重要地である二股口を守りきっている。やがて旧幕府軍が後方を抜かれてしまい、やむなく土方も軍勢を引き上げる。旧幕府が作り上げた要塞、五稜郭へと。
五稜郭:
この美しい造形の要塞は、旧幕府で洋式戦闘を学んだものが精魂を傾けて作り出した要塞である。どちらから攻められても対応できるだけの機能をもった最後の拠り所である。なぜこの時期に、こんな要塞がここに造られているのだろう。運命がここに旧幕府の終焉の地を定めたとしか思えない。しかしここでいかに持ちこたえても、全世界のどこからも援軍などくるはずもない。要塞はここに来て巨大な棺桶と同義になった。
もはや軍議は無意味だ。後はどの程度まで許されることができるか、という思いだけである。土方はそんな日和った場にいるわけにはいかない。彼は新撰組副長として多くの仲間と共に戦い、失ってきたのだ。どうして永らえることができよう。もちろん土方がたとえ講和に応じたとして、間違いなく近藤と同様斬首されることになるだろう。それはいい。だが講和に応じること自体をこの男は自分に許すことができない。
土方は生き永らえるつもりもなかったろうし、最後まで切腹を考えることはなかっただろう。そうでなければ蝦夷政府が八方塞がりとなり、敗北を目の前にした日に陸軍奉行並が自ら市街戦に出る必要などまったくない。土方の叫びが聞こえる。「俺はぜんぜん悪くねえ。その俺がなんで腹を切れるんだ」隊法で悪しとされて腹を切った同胞たち。隊法に照らしても、人間倫理に照らしても、悪くない自分が腹を切ればその同胞たちに何と言えばいいのだ。論理人間の土方にとってそんな無様な真似は死んでも晒せなかったろう。
かくして新撰組副長は函館で、戦いの中に命を落とす。銃弾を何発も撃ち込まれ死と向かい合った時、土方は叫んだ。「まだまだだ。俺はもっとすごい連中と渡り合ってきたんだ。こんなところで死ぬわけがねえ。新撰組、前へ!」そして土方は立ち上がり、弾幕の中に踊りこんだ。晴れ渡った空の下に銃の発射音が響き渡り、次第にまばらになり、やがて静けさが戻った。
04.08.27 - 04.11.16