微量毒素

赤の魔歌 〜ハチのムサシ〜 p.12

魔歌 赤の魔歌・目次 back end

1 猛龍過江
2 女神の使いのフーガ
3 孤龍昇天
4 戦いの終わりと、始まり

★ 猛龍過江

 ムサシは困惑していた。さっきからコジローの左に隙が見えるのだ。はじめの頃は、全く隙がなかったのに、ぽっかりと見える隙。たぶん、誘いなんだろうが、ひょっとしたら疲れてきて、破綻してきているのかもしれない。いやいや、そんな相手じゃない。でもね...

「ヌンチャクってのは、たちが悪いな」

 コジローは額の傷から流れた血を拭おうともせず、顔の左側に流れるに任せている。目はぴたりとムサシに据えられている。

「刀とかと違って、軌跡が読みにくい。避けたと思っても、鎖のところで曲がってヒットしてくるんだから」

 コジローのほうは、こちらが少しでも隙を見せれば、打ち込んでくる。誘おうにも、とりあえずいい受け手がない。こちらはまだ隙を見せることはできない。

「まあ、しいて言えば打撃武器だから、掠っただけじゃ効かないってのがいいところかな。刀なら、掠っただけでも血が流れるから」

 まだ、見える。あそこに打ち込みたい。でも、やっぱりどう見ても誘いだし。ムサシは溜息をついた。あそこに打ち込めないなら、他から崩すしかないよね。ムサシは左手の刀を前に差し伸べ、右手の刀を引いた。右剣を打ち込むぞ、の示威である。コジローは動かない。

「ま、しゃーないな」

 ムサシは呟き、左の牽制から突っ込む。ここで受けてくれればコジローの姿勢が崩れて、付け込む隙も出てくるのだが、案の定、受けてくれない。逆に前に出てくる。あああ。やっぱり付け込まれる。ムサシは体を変え、刃を相手に向けたまま、右手を左下に下げる。これで、コジローの接近は防げる。が。コジローの左回し蹴りが、ムサシが下げた右肩の上を狙って飛んでくる。ムサシは頭ごと下げて少し前に出る。かろうじて大きなダメージは受けなかったが、体が崩れた。そこを狙って、コジローの右膝がムサシの腹を突き上げてくるのを避けられない。ムサシは、転がった。

「く、そ、もろ入ったな」

 ムサシは転がりながら痛みを紛らわし、立ち上がった。が、鈍痛が残る。

「腹の打撃は後を引くんだよな...」

 ムサシは痛みをこらえて右剣を前にした。コジローが高速で迫ってきたからである。ヌンチャクが左下からうなりを上げて襲ってくる。ムサシは右足を半歩後ろに下げた。目の前をすごい勢いでヌンチャクがすり抜ける。コジローはそのヌンチャクの勢いを二の腕で受けて殺し、逆に打ち下ろしてきた。ムサシはそれを左の刀の柄で弾き、左足を軸に右向きに身体を回転させて、右の刀を振るった。間合いに捕らえられていたコジローは、腕から胸にかけて切り裂かれたが、その瞬間に後ろに飛んで逃げたため、致命傷は免れた。ヌンチャクは脇の下にかい込まれている。

「遠くても近くても、あいつは間合いをとれるのか」

 今度はコジローが呟いた。

「こんな時でなけりゃ、面白いんだが。厄介だな、こいつの剣」

 ムサシは剣先を天に向け、左右に大きく広げた。左右どちらから攻撃しても、もう一方が襲ってくる構えだ。中心を狙えば、両側の刀が同時に襲ってくる。コジローは左手の甲を相手に向け、右手でヌンチャクを掴み、捧げるようにして構えた。

「行く!」

 コジローは正しくムサシの剣の、その中央に飛び込んでいった。一瞬、二人は交錯し、位置を変えた。ムサシは左腕を攻撃され、コジローは右の剣で左腕を切られていた。ムサシは左手を軽く振った。

(骨はいっていない。でも、半分死んでるな)

 二人とも、少しずつダメージを溜めていっている。いずれにせよ、それほど引き伸ばすわけには行かない。すぐそばに倒れている仲間がいるのだ。

 コジローは両の手にそれぞれヌンチャクの棒を持ち、目の前に突き出した。今度はコジローが、左右どちらからでも攻撃できる構えをとったのだ。ムサシはそれに対し、両手を下げ、伸ばした剣先が斜め下を向く構えをとった。振り下ろす相手に、下から跳ね上げる剣を対応させる形である。汐合いも定まらぬうちに、ムサシが仕掛けた。両手を同時に跳ね上げる。太刀行きの速さは尋常ではない。コジローは左手を離し、右手を旋回させた。うなりを上げて、ヌンチャクがムサシの左手を襲う。左手が少し遅かったのだ。左に体を開いたコジローの顎をムサシの右剣がかすめる。ムサシは左腕に打撃を受けて、よろめいた。右剣を戻してコジローを牽制する。

(こりゃ、ちょっとやばいな)

 ムサシは左手に力を入れてみる。かなりの痛みが走る。これでは、左剣は使えない。ムサシは、左を捨てることにした。ついでに何をするつもりか、左の誘いに乗ってみよう。ムサシは右剣を前に伸ばし、左剣を腰から背後に、水平に伸ばした。その左手を掻い込み、片手突きを放つ。さっきから見える、コジローの左の隙を見事に突き通した。コジローは左を引き、切先をやり過ごす。同時にヌンチャクを押し当て、梃子の原理で一気に力を加える。左剣は見事に捕らえられ、乾いた音を立てて折れた。

「なあるほど」

 ムサシは後方に飛び退った。左剣は離している。折った直後に、ヌンチャクが回されて、伸ばした左剣の上を飛んできたからだ。ムサシは刀を正眼に構えた。

「やるねえ。いろいろ考えるもんだ」

「そっちこそ、思い切りがいい」

「思い切らされる身にもなってくれ」

「降参か?」

「これからだよ」

 コジローはヌンチャクを回し始めた。身体の回りを、ゆっくりと回している。それに対し、ムサシは刀を正眼にとったまま、まったく動かない。予告なく、コジローのヌンチャクが唸りを上げてムサシの右を襲った。



★ 女神の使いのフーガ

 プラタナスは尋常ではない速度で車を飛ばし続けている。

「お、おまえ、レース経験でもあるのか?」

「いや、実際に運転したことはあまりない。路面とタイヤの摩擦係数と、遠心力を考慮しながら運転している。理論的に、うまく行くはずだ。」

「まさか、ペーパードライバーか? やめろ、俺が運転する。」

「それでは遅い。俺は今度こそ間に合わなければいけないんだ。」

「おまえ...」

 カルラは、キスゲのことを思い、ほろりとするが、次の瞬間、物凄いGに飛ばされそうになる。

「プ,プラタナス?無事につけないと、キスゲの依頼も果たせないんじゃ...」

「理論的にはオッケーえええええ...」

 怒号と悲鳴を撒き散らしながら、車はすっ飛んでゆく。



★ 孤龍昇天

「ちょっと、不利かな」

 ムサシは荒い息をついていた。左手は柄に触れているだけだ。今にも下がりそうになるのを、気力で持ち上げている。

「ちょっと、じゃないだろう。もう諦めろ」

「それが、なかなかそういうわけにもいかなくて...」

 コジローは、ヌンチャクの片方を左手で掴んで身体の前に立て、もう一方を右手で、弓を引くように持った。ムサシは剣を右肩の上に、コジローに刃先を向けて構えた。必殺の突きの構えである。ムサシは言った。

「いずれにしろ、もう持ちそうもない。ちょいと危ないけど、これで攻撃させてもらう」

 コジローは薄く笑った。ムサシは無言の気合を放ち、一直線にコジローに向けて剣先を伸ばした。スピードはやはり視覚に捕らえられるレベルではない。剣は間違いなく、コジローの胸に突き立つかと思われた、が。

「なぜ止まる?」

 コジローの胸の直前で、刀は止まっている。コジローが両手で捧げたヌンチャクの鎖で、切先が止められているのだ。

「バカな」

 ムサシは目を剥いた。コジローが笑った。

「おまえの突きがあまりに早かったから受けられたのさ」

「なるほど...」

「あのスピードだと、途中で軌跡を変えることはできないだろう。俺はここで待ち、それで止められたんだ」

「大した度胸だぜ」

 コジローはヌンチャクを回して絡みつかせ、刀を引き外した。ムサシの手から、刀が離れて飛んだ。返すヌンチャクで、コジローはムサシを張り飛ばした。ムサシは跳ね飛ばされ、折られた刀のそばに崩れ落ちた。

「これで終わりだ」

 それでもムサシは立ち上がろうとし、四つん這いになって頭を振った。

「なかなか、これで終わり、とはなんないもんなんだぜ」

 ムサシはよろよろと立ち上がった。

「武器なしで、俺には勝てないだろう」

「それが、いろいろな手管があってね」

 ムサシは突然突進してきた。コジローが瞬間、ムサシを甘く見たのは否めない。しかし、ここまで来ても、ムサシは甘く見て済む人間ではなかった。

「!?」

 コジローは左肩に突き刺さっている刃を見た。コジローが折った刀の切先だ。ムサシは両手のひらにそれを挟んで突進してきたのだ。ムサシはにやりと笑った。コジローは右手でヌンチャクを回転させ、ムサシを張り飛ばした。ムサシは壁にぶつかり、崩れ落ちて動かなくなった。コジローはヌンチャクを投げ捨て、右手で刃を抜こうとした。しかし、血と脂で指が滑る。抜けない。コジローはふらつき、倒れるように腰をおろした。

「くそ、抜けない...」

 コジローは何とかして引き抜こうとするが、どうしても抜けない。次第に、コジローの頭も朦朧としてきた。

「血が流れすぎている...」

 コジローは後ろの壁に寄りかかった。大きく息を吐く。

「誰か。誰かいないのか...」

 イガが、コウガが、ムサシが、ユカルが。そして組織の理想を信じてきた者たちが、倒れている。一人残らず。この中で、意識があるのは、コジロー一人だ。

「誰もいないのか...」

 コジローはもう一度、大きく息を吐いた。窓の外が赤い。あれは、血か?いや、夕焼けだ。音もなく、燃えるように広がる夕焼け。

「少し、疲れた」

 コジローはもう一度夕焼けを眺めた。そして、目を閉じる。

「眠い。とてつもなく、ねむい」

 コジローの顔が、夕日に照らされながら、傾いてゆく。

「少し、眠ろう」

 コジローの脳裏に、青空が広がった。エミと一緒に意味もなく走っていた、あの日の青空。アザミと一緒に歩いた、雨が上がったばかりの青空。病で倒れた娘の部屋で見た青空。ダム湖の上に広がっていた青空。ユカルと、草を刈っていたときに見上げた青空。

「すぐに、帰るから」

 コジローは呟き、微笑んで首を倒した。今、この建物の中で、動くものは何もない。夕焼けはさらに濃さをまし、建物の中を真紅に染め上げている。影になっている部分は次第に黒さを増し、一日の終わりを告げようとしている。



★ 戦いの終わりと、始まり

 あくまで赤い夕日の中で、エミはぱっと顔を上げた。

「何か、来る!」

「この上、何が来るんだよ。レスキュー隊でも来てくれれば嬉しいんだけどな」

 やがて、クリスの耳にも、車の爆音が聞こえてきた。爆音...? 普通の音じゃない、ドラッグレースのような勢いで飛ばしてる感じだ。丘のすそを回って、車が見えた。尋常じゃない。回るときは完全に横を向いている。ドリフトしながら、セダンが建物に突っ込んでゆく。すごいスピード。ブレーキを踏んだ。おお、回る。1回、2回、3回、4...、おっ、真横を向いて建物に突っ込んだ。ドアが開き、人が出てくる。よたよたしている。おっ、転んだ。立ち上がって...もう一人出てきた。運転してた人だな。建物の壁の扉を開けて、操作盤をいじっている。あ、建物が...口を開ける...

「クリス。私、行って来る」

 エミは跳ねるように走り出した。見事な走りだ。本当に無駄のない、美しい走り。夕焼けに照らされて走るエミを見ながら、のんびりと座ってられるなんて、なんて贅沢だろう。これで、終わるな。もう少ししたら、病院に行けるんだろう。クリスは、エミがいなくなったので、安心して気絶することにした。じゃあ、しばらくのお別れだよ、ファントムレディ。クリスはゆっくりと後ろ向きに倒れた。


 キスゲは再び海の底でたゆたっている。が、ここはかなり浅い。光がたくさん差し込んでいる。揺らめく光。鮮やかな色の魚たちが遊んでいる。淡い緑の中で、キスゲは揺れる。

(大丈夫。私たちは理解し合える。私はみんなが来るのを待っている)

 測定機器をチェックしながら、せんせいはようやく顔をほころばせる。ヴァルハラは上を向き、大きなあくびをする。ここに窓はないが、外では真っ赤な夕焼けが広がっている。夕日はうるんだように燃え上がり、ここを、そしてあそこを、この世のすべてを照らしている。終末のように見えるが、これは新たなる始まりを告げるものである。物事はすべて、終わるところから、新たに始まるものだから。


魔歌 赤の魔歌・目次 back end

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