微量毒素

魔歌:Bonus Track 〜白い雪の魔〜 p.2


魔歌 back end


0 ユカルの兄の話(白の魔歌 3より) p.0
1 ユカル、悪い神と去る p.1
2 ヤマオカとタシロ
3 事務所の中
4 タエコ
5 ミチヨ
6 シダラ
7 守りの神
8 事務所にて
9 神々の裁き p.2
10 薄命の中
11 金剛石
12 ホメオスタシス
13 一つの世界
14 なぞなぞ遊び
15 陰画の中、一つの断片
16 ウサギ
17 また一つの世界の終わり
18 降臨

神々の裁き

 吹き荒れる嵐が、ユカルの身体に神々の裁きを伝えてくる。既に身体の感覚はまったくない。肉体的には、ユカルはもうこの世のものではない。この裁きが終わることには、ユカルの身体は自己の意識で活動する有機体ではなくなっているだろう。

―おまえは、同胞を殺した

「私は兄の仇を討ったのだ。殺したのは同胞ではない。」

 口を開くと、肺の奥まで吹き荒ぶ雪風が流れ込んできて、ユカルの体温を奪ってゆく。それでも、ユカルは抗議を止められなかった。

―どのように考えようと、彼らはおまえの同胞だ。雲や風、熊やかわうそとは違う、おまえの同胞だ。おまえはその生命を絶ったのだ。

「あいつらは兄の生命を奪ったのだ。あいつらは誰が裁くのだ?」

―おまえの兄は、自ら死んだのだ。誰もその死に、手を下してはいない。

「そんな!手を下さなければ、許されるのか?その死を呼ぶ原因を作っても。」

―原因はすなわち結果とはならない。同じ目を見た人間がすべて同じ行動をするわけではない。

「責任はないというのか?そこまで追いつめた人間に。」

―責任というのは、人間の間の約束事である。神々はその約束に基づく判断はしない。神々が見るのは、他者を殺いしたものだけだ。それが生命を全うするのに必要であれば善し。それ以外の理由で他者をしいするものは悪し。

「そんな...」

―復讐は負の感情だ。それに囚われたものは、自らの生存すら危うくする。神々はそんなものは認めない。認めたら、全ての生命は死に向かってしまうからだ。

「でも、慈悲は?兄は死んだ。私にとってかけがえのないものが。それでも、神々が何も考えてくれないの?」

―神々に慈悲はない。道を誤ったものは、死ぬのが定めだ。おまえが道を誤ったのなら、死ぬがいい。

 吹雪はおさまる気配を見せず、荒れ狂う。ユカルも、本当はわかっていた。ユカルはここへ、死によって裁かれるために来たのだ。やってしまったことを、戻すことは出来ない。しかも、ユカルは神々の庇護を捨てた。神々の裁きを受けられる身ではなく、神々の下す罰を受けるためにやってきたのだ。そして、その裁きももうすぐ終わるだろう。ユカルはできる限り、立って裁かれるつもりでいたが、そろそろそれも不可能になりそうだ。ユカルは、膝をついた。雪の中に、体が半ば沈む。目の前に、黒い人影が見える。神なのだろうか。神が自らユカルを裁くために顕現したのだろうか。神々の裁きに従って死ねば、ユカルの魂は浄化され、ユカルは懐かしい人たちの元へいけるだろう。ユカルにとっては、それがもう最後の、ほんとうに望んでいることだった。黒い影を認めたすぐ後に、ユカルは視力を失い、雪に突っ伏し、沈んだ。

「吹雪の中で騒ぐのは何かと思えば、人間か。」

 黒い影は言った。しばらく、ユカルの姿を眺めていたが、不意に近寄り、担ぎ上げた。そのまま、何も言わずに、吹雪の中を現われた方向に戻って行った。



薄明の中

 ユカルは果てしなく続く蒼い薄明の中にいた。どちらを見ても、柔らかな薄明が続いている。誰もいない。ユカルは一人きりだ。これは罰だ。ユカルは思った。私は何か、とんでもなく悪いことをしたんだ。だから、こんなところに、一人っきりにされているんだ。ユカルは寂しさのあまり、大声をあげた。

「おおーい。」

「オオーイ...」

 木霊が返ってきた。しかし、その木霊は何かおかしかった。この薄明の世界の外側で、何かが返事したような。そして、それは、ユカルの存在を知り、動き始めた。ユカルは逃げようとしたが、どこにも逃げるところがないのに気が付いた。



金剛石

 男は、床についたまま、目を開いているユカルを眺めていた。布団は剥いである。手と足の先は、入念に布でくるまれている。顔も、目と口以外は布を当てられている。そして、手当のための布以外は一切身に帯びていない。男は近づき、ユカルの顔の前で指を振った。ユカルは反応しない。

「凍傷はひどいが、手当はした。これは直る。さすがに、若いだけのことはある」

 男は呟いた。

「問題は、精神か。さすがに、子供でこれだけのことをするのはきつかったか。いや、逆かな。子供だからこそ、これだけのことが出来たか。」

 男の脇には、新聞が広げられている。その新聞には、開発局出張所の、大量惨殺事件が報じられていた。男はユカルの膝の後ろを掴んで持ち上げ、足を大きく広げさせた。足の間を覗き込み、指で広げて見、足を戻した。

「処女か。」

 布と薬を替え終えた男は、そっと毛布をかけた。男は汚れ物を持ち、ユカルに背を向けて、部屋の外に出て行った。男は戻ってくると、いすに腰掛けて思案に耽った。室内には薪ストーブの燃える音だけが静かに響いていた。

「どうせ、損なわれたんだしな。一度リセットして、作り直してやろう。」

 不意に男が呟いた。男の右頬に、刻み込んだような筋が現われた。どうやら、これがこの男の笑顔らしい。

「12歳の処女の娘か。材料は申し分ない。おれが出来なかったことを、こいつで実現してみよう。」

 男は立ち上がり、ユカルの床の脇に行った。

「おい、ユカルよ、雪の悪魔よ。おまえはこれから、羊の群を食い尽くしながら進む、肉食獣になるんだ。何の能もない羊たちは、より優れたものによって贄に供されるだけのものだ。俺はそれをおまえで証明して見せよう。馬鹿どもばかりが歩き回る、この世界の中で。」

 男の頬には、深く筋が刻み込まれていた。外では純白の粉雪が、朝日に照らされてくるくると舞っていた。吹雪は過ぎ、雪原は朝日を受けて、金剛石を撒き散らしたように煌き、燃え立っていた。



ホメオスタシス

 ストーブの上で、熱せられた蓋付きの容器から、気化した水分が絶え間なく放出されている。その気体は閉ざされた空間の中の空気を潤しながら、漂い、冷えた開口部に嵌め込まれた、外気の影響を受けて低温を維持している珪素化合物の表面に触れ、瞬時に液体に戻る。その液体は、次々に数を増し、液体同士が融合し、自重が摩擦係数を越えると、珪素化合物の表面を滑り落ちる。そうするとそこに液体の道ができ、次から次へと、滑り落ちている。物理化学的側面から見ると、この閉ざされた空間は、ひたすら蓋付きの容器内の水を、珪素化合物のところに送り続けるシステムになっている、と言える。その閉ざされた空間の中に、ユカルはいた。

 ユカルは床の上に座っている。誰かが来て、動かさない限り、ずっと同じ姿勢で座り続けている。食物の摂取も、排泄も、誰かがさせようとしない限り、しない。呼吸だけはゆるやかに続けているが、それも通常の人間の半分くらいの呼吸数である。それでも、ユカルは生きている。閉ざされた空間の中の交換システムと同じかもしれないが、明らかにユカルは生き続けている。



一つの世界

 世界は、だいだい色と水色だった。水色がくると、すべてのものが慌ててどこかに行こうとする。水色は怖いものだ。ユカルは、水色が来ると、それが去るのをひたすら待っていた。だいだい色がくると、ユカルはほっとした。心の中で音楽が鳴ることもあった。でも、音楽の中には、水色が混ざっているものもあり、そういう音楽が聞こえた時は、ユカルはいないふりをした。いないふりをしていると、音楽は消えて、また色のない世界に戻った。そうすると、ユカルはじっと、だいだい色を待ち続けるのだ。

 世界は、いつの間にかざわつき始めていた。振動がいたるところにあり、振動は、それぞれ大事な秘密を隠し持っているようだった。ユカルは、その秘密を聞くと、白い世界に引きずり出されるのだと言うことを知っていた。それは、ユカルにとって、水色よりも怖いものだった。振動はそれぞれ形を持っている。輪の形を持っている振動が、ユカルは一番怖かった。それは、ユカルの身体をがじがじと噛むのだ。ユカルがどんなにじっとしていても、それはユカルの身体を見つけて、噛みに来るのだ。そんな時、ユカルは左右に首を振った。いつまでも、首を振っていた。

 ある日、青い色が現われた。青い色は、世界の半分を覆い尽くすほど大きく、水色よりも怖かった。それでユカルはいなくなった。しかし、青い色は、尖った笹のような形の魚を飼っていた。魚はいくらでも現われて、くるくると回っては消えていった。とても怖かったが、銀色に光りながら回るその魚を見ていると、ユカルは面白かった。面白い?これはどこから来たものなのだろう。薄い緑色のこれは、ユカルのいるところの隅のほうを、持ち上げて、冷たい空気を運んでくる。これは、いや。でも、薄緑色が消えていくと、ユカルは寂しくなった。寂しい?この小豆色はどこから来たのか?これは空を切り裂こうとする。ユカルは、止めようとしたが、何もないユカルは何ができるのか?何もできない。

 すると、また輪っかが現われた。輪っかは、ユカルの、ない身体に噛み付いてくる。絶望に揺れるユカルの目の前を、銀色のものがよぎった。ひとつ、ふたつ、そしていくつも。それはお魚だった。お魚は、輪っかと身体の間に入り、はねる。ぱちん。輪っかが弾けた。いくつものお魚が、翻る。ぱちんっ。輪っかがぜんぶ弾けた。濃い緑がするすると伸びて、ユカルの身体を巻き取ってゆく。黄色が空を走り、空が大きく裂けた。そこには、世界があった。ユカルは、全身で世界を拒否しようとした。声の出ない口をいっぱいに開けて、い、と唇を形作った。そして、その咽喉の奥から、白い閃光が迸った。

「やだーっ!」

 ユカルの目の前に、兄よりも歳をとっており、父よりも歳をとっていない男がいた。男はじっとユカルの目を見つめながら、喋っていた。

「だから、人間のしていけないことは、自分の身体を損なうことだけだ。他には、何をしてもかまわない。」

と、話を締めくくり、ユカルの目を覗き込んできた。今のユカルの叫びを、まるで聞いてもいなかったように、至極平静に、訊いてきた。

「何か食べるか。」

 ユカルが、突然回りに現われた世界に馴染めず、何も答えないでいると、男は立ち上がり、ストーブの上で時おり湯気を吹き上げている鍋から、何かを食器によそった。ユカルのところまで来ると、スプーンを添え、差し出した。中には、鮭とジャガイモが入っていた。食欲をそそる匂いが立ち昇り、ユカルの鼻腔を刺激した。

「はっくしゅん!」

 くしゃみをした後、ユカルは椀を受け取り、がつがつと食べだした。食べながら、これは今までに何回も食べたことがある、と言う考えが浮かんだが、これがオレンジの仲間の一つであるということは、もうユカルの頭の中から消え去っていた。ユカルは、その存在している世界を住み替えたのだ。



なぞなぞ遊び

 男はユカルの様子をじっと眺めていたが、ユカルが食べ終わるのを待って、質問をした。

「昼と夜はどちらがより暗い?」

 ユカルはしばらく男の顔を見て、答えた。

「昼。」

「どうして?」

「昼間に洞穴に入ると、灯かりがなければ何も見えない。でも、夜は同じ洞穴に入っても、ものの形がわかる。」

「なるほど。13個のりんごを3人で分けた。何個ずつに分けられた?」

「4個ずつ。」

「それで全部か?」

「あとの一つは、家の神へ渡す。」

 男は満足したようだった。

「回転も早い。論理的な思考も損なわれていない。では、もうひとつ質問をする。花は摘まれて泣くか?」

「泣く。命を絶たれて、泣く。」

「では、花を摘むのはやめるか?」

「やめない。なぜなら、摘まれるのが花の属性だから。」

 男は完全に満足したようだった。ユカルは、そわそわして訊いてみた。

「おじさん、ここはどこ?」

「私の名はウサミだ。ウサミさんと呼べ。ここは、山の神に守られた、雪の中の家だ。俺の家だよ。」



陰画の中、一つの断片

 ウサミさんはユカルに色々なことを教え、訓練させた。格闘技から、刃物の扱い方、銃器の扱い方。薬物の利用法に、様々な現象の理由と利用法。人はどういう時にどういう行動をとるか。それをうまく自分に都合のよいように使う方法。人の心に潜む、醜い心について。執着するものを利用する方法。ほとんど何もなくなっていたユカルの精神は、ウサミさんのもたらす全てを、貪欲に吸収した。ぽっかりと開いた穴を埋め尽くそうとするかのように。

 また、ウサミさんは、長いことユカルと話をした。命について。人間について。あらゆる生き物について。ウサミさんは、花の悲鳴の聞き方を教えてくれた。

「ユカル、ここにきれいな花が咲いているね。この花が欲しいかい?」

「欲しくない。」

「そうか。では、私のために摘んでおくれ。私はこの花を、自分のものにしたいのだ。」

 ユカルは頷き、手を伸ばして花を折り取った。

「聞こえるかな、ユカル?花の叫び声が?」

 ユカルは首を振った。

「聞こえるはずだぞ、ユカル。この花があげている、悲痛な叫び声が。前に言ったろう?目に見えるもの、耳に聞こえるものだけがすべてではないと。五感の全てを使えば、普通の人間には感じられない事物を感じ取ることができる。それは、そんなに大変なことではない。」

 ウサミさんは、ユカルの持っている花を指し示した。

「おまえの折り取った花の、茎を見てごらん。」

 ユカルは茎を見た。折り取られたところから、透明の滴が垂れている。ユカルはウサミさんの顔を見た。

「それが、花の血だ。花は血を流している。わかったね。」

 ユカルは滴を見、頷いた。

「時間を短縮することは私にもできないが、おまえの経験と照らし合わせながら、教えてあげよう。花は折り取られるとどうなるかな。」

「枯れる。」

「その通り。枯れた、ということが、花にとっての死だ。折り取られた花は、そのままに置かれると、死ぬ。花を水に挿すと、そのままに置いたより、長い間命を保つ。これは、本来、根が供給する血を、水で代替するということだ。治療の余地のない、死を待つ患者を、病院でチューブにつないで生き長らえさせるのと同じことだ。花にとって、命が助かるということにはならないだろう?」

「少しずつ、死んでゆくということ?」

「そう。これは治療ではない。死の先送りだ。だから、花瓶に挿されている花は、悲鳴をあげつづけているだろう。」

「怖い...」

 ユカルは花を捨てようとした。

「それはいけない。そこに捨てられたら、花は何のために摘まれたのだ?意味のない死より、意味を持った死のほうが、花にとって望ましいとは思わないかね?」

「意味のある、死?」

「私が花を欲しがったのは、それを部屋に飾れば、部屋が華やかに、楽しいところになるだろうと思ったからだ。ここで捨てられたら、花はここでただのゴミになってしまう。部屋に飾れば、装飾として、私が楽しむことができる。」

「でも、その意味は、花には何の関係もない。花は、どっちにしても死ぬだけじゃないの?」

「そうだよ。花は、花にとって何の関係もない、私の欲求によって命を絶たれた。そして、花はずっと昔から、そのように扱われている。もちろん、花だけじゃない。ほかの植物も、まったく関係のない、人間や動物によって、刈られたり、食われたりしている。雑草に至っては、美観を損なう、というだけの理由によって、根こそぎ刈られてしまう。」

「そうだね。」

「もちろん、植物だけじゃないだろう。牛や羊も同じだし、我々もウサギや鹿を狩って、自分の腹を満たしている。ここにあるのは、そのものを食おうとするものの意思だけだ。食い物にされるものの意思は、まったく顧みられないか、故意に無視されている。場合によっては、食べられることで繁栄していくんだから、食べられて幸せなんだなどと正当化されることもある。自分が食べられる立場になったとき、そう言った者は、そんなことを認められるのかね。」

 ユカルは首を振った。ウサミさんは頷いた。

「そう、食べられる者は、食べる者の勝手な論理で食べられてしまうのだ。いいかね、あらゆる場合に、これは言えるのだ。食べられるものに選択権はない。そして、すべてのものは、命を奪われたくなぞないのだ。生命の価値は、全て同じだ。」

 ユカルは頷いた。

「しかし、食べるものの論理が否定されたら、今度は食べるものが生きていけなくなる。当たり前だね。つまり、あらゆるものは、自分の欲するままに行動するしかない。そうでなければ、自分を損なう事になってしまうから。そう、あらゆる生命は、自分を維持するために、他の生命を損なってもかまわない、ということになるんだよ。」

 ユカルは自らの折り取った花を見下ろし、深く頷いた。

「だとしたら、人の命を奪うのも同じではないかね?人が、自分の満足のためだけに、花の命を奪ってもかまわないのなら、人の命も、他の人間の満足のために奪われても、仕方がないんじゃないのかね。」

 相手に気に入られたいと思っている、13歳の少女にとって、その論理を受け入れてしまうことは、それほど困難なことではなかった。このようにして、ウサミさんは、巧みにユカルの倫理の箍の位置を移動させていった。花の咲き誇る夏は須臾の間に過ぎ、白い雪に包まれた家の中で、ユカルは14歳を迎えていた。



ウサギ

 雪山の中で、ユカルは自分が生き延びるためにウサギや鹿を狩り、食卓に乗せていた。それでも、獲物が多すぎた時は、解体して貯蔵したり、しばらくの間なら生かしておくこともあった。あるとき捕えてきたウサギの一匹が、とても、ユカルになついた。ユカルはウサギと遊んでいる。ウサギはユカルの回りを飛び跳ね、戻ってくる。そして、ユカルに寄り添って目をつぶり、休み始めた。ユカルも追い払おうとせず、じっと耳をたたんで眠るウサギに寄り添い、見下ろしていた。

 何日かが経ち、ウサギはユカルが「ウサギ。」と呼ぶと、どこにいても走り寄ってくるようになった。その様子を見ていたウサミさんは、ユカルに言った。

「きょうは、そのウサギを食べよう。」

 ユカルは頷き、ウサギを呼んだ。

「ウサギ、ウサギ。お出で。」

 ウサギは一直線にユカルに走り寄ってきた。ユカルはその首筋を掴み、まな板の上に寝かせた。ウサギは逃げようともせず、鼻をひくひくさせている。ユカルは包丁を取り、首に刃を押し当てて、力を込めた。ウサギの首は、ゾクリという音とともに、あっけなく落ちた。そのまま、いつも通りさばいて、料理を続けるユカルを見ながら、ウサミさんは満足そうだった。

「もう、こいつに教えることはなさそうだ。」

 後は、さらに技術を研ぎ澄まして、実際の場面で醜態を見せるようなことのないようにしていくこと。ユカルの身体が、次第に女らしい曲線を見せるようになってきていたので、ウサミさんは次のステップを考え始めていた。



また一つの世界の終わり

 ユカルは、いまや雪山を自由に動き回り、狩をしていた。熊ですら、銃を持ってゆけば、何の問題もなく狩ることができた。重すぎる獲物はその場で捌き、頭は山の神に捧げ、残りは橇に乗せて持ち帰った。その日、ユカルは粘るような眠気を感じ、腰が重いような気がしたが、かまわず出かけた。山に上り始めたとき、おしっこを洩らしてしまったような、異様な感覚があった。確かめると、股間が血に濡れている。痛みはないが、無理をして身体を損ねてはならないという鉄則にのっとり、ユカルは家に戻った。

 話を聞いたウサミさんは、生理用品を出してきて、手当の仕方を教えた。これは病気でもけがでもないが、感覚を狂わせる可能性があるということで、その期間の狩りは避けるように教えられた。ただし、経験をつんで、自分で問題ないと判断できるようなら、その判断に従ってもかまわないということだった。

 ユカルは、自分の状態が穢れと言われるものであることに気付いていた。この状態で山に行ったのだから、山の神は怒っているに違いない。ユカルは、山の神を恐れるのではなく、これから何が起こるのかを、期待を込めて待っていた。神の怒りで死ぬのなら、それもいいし、神の声が聞けるなら、それも面白いと思っていた。そして、その結果起きたのは、意外な方面のことだった。



降臨

 ウサミさんは、ユカルに、この家を出てゆき、里に下りるように言った。ユカルもこれには異をとなえ、ずっと一緒にいさせてくれと頼んだが、ウサミさんは、女の徴(しるし)があった以上、ここに置いてゆくわけにはいかないという主張を崩さなかった。

 珍しく反抗はしたが、ユカルも、ウサミさんのルールを受け入れ、出て行くことにした。それからウサミさんに会ったことはない。最初に行くべきところは、ウサミさんが教えてくれた。大きな街に出て、ある事務所を尋ね、ウサミさんに仕込まれてきました、と言えばいいと。

 ユカルがウサミさんの家を離れる日、空は鮮やかに晴れ渡っていた。雪原は固く凍りつき、日を受けて、ぎらぎらと燃え立っていた。ユカルは目を保護するためのサングラスをかけ、スキーを履いて立っていた。ウサミさんは、家の前に立ち、新郎新婦を祝福しようとする牧師のように、片手を高くあげて、別れ際に言った。

「ユカルはもう大丈夫だ。肉食獣のように生きる生き方を教えたから、もう誰かに食われることはない。私の芸術品が、下界を鮫のように遊弋するのを想像しよう。おまえは、見なくちゃいけない。誰をでも、何をでも。そして、自分の欲するところをするだけでいい。おまえを愛しているよ。じゃあ、行きなさい。」

 ユカルは頷き、振り向いて人里へ向かう道を、滑り始めた。たおやかな身体が風を切り、凍りついた雪原を滑らかに滑走していく。ユカルが遠ざかってゆくのを見送りながら、ウサミさんは片頬に、深く筋を刻み込み、微笑んでいた。やがてユカルの姿は、雪原に反射して乱舞する光の中に消えた。そして、14の少女の形をとった肉食獣が、羊の群れの中に下り立ったのだ。


魔歌 back end

微量毒素