微量毒素

赤の魔歌 〜ハチのムサシ〜 p.11

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★ 思いがすべてを超える時

 コジローとムサシは少し離れて対峙している。一休みではない。お互いの隙を探り合っての対峙である。ムサシは剣を正眼に構え、コジローは仗(じょう)を左右の手に持ち、ムサシを牽制している。

「タフな男だな。腕もすさまじい。前に、おまえに匹敵するような剣術使いと戦ったことがある。俺はその男の剣を読み切れず、結果として殺す羽目になった」

「忘れたい過去はあるもんだな、誰にでも」

「おまえの剣技は、正統で力強い。おまえの剣は、たとえ見切れても、殺さざるを得ないかもしれない」

「まあ、そんなに気を使ってもらわなくても。それより自分の心配をした方が利口だぞ」

 ムサシは右半身の正眼の構えから、ゆっくりと刀を左に引いた。コジローはムサシの構えが極まるまで、どこにも隙を見つけられなかった。ムサシは左手を逆手に持ち替え、左足から右足へ高速で踏み込み、刀を水平に打ち込んだ。空を切る音が止まり、ムサシは目を見開いた。

「びっくり、だな」

「こちらこそ、何てえ早さだ」

「いやいや、どういたしまして。その仗(じょう)は木、だよな」

「樫だからな」

 ムサシはそのまま鍔競っていくが、コジローはよく押さえている。筋肉を軋ませながら、二人は言葉を交わしている。

「樫であれ、鉄刀木であれ、受け止められるなんて思ったこともないぜ」

「今日はこいつの機嫌がいいからだろうな」

「うまく外してるな。さもなきゃ、斬ってる。おまえ、思った以上に嫌な奴だな」

「そりゃ、お互い様だろう」

「いや。俺が鉄の分、負けてるような気がする」

「その通りだよ。退いたらどうだ?」

「次はそうはいかん」

 ムサシは引き外し、後ろに跳んだ。コジローは追わない。追って乗じられるほど、ムサシが甘くないことはわかっている。

「おもしろい...」

 コジローは呟いた。ムサシは、刀を右下に差し伸べ、左肩をぐいと出した。今度も仕掛けるのはムサシになりそうだ。

「まあ、受けて見なんせ」

 ムサシは左足を前に飛ばし、2段前に跳んだ。下段から人間の視力では捉えられないスピードで摺り上がる剣を、今度もコジローは樫の仗(じょう)で止めた。

「どこが違うって?」

 コジローの笑みが途中で止まる。ムサシが右手を柄から離したのだ。コジローはさらなる力を仗(じょう)に込めるが、押し退けることができない。ムサシは競り合いを、左手一本で受けているのだ。コジローは呆然として言った。

「化けもんか?」

「今日は、よく褒められるなあ」

 ムサシはにやりと笑って、空いた右手で、もう一本の刀の柄に手をかけた。

「まあ、こんなわけなんで」

 ムサシは片手にも拘らず、凄まじいスピードで宙に斜めの円弧を描いて、刀を振り下ろした。コジローはたまらず後ろに跳んだが、逃げ切ることは出来ない。ムサシの剣は確実にコジローを捉えた。

「なにっ?」

 声を上げたのはムサシのほうだった。ムサシの剣は、コジローの右肩から袈裟懸けに斬り下ろしていた。コジローの服はすっぱりと断ち切れていたが、刃は身体の上を滑っていた。切り裂かれたコジローの服の下に、黒い網のような模様が見える。ムサシは憤りを込めて言った。

「おまえ、まさか...」

 コジローは首を振った。

「驚かれても困る。より大きいショックを受けたのは俺だ。こんなに攻め込まれたのは初めてだ。屈辱だ」

「おいおい、兄さん、浸りきってるんじゃないよ。汚ねえぞ、てめえ。何を着込んでるんだよ」

「何を言っている。備えあれば憂いなし、というだろう」

「嫌だよー、諺おじさんは。若さがねえぞ、てめえ」

「ずいぶんガラが悪くなったじゃないか。鎖かたびらを着込まれてるのがそんなにショックか?」

「だってえ」

「まあ、これを踏まえて、向かって来たまえ。それとも、やっぱり退くか?」

「勝ち見込みがまた微妙になったじゃないかよー。これで終わりだと思ってたのに」

 ムサシの言葉に、今度はコジローがにやりと笑った。

「俺の方の勝ち見込みは、全然変わってないけどな」

「その自信はどこから来てるのよっ!」

 コジローは仗を立て、左手を添えて突っ込んできた。ムサシは軽く払うが、払った瞬間に逆の端がムサシに飛ぶ。ムサシはそれも大雑把に払う。

「仗は両端が刃の剣と同じだっていいたいのか? あいにく、その油断はない」

「うーん、勝ち見込みを100%から減らすべきかな」

「ふざけんなっ!」

 ムサシの言葉より早く、コジローの仗が振り下ろされている。ムサシは右足を引いて避け、左剣を振る。コジローは下がらざるを得ない。ムサシは両剣を下に差し伸べて交差させ、左右に跳ね上げた。コジローは少しだけ下がって避けた。コジローは両腕を浅く切り裂かれたが、その犠牲で次の攻撃の先を取ることが出来た。跳ね上がって開いたムサシの懐に付け込んで、コジローは仗を、ムサシの胸に真っ直ぐ突き込んだ。ムサシは身体を捻って避けたが、避け切れない。衝撃を受けながらも、ムサシは何とか、その突きをいなし切った。コジローが仗を引くのに合わせ、ムサシは一歩下がった。ムサシはコジローを見つめている。コジローもムサシをじっと見つめている。どうやら戦いは次の段階に入ったようだ。ムサシはふっと力を抜き、コジローを見つめたまま、言った。

「まったく、ここまで追い詰められるとは思わなかったぜ」

「まったく、同感だ。では、まいろうかな」

 コジローもムサシから目を離さない。二人の間合いは微妙に変化していた。今までより、離れてきている。いよいよ、一撃必殺の間合いになったのだ。

 守りながらの攻撃では、お互いに届かないことがわかり、二人は守りを捨て、攻撃のみに特化しようとしている。これから先は、どちらが仕掛けても、必ず大きなダメージをどちらかが受けることになる。もちろん、不用意な攻撃をすれば、仕掛けたほうが致命傷を負うことになる。この場の空気は、その緊張の度合いを高め始めている。静かに、しかし大きな支配力を持って。


 ユカルは痛む頭を強く振りながら起き上がった。

「あのガキったら...やってくれたわね...ぜったい仕返ししてやるから...」

 ユカルはゆっくりと歩き出し、第2フロアに向かった。ユカルはコジローとムサシが闘っているのを見た。その視線の隅で動きを感じた。

「あのままじゃ、だめだ...」

 イガは必死で体を起こし、渾身の力を込めて、投げ矢を投げた。投げることですべての力を使い果たし、イガは顔面から地面に激突した。

 ユカルはイガの動きを見て、走り始めた。イガのほうではなく、コジローとムサシのほうに。イガのほうに向かったのでは、間に合わないとわかっていたからである。そして、イガの投げた4本の矢を、すべて止められないこともわかっていた。時間が水飴のように引き伸ばされる。

 コジローは飛んでくる矢に気付いているが、そちらを向くことが出来ない。ムサシから一瞬でも目を逸らせば、コジローは利を失ってしまうから。

 ユカルは右手のサイを投げる。一番先頭の一本が接触し、弾き飛ばされる。左手のサイで2番目の矢を弾く。弾道は逸れて、回りながら飛んでゆく。3本目の矢に、サイを回す時間がない。ユカルは背中を向けながら、矢の前に跳んだ。

『人間は何をしてもかまわない。自分の生命や身体を損なうこと以外なら。』

 ウサミさんの言葉が、ユカルの頭の中に蘇る。

(でも、だめ。私は、あの人を損なうことが耐えられない。ウサミさん、私、やっぱり完璧にはなれない。)

 背中に衝撃が走る。弾みでユカルの身体が回る。回るユカルの目の前に、4本目が迫る。ユカルは手を伸ばす。ずっと、ずっと遠くまで。その矢はあまりにも遠すぎて、とても届かないように見える。それでも、ユカルは手を伸ばした。遂に手が矢に届くが、矢の勢いは手を弾き、ユカルの手は血を撒き散らしながら虚空になだらかな円弧を書いて沈んでゆく。ユカルの手を弾いた矢は、自らもコースを少し変える。ユカルはその結果を見て、にっこりと微笑みながら、ぼろくずのように倒れ込んだ。4本目の矢は、コジローの頬を掠めて飛び去った。

 コジローは、ムサシと対しながら、この瞬間、完全にムサシを忘れ去った。コジローはユカルのほうに振り向いた。この瞬間、ムサシは間違いなく、コジローを倒すことが出来たはずだが、ムサシは動かなかった。コジローは、ムサシに背を向け、ユカルに走りよった。

「ばかやろう、何やってんだ!」

 ユカルは薄く目を開け、微笑んだ。

「ごめん、コジロー。あたしが足を引っ張っちゃった...」

 ユカルは目を閉じた。

「ユカル!」

 コジローの声は、悲しみに罅割れていた。コジローはユカルを抱き起こし、腕の中に掻い込んだ。

「だめなのか?俺が受け入れなくても...俺は、回りの人間を不幸にすることしかできないのか?」

 まったく無防備に向けられたコジローの背に、ムサシは困りきった視線を向けた。

「困るんだよな、こういうの。」

 ムサシは刀を下ろし、頭をがりがりとかいた。コジローは手早くユカルの身体を調べ、そっと横たえた。

「急ぐ理由が出来た。遊びは終わりだ。」

「こっちも似たようなんで...」

 ムサシはどうにも困ったといった風情で、イガの方を示しながら言った。

 コジローは仗(じょう)を投げ捨てた。ムサシはこの機に飛び込もうと思ったが、出来なかった。コジローの身体から、ムサシの接近を妨げるような強い気配が立ち上っている。コジローは背中に手を回し、鎖でつながれた2本の棒を取り出した。ヌンチャクである。ムサシはコジローの本当の得物がこれであることを悟った。コジローから感じられる力は、今までの比ではない。

「ふん、面白い」

 ムサシは右手の刀を腰の鞘に戻した。そして、左手の刀を両手で持ち、右上段に掲げた。ムサシはコジローを見て、にやりと笑った。一瞬後、裂帛の気合とともに、ムサシはコジローに斬り込んだ。コジローはむしろ沈んだ顔でムサシの剣が迫るのを見ていた。


 エミはクリスを抱えるようにしながら、少し離れた丘のうえに登った。

「ここで、ちょっと休みましょう」

「OK。何にせよ、ここでじっとしてられるのは助かるよ。とりあえず、用も足りたし、急ぐ必要もないしね。長いこと待つことになっても、心配することもない」

「すぐよ」

 エミはじっと建物を見ている。クリスも建物に目をやり、ごそごそと体勢を整えた。ちらと見た限り、出血は止まっている。たぶん、大した事はないだろう。そう思って、クリスは身震いした。極東の島国で、ボウガンの矢が足に刺さって、応急手当をしたまま、エミのお兄さんを待っている。何でこんなことに巻き込まれたんだろう。クリスは神に祈った。神さま、今日のこの日を、私に与えられたことを感謝します。アーメン。

「大丈夫?」

 いつの間にか、エミがクリスの足を覗き込んでいる。

「ああ、大丈夫。出血も止まってるし、待っていられるよ」

「早ければ早いほどいいわ。おにいちゃんなら大丈夫よ。ねえ、病院に行こう」

「どうやって?ぼくは自転車じゃあ走れないし。お兄さんが来てから、タクシーか何かを呼んでもらって行こう」

 エミは力が抜けたように座り込んだ。

「...そうね。その方がいいわね...」

 クリスは長い吐息をついた。溜息ではない。ボウガンの傷も、疼くような痛みはあるものの、消毒して包帯を巻かれていれば、それほど気にならない。たぶん、エミと戦ったあの3人ほどひどいことになっているわけではない、とクリスは思う。あの3人は、自分じゃ縄を解けないんだっけ。まあ、エミのお兄さんもいるし、大丈夫だろう。それにしても、あそこの空気はおかしかった。クリスは実際に戦場に行ったことはないが、もし行ったら、あんな感じなのだろう。

「お兄ちゃんは大丈夫かな...なんか元気なかったし」

「大丈夫さ。あの建物の中で一番強いのはエミで、そのエミより強いんだから。エミって、大人と比べても強いんだね。びっくりしたよ」

「わかんない...クリスを傷つけられて、気がついたら身体が飛び出してたの。やられるなんて考えもしなかった。とにかく、クリスを守りたいとだけ思って...」

 エミは座って膝を抱え込み、身体を震わしている。エミだって、さっきの戦いは消化しきれていないんだ。クリスはそう思った。クリスはエミの肩に手をかけた。

「ねえ、エミ?」

「何?苦しい?」

「やっぱりエミは怖いね。絶対、浮気なんて出来ないな」

「浮気なんて、するわけないじゃない。私を庇って、ひどい目にあって...クリス、私、あなたの言うことなら何でも聞くからね。私のせいで...」

「言うことを聞くんだね」

「うん」

「じゃあ、これ以上「私のせいで」って言うのをやめること。いいかい、ぼくは君に言われてここにいるわけじゃないし、君に言われて傷ついた訳じゃない。ぼくがやりたくて、こうなったんだ。これ以上、私のせいで、なんて言ったら、ジェンダー・ハラスメントで連邦議会に訴えるからね」


 エミは顔を上げた。どこかぼうっとした顔で、クリスを見ている。

「いいかい、理解できていないようだからもう一度言うよ。これ以上、ぼくがか弱い男だから、守ってあげなくちゃならなかった、なんて言ったら、出るところに出て決着をつける、って言ってるんだ。ぼくだって、それくらいの意地はあるからね」

「あの、クリス、ごめん。でも、それ、何かおかしい...」

「ギャグだよ、たぶん。ずいぶんと事実には即してるけどね」

 エミの顔が歪んだ。笑っていいのかどうか、悩んでいるらしい。

「笑いなよ。この上、さらにギャグまでつまんないと言われた日には...」

 エミは膝の上に顔を伏せた。肩が震え始めている。そのまま、くぐもった声でエミは言った。

「ありがとう、クリス」

「お礼じゃなくて、賛辞が欲しかったな」

「それは無理みたい」

「ひどいな」

「今のギャグで笑うのは無理だけど、私の心は、クリスに奪われちゃったからね。責任、とってよ?」

「とれなかったら、骨の何本かを折られることになるんだね」

 エミはしばらく黙って、くぐもった声で言った。

「いいえ。クリスの身体の中に、1センチ以上の大きさの骨はないようにしてあげる。そして、私が水槽で飼ってあげるから、こーいこいこいって言ったら、餌を食べに来るのよ」

「こ、こえー。やっぱり、こえー。今のうちにはっきりさせておくと、ぼくはどっちかというと、片ふさが両手でも余るような豊満なバストが好みなんだけど...」

「クリース!」

 エミの声のきつさは、いきなり最終警戒ラインを示していた。

「ご、ごめん、実はぼくは、片手でも余るような、ささやかな胸が好みなんだ」

「クリス!」

 エミはクリスに襲いかかり、クリスの首を締め上げた。

「いて、いてててて。あし、足!」

「うるさい!」

 エミはそのまま、クリスをしっかりと抱きしめた。

「おいおい、エミ、今度はセクシャル・ハラスメントかい?」

「馬鹿!」

 エミはクリスを離さない。そして、クリスの胸に顔を埋めて囁いた。

「今度、あんな無茶をしたら、承知しないからね」

「何度でもやるよ、エミがあんなことをしたらね」

 エミはクリスを抱きしめる手に力を込めた。

「...ごめん」

「まあ、いいけどね」

 クリスはコジローのいる建物に目をやった。

「何が起きているのか知らないけど、コジローさんは大丈夫かね」

 エミはクリスに抱きついたまま、呪文のように言った。

「大丈夫。おにいちゃんは死なない」

「そうだね。ゆっくり、待とう」

 エミを抱きしめて、それでもクリスは不安げな目で、建物を見ていた。


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