魔歌:Bonus Track 〜白い雪の魔〜 p.1
魔歌 | start | next |
0 | ユカルの兄の話(白の魔歌 3より) | p.0 |
1 | ユカル、悪い神と去る | p.1 |
2 | ヤマオカとタシロ | |
3 | 事務所の中 | |
4 | タエコ | |
5 | ミチヨ | |
6 | シダラ | |
7 | 守りの神 | |
8 | 事務所にて | |
9 | 神々の裁き | p.2 |
10 | 薄命の中 | |
11 | 金剛石 | |
12 | ホメオスタシス | |
13 | 一つの世界 | |
14 | なぞなぞ遊び | |
15 | 陰画の中、一つの断片 | |
16 | ウサギ | |
17 | また一つの世界の終わり | |
18 | 降臨 |
魔歌:Bonus Track 〜白い雪の魔〜 |
李・青山華 |
ユカル、悪い神と去る |
ユカルは相談したのだ。家の神に、何度も、何度も。しかし、家の神はどうしてもユカルの行動に賛成してくれなかった。冷たくなった兄を見つめ、もうけして自分の髪を撫でてくれることのない手に触れ、もう、けっして自分の名を呼んでくれることのない、唇に触れ。こんな目に合って死んだのに、兄は笑いを浮かべている。その笑いを見ると、ユカルは家の神の言うことがわかるような気がしてしまい、慌てて目を逸らすのだ。目を逸らして、家の暗い隅、穢れた場所を見る。そこに、悪いものが蟠っており、兄の死を呪っているのだ。悪いもの?兄の死を呪うものは、ユカルにとっては善であった。 兄が死んでから三日、ユカルは兄の傍らで、家の神と話し続けていた。ユカルの望みと、神の示す道は、どうしてもひとつにならなかった。兄の魂はもう抜け出て、野山の神の下へ帰って行ってしまう。ユカルは、兄を一人で行かせる気はなかった。そして、家の神はそれに反対し続けているのだ。ユカルは、神の庇護を捨てる決心をした。 新しい水を汲み、洗い桶に満たす。まだ日の昇らない晴れた空は、澄み切って蒼く、その下でユカルは服を脱いだ。何も身に付けず、夜明け前の静けさの中で12歳の身体を開く。体中に寒気が噛み付くが、もう三日、火の気のない小屋で神と話していたユカルには、何ほどのこともない。ユカルは洗い桶に手を差し入れた。氷かと見まがう、鏡のような水の表が、波紋を作る。切れるような冷たさの透明な液体は、窪ませた掌の上で、蒼を写して揺れる。 「わが身を守る神よ、わが身内より去れ。」 ユカルは、掬いとった水を、頭の上から滴らせた。水は身体に馴染まず、表面を転がり落ちる。転がり落ちながら、ユカルの身体に痺れるような痛みを残していった。乳首が痛いほど立ち、皮膚が引き攣る。ユカルは何度も水を浴びた。この狂気の振る舞いで、ユカルを守ってくれる善い神々は、ユカルから離れて行った。守りを失くしたユカルの身体に、今まで近寄ることの出来なかった、悪い神々が近寄ってくる。ユカルはそのおぞましい気配を感じながら、手を広げ、足を開いて立った。 「わが振る舞いを善しとするものよ、わが身体に宿り、わが振る舞いを助けよ。」 ユカルは今まで感じることも見ることもなかった悪いものが、自分の身体の表面を滑りながら入り込んでくるのを感じた。それはやがてユカルの全身を包み、一瞬にして消えた。ユカルは目を開いた。世界は冴え冴えとユカルの目に映った。ユカルの眼は、蒼穹を映し込んだからだけではなく、青黒く光っていた。ユカルは水桶を見下ろした。水はまだまだたっぷり残っている。ユカルは水桶を持ち上げ、顔の高さまで上げて、縁に口をつけた。ユカルは水桶を傾け始めた。大量の水が、ユカルの咽喉に流し込まれてゆく。溢れた水流が、ユカルの身体を愛撫するように滑り落ちた。水流は弾かれる事なく、乳首を嬲りながら滑り落ち、へそをなぞって、滑らかな下腹をまさぐり、淡い、柔らかな茂みの中に滑り込み、そして太ももを回りながら、ユカルの身体に染み込んで行った。ユカルはごくごくと大量の水を嚥下しながら、次から次へと絶え間なく続く水流の愛撫に、透き通るように白い無垢の身体をおののかせた。ユカルの、まだ人間を知らない身体は、悪い神々に捧げられたのだ。 水桶いっぱいの水を飲み干したユカルは、水桶を投げ捨て、脱いだ服をそのままに小屋に戻った。兄の死体をちらりと眺め、ユカルは大股で歩いて部屋を横切り、物入れから白い衣装を取り出した。それは、母が父の元に来た時に、身に付けていた婚礼衣装だ。ユカルは身体も拭わずに、それをつけた。服は、大きいはずなのに、ユカルの身体をぴったりと包んだ。父の思い、母の思いがユカルを呼んだが、もうユカルの耳には届かなかった。 ユカルは兄の弓を取ったが、突然弦が弾け、ユカルの頬に一筋の傷を作った。ユカルは役に立たなくなった、兄が大事にしていた弓を投げ捨て、別の弓を捜した。ユカルは矢を満たした矢筒と、弓を取り、山刀を二つ取り出した。空は明け始め、鮮やかな蒼い空に、白い光の筋が走る。ユカルは光を目にして身震いし、小屋の扉を閉めた。窓も全て閉じ、暗闇の中に潜んだ。この日、この暗闇の中で、どのようなことが行われたかを知るものはいない。 十分すぎるほど長い一日が終わりに近づき、太陽がその姿を隠し、空を血の色に染め上げたころ、小屋のドアが開いて、ユカルが出てきた。その瞳は伏せられ、時に見える瞳孔は青く光るようだった。唇は朱もさしていないのに、赤く艶やかに光り、口の端はきゅっと釣りあがり、笑顔を形作っていた。とても12歳には見えない仕草で、ユカルは髪をかきあげた。そしてもう一度、唇の両端を吊り上げて、妖艶に微笑むと、滑るように歩き出した。12歳のユカルにとって、大人用の矢筒や弓は大きすぎるのだが、何の妨げもない、滑らかな動きを見せて、ユカルは行くべきところに向かって歩み去ってゆく。後には、ユカルと兄の小屋が、扉を開け放たれ、大きく開けた口のような暗がりを見せて佇んでいた。 |
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ヤマオカとタシロ |
ユカルが、目的地である開発公団の事務所に着いたのは17時半。そこで働いている人間は、まだ一人も帰っていなかった。ここに勤めている人間は、現在は9人。初雪もとうに降り、降り積もった雪がそろそろ根雪の様相を呈してきた今では、開発はしばらく休む事になる。来年になって、雪が融けるまでは、さらに少ない3人で管理しなければならないのだ。そろそろ封鎖に近い状態になるので、その準備で遅くなっているのだ。とは言え、そんなに長居して対応することはない。もう数日の間に片付ければいい事なので、そろそろ、皆帰り支度を始めている。 ユカルは慌てることなく、プレハブの建物の周囲の雪に、自らの血を塗りつけた木片を挿し始めた。10程度の木片で建物をぐるりと囲み、矢筒と弓を下ろし、玄関の見える位置にしゃがみこんだ。山刀は、背中に交差させて縛り付けている。ほどなく、若い男が一人、玄関に出てきた。 「これから町で女の子たちと会う約束があるんだよ。おまえも来る?」 まだ中にいる者に呼びかけている。 「行く?じゃあ、来いよ。急げよ。置いてくぞ。ま、ちょっと待てよ。車を回してきてやるから。」 男は歌うように呼びかけてから、建物の左に回ろうとした。ユカルは十分に弓を引き、放った。矢は音もなく男の首に刺さった。男は叫び声を上げようとしたが、咽喉に刺さった矢のせいで、声が出ない。ひゅうひゅう言う音をさせながら事務所に戻ろうとしたが、もう一本飛んで来た矢で、左眼を射抜かれ、ひっくり返った。男はしばらく引き付けを起こしたような動きをしていたが、最後に全身を突っ張らせて静かになった。 「ヤマオカさん?あれ?車は?」 ダウンジャケットを着込んだ若者が玄関から出てきた。 「バッテリーでもいかれたかな...」 男は言いながら裏手に回ろうとして、足元の死体に気付いた。 「あれ?ヤマオカさん、どうしたんですか。まさか、脳溢血とか?」 かがみ込んだ男は、すぐに倒れた原因に気付いた。左眼に矢が刺さっているのだ。 「え...?」 あまりのことに、一瞬どう判断していいのかわからなくなった男の、太ももに矢が突き立った。 「がっ!」 衝撃で男は横倒しに倒れた。何かがぶつかったと思ったところを見ると、矢が突き立っている。抜こうとしたが、ショックで筋肉が縮み上がっており、引き抜けない。 「ち、ちくしょう。」 男は、誰かに来てもらおうと、プレハブの壁を叩いた。しかし、誰も出てきてくれない。急いで玄関のほうに身体を向けた男の前に、白い衣装に身を包んだ少女が、男を見下ろして立っていた。 「あ、危ないぞ!通り魔か何かがいるんだ。早く中に入って、誰かを呼んでくれ。」 少女はかばおうと近寄る男に目を向けた。 「あ...」 男は瞬時に理解した。この青く光る目を持った少女が、通り魔であると言うことを。 「お」 大声を出そうとした男の額に、矢が突き立った。男は一瞬後ろにしなり、そのまま前に倒れた。倒れた勢いで、額の矢がバキリと折れた。少女は男を見下ろし、踵を返して、玄関に向かった。 |
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事務所の中 |
「ヤマオカか?タシロか?何騒いでんだ。」 苦々しそうに、年配の男が呟いた。目の前で机を片付けている、やせた男が笑顔で言った。 「あと数日でおわりですからね。多少、羽目を外したいんでしょうよ。しばらくは青森ですからね、あの2人は。」 「そうだよ。それで、その後は俺と、おまえさんと、ヤツサカの3人になっちまうんだからな、ここは。ヤツサカはいいよ、地元だからな。俺も早いとこ、東京に帰りたいわ。」 「まあ、来年で工事は終わるでしょう。そうしたら帰れるんじゃないですか?」 「帰れるといいがな。」 コジマは憂鬱そうに言った。もともと、仕事上の失敗が元で、こんな地の果てに飛ばされてきたのだ。この事業が一段落したからと言って、元の仕事場に帰れる保証はない。頼りは本部長のゴウダだが、コジマのためにそこまで動いてくれるだろうか。コジマのミスは、ゴウダにまで迷惑をかけているのだ。コジマは短期のフォローということで来ているので、単身赴任である。東京に置いてきた妻に、家のことを任せているのだ。息子は高校生で、娘は今度小学校を卒業する。難しい時期に、すべてを妻に託しているのが辛かった。 「ま、スキーにでも呼んでみるか。」 「ご家族ですか?」 シダラは笑顔で言った。この男は、めったに怒る事がない。というより、コジマはシダラが怒っているところを見た事がなかった。コジマの記憶では、シダラも単身赴任のはずだった。 「おまえさんも単身だよな。家族はどうしているんだ。」 「うちは気楽ですよ。子供がいないから。家内も、東京に知り合いが多いから、連れてきてはいないけど、けっこう遊びに来ては、いろいろ案内させられてます。」 「そうか。子供がいないのか。」 コジマは慰めた方がいいのか、羨ましがればいいのかわからなかったので、相槌を打つにとどめた。外は静かになったようだ。しかし、何か引っ掛かる。その時、外のドアが開く気配がした。誰か女の子が出て行ったのか?しかし...コジマは胸騒ぎを感じたが、気のせいだと思い、目の前の書類に注意を集中した。 |
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タエコ |
タエコは、給湯室でコンパクトを出し、化粧をしていた。きょうはこれから、コウサカさんとデートだ。もうすぐ勤務が札幌になるので、気軽に会えるのは、あと何回かしか会えない。札幌とここだと、会うだけでも一日がかりになってしまう。 タエコ自身、これからコウサカさんとどうなりたいのか、はっきりしていない。デートは楽しいし、セックスの相性も悪くない。少し意地悪なところが、実はとても気に入っている。 きょうも目隠しをされて、手を軽く縛られて、いろいろと囁かれたら...スイッチが入ってしまいそうになり、慌てて服を整え、手を左右に広げて伸びをした。結婚、してもいいかもね...とタエコが思ったその時、うしろから小さな手が伸びてきて、タエコの唇を塞いだ。あれ、と思う間もなく、タエコの咽喉に固いものが押し当てられ、右にぐいと引かれた。タエコは圧迫感を感じて暴れようとしたが、ふと服の前が濡れているのに気付いた。やだ。この服濡らしちゃったら、帰って着替えないと。デートに遅れちゃうわ。確かめるためにさわった指は、赤く濡れていた。なに、これ。これじゃあ、すぐに洗わないと... 咽喉を大きく切り裂かれて、タエコはシンクの前にずるずると座りこんだ。デート用の水色の服は、前面を赤く染めて、さらに流れ出る血が床を這った。 |
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ミチヨ |
ミチヨが帰り支度をして廊下に出ると、給湯室の前の床に何かが零れている。ミチヨは舌打ちをした。また、タエコね。給湯室で化粧をするなって言ってるのに。何を零したのかしら。タバコの吸殻入れじゃないでしょうね。あら、黒っぽく見えたけど、赤い色ね。アセロラかな。トマトジュースかな。金臭い匂いもするし、アセロラかな。ダイエット、とか言って、いろいろやってるからな。もうちょっとびしっと言わないと駄目ね。カエデはちゃんとしてるのに、タエコったらいつも... 給湯室を覗き込むと、電気を消した暗がりの中に、タエコが座り込んでいる。 「まあ、どうしたの?」 さっきまで文句を言おうと思っていたのも忘れて、肩に手をかけようとしたとき、奥の暗がりからミチヨを見つめている目に気付いた。廊下の明かりを受けて白く光っている。小さな少女のようだ。 「あなた...」 言った途端に、少女の手元からすごい勢いで何かが飛び出した。とっさに身体を捻ったが、左肩に衝撃を受けて、ふっ飛んだ。タエコは、その反動でぐらりと揺れ、向こう側に倒れた。ミチヨは、その瞬間に床の液体の正体を理解した。そのタエコを跨ぎ越して、少女が前に来た。白と赤のツートンの服...違う、赤いのは、タエコの、血だ。ふと左肩に重さを感じて、目をやると、腕の付け根に棒が生えている。 「!?」 少女に目をやると、弓を下ろすところだった。 「そうか、これは矢なのね。鏃が食い込んでいるから棒に見えるんだ。」 少女に目をやると、どこかで見た覚えがある。工事の関係者の身内だったような...次の瞬間、ミチヨは立ち上がり、壁を叩いて叫んだ。 「気をつけて!あの子が」 ミチヨは視界が回転しているのに気付いた。一瞬見えたあの子は、大きな山刀を腰だめにしていた。そうか、振り下ろしたところなのね。右目から地面に打ち付けられたミチヨの顔が、首のない自分の身体がしどけなく崩おれている姿と向かい合った。あら、けっこう、いい感じじゃない、私のスタイル。ミチヨは絶命した。 |
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シダラ |
廊下の悲鳴を聞き、コジマとシダラは立ち上がった。ほかの3人も顔を見合わせている。 「今の声、ミチヨさんですよね...」 不安そうにヤツサカが言った。サエキが答えた。 「タエコさんならともかく...」 「何言ってるの。」 カエデがサエキをたしなめる。 「見てこよう。」 コジマが言うと、シダラが歩き出した。 「私が見てきますよ。大したことなかったら、ミチヨさんも羞ずかしい思いをしてしまうだろうから。」 シダラは廊下に出た。やはり室内と違って空気が冷たい。白い息を吐きながら、シダラは給湯室の方へ曲がった。最初に目に入ったのは少女だった。赤地に白い模様の入ったこのあたりの民族衣装のようなものを着ている。その横に、人が座り込んでいる。あのスカートは、ミチヨさんのものだ。それなのに、この違和感は... 「首がない。」 首は身体の前に落ちていた。少女が動き始めた。その顔を見て、シダラはあっと言った。 「君は、あの人の妹さんじゃ...」 少女は流れるようにシダラに向かってきた。シダラは思わず、両手を広げて抱きとめようとした。少女を抱きとめた瞬間、シダラは脇腹に、異物感を感じた。下を見るが、少女の頭が邪魔になって、見えない。少女は、右肘を突き出すように動かした。その途端、下腹部に激痛が走った。 シダラは顔をしかめ、少女を少し身体から離した。激痛の元は、そこに刺さっている山刀だった。シダラは自分の死を覚った。その時、初めてシダラの身体に、迸るような怒りが湧き上がった。 「あなたは!」 自分の腹に根元まで刃を刺し込んでいる少女を抱きしめて、シダラは天に向かって叫んだ。 「あなたは何でこんな子供に、こんなことをさせるんだ!」 シダラは天を仰いだまま、目から涙を溢れさせた。その涙が赤い色に変わり、シダラは崩れ落ちた。そのシダラの腹に脚をかけ、少女は山刀を引き抜いた。引き抜かれた刃を追って血がしぶき、少女の顔に赤い模様を形作った。 |
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守りの神 |
何となくシダラが心配になり、ヤツサカは廊下に出た。静まりかえっている。ミチヨさんの悲鳴を聞いて、シダラさんが行ったのだし、まだタエコもいるはずだ。それにしては、この静けさは異常だ。ヤツサカは、この営業所の中でただ一人の地元採用だ。雪に囲まれ、移動もままならなくなるこの場所で、時おり里に立ち顕れる悪神の話は子供の頃から聞いていたし、迷信で片付けられない怖さも知っていた。子供の頃、近所のよく遊んでくれたおじさんが、悪神に取り付かれて、家族を傷つけ、山に消えて凍死したことを、ヤツサカは忘れていない。圧倒的な自然の力の前で、人間がその狭間を縫って生き延びていかざるを得ないこの土地では、神が人間に降りることは、それほど奇異なことではないのだ。 ヤツサカは、給湯室への曲がり角を見た。そこに行ってはいけない。パウチが、悪神が、そこで獲物を待っている。その時、ヤツサカの耳に、水の滴る音が聞こえてきた。ポタリ。間をおいて、ポタリ。また、ポタリ。その音が、次第に近づいて来るように、ヤツサカには思えた。もはや、ここから先へ行くことなど思いもつかない。ヤツサカはそろそろと後ずさった。 廊下の突き当たりの左にトイレがあり、その前に私物用のロッカーがある。ヤツサカは足音を忍ばせて、ロッカーに向かった。自分のロッカーを開けると、中に上着が入っている。上着のポケットの中にあるはず。ヤツサカは、慌ててポケットを探り、それを見つけた。荒い鑿の後が目立つ、素朴な木彫りの人型。地元の者はみんな知っている、人間を守ってくれるよい神の似姿だ。嫌がるヤツサカに、祖母が無理やり持たせてくれた。ヤツサカはそれを握りしめた。 |
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いまやほとんど赤く染まった服をまとった少女は、手に下げた山刀から、贄たちの血を滴らせながら角を曲がった。正面に見えるロッカーの扉が少し開いている。少女は迷わず、ロッカーの方へ、滑るように進んだ。ロッカーの中には、女物の防寒着がさがっている。少女は、次々にロッカーのドアを開け始めた。 |
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コジマはようやく、何が頭の中で引っ掛かっていたのかに思い当たった。車の音がしないのだ。このあたりの人間は、雪に閉ざされる期間が1年の半分にも及ぶことから、ほとんどが四駆の車に乗っている。若いヤマオカは、大型のオフロードタイプの四輪駆動車に乗っている。出てゆく時は、かなりの音がする。あの二人が出て行ってから、音が聞こえていないのだ。駐車場で車の中で話し込んでいるにしても、ディーゼル車のアイドリング音は、事務所の中でも聞こえるくらい大きい。それがまったく聞こえないのだ。シダラも、戻るのが遅い。何かあったら、すぐに戻ってくるだろうし、ミチヨもタエコもいるのだから、話し声くらいは聞こえてくるはずなのに、この静けさは何だろう。ふいに、ロッカーの戸を開ける音が聞こえた。やはり、気にしすぎか。そう思ったコジマは、すぐにさらなる不安を感じることになった。ロッカーを開ける音は、二つ、三つ、四つと、規則的に続いたのだ。個人のロッカーが続けて開けられていく状況は、どこか異常だ。五つ、六つ、七つ。コジマは立ち上がり、サエキとカエデが驚いたようにこちらを向くのにも気付かず、廊下に出るドアに向かった。 |
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少女は、最後のヤツサカのロッカーの扉に手を伸ばし、引き開けた。中には誰もいない。ジャンパーが慌ててハンガーにかけたかのように、だらしなくさがっているだけだ。その時、事務室のドアが開いた。少女は弓を引き、射ようとした。その時、ハンガーからジャンパーがずるりと滑り落ち、少女の注意を逸らした。そのせいで、矢はコジマの目の前を、ビィンという風切り音をともなって過ぎ、奥の壁に突き立った。ドアが閉まる音がして、事務室の中が騒がしくなった。少女は舌打ちをして、するするとドアの方に向かった。 |
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ヤツサカは、トイレの個室の中で震えていた。やはり、自分は悪神にとって食われてしまうのだろうか。重さのないような足音は、トイレの前まで来て、止まった。こちらに来るか、と思う間もなく、ロッカーを開ける音がし始めた。ヤツサカは、無意識に開けられるロッカーの数を数えていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。この音が9を過ぎたら、次はこちらだ。そして、九つ目のドアが開けられた時、ヤツサカは恐怖のあまり、気を失った。右手に、固く守り神の像を握りしめたまま。 |
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事務所にて |
突然ドアを閉めて飛び込んできたコジマに、中にいた二人は驚いた。 「何かが来た。」 コジマは言い、一番入り口に近い、タシロの机を動かして、出入り口を塞ごうとしている。そんなコジマを見て、サエキはあきれたように言った。 「いったい、どうしたって言うんです。なまはげでも来たんですか?戦争ごっこですか?」 コジマはとりあえず机をバリケードにし、振り向いて言った。 「廊下はひどい血の匂いだ。出ようとした途端、目の前を何かが飛んだ。矢か何かだと思う。」 「まさか...」 サエキは信じられないという顔をした。カエデがはっとしたように言った。 「まさか、ほかの人たちは...」 「たぶん、もう襲われたのかもしれない。ヤマオカの車の音がしなかったし、ほかのみんなも、ずっと外にいるのはおかしい。シダラも戻らないし。」 「そうだ、電話!」 サエキが電話に飛びつく。受話器を耳に当て、呆然として振り向いた。 「何も音がしない...」 「切られたんだ。」 「でも、誰が。何で。」 コジマはこめかみを押さえた。 「このリゾート開発は、地元民にとって、あまりいいところのない話だった。だが、襲撃されるほどの反対もなかったんだ。通り魔か、強盗か、だが、強盗だったらこんなに人の多い時間を狙うはずがない。」 その時、ガラスが割れる音が響いた。廊下からのドアのガラスが破られたのだ。間をおかず、空気を圧縮するような音がして、飛来したものが、コジマの左肩にぶつかり、全身が後ろに引っ張られるように感じた。踏みとどまり、目をやると、肩に矢が刺さっていた。 「くそっ!」 サエキが悲鳴をあげた。カエデは目を瞠り、両手で口を隠した。コジマは後ろに倒れこみ、怒鳴り声を上げた。 「伏せろ!伏せていれば当らん。」 サエキが慌てて机の下に隠れた。カエデは姿勢を低くしながら、コジマの方に近寄ってきた。 「ばか、何やってんだ、そっちの方が安全だ。」 かまわずカエデはやってきて、コジマの前に座り込んだ。 「だって、このままじゃ、所長が...」 自分が危ないのに、こっちの身を気遣って来てくれたのか。コジマは嬉しかったが、ことさらに渋面を作って言った。 「気持ちは嬉しいが、自分の安全を考えろ。この矢は、下手に抜かない方がよさそうだ。抜かなければ、それほど血は出ない。毒が塗ってあれば別だけどな。」 「そんな...」 「大丈夫だ。まだ痛みはない。とりあえず、ここから抜け出すことを考えよう。机で塞いであるから、すぐには入って来られないだろう。サエキはどうしたかな。」 その時、二番目の矢が飛んできて、コジマの側頭部を削っていった。 「がっ」 カエデが悲鳴をあげた。立ち上がって入り口を見ると、机の上に少女が立っていた。 「そんな...」 カエデは絶句した。 「どうした!」 苦しい息の下からコジマが聞いた。 「子供...なんです。女の子...」 そう言うなり、倒れるようにしゃがみこんできた。 「女の子供?」 コジマの頭に閃くものがあった。 「ひょっとして、あの子か...」 カエデは、もう言葉もなく震えている。コジマは視界を妨げる、頭から流れ落ちる血を拭って、身体をずらした。 「カエデさん、ここに入れ。」 コジマは机の下を示した。カエデは蒼白な唇を震わせながら、指示に従い、もぐり込んだ。コジマは、それを隠すように、その前に身体を動かした。血が流れすぎている。もう、身体を動かすのも難しい。 「狭いが、我慢してくれ。その狭さが助けてくれるかもしれない。」 「はい...」 か細い声が返ってきた。コジマは自分でも気付かず、にやりと笑っていた。まるで狼と七匹のこやぎだ。床の上には、自分でも驚くほどの血が流れている。いくらなんでも多すぎないか?コジマは一瞬思ったが、次の瞬間、目の前に赤い服を着た少女が飛び降りてきた。 「生贄の数は十分。私は名前を言えない神に、捧げるものを用意している。それは、おまえたちの血だ。」 少女は十分に弓を引き絞り、射ようとした。その時、ガラスの割れる音がした。少女がそちらを向くと、窓が割れ、事務用の椅子がガラスを飛び散らせながら宙を飛んでいるのが見えた。 「うわーっ!」 サエキが椅子の後を追って外に転がり出た。サエキは必死で車の止めてある方に走ってゆく。その姿は、窓から丸見えだ。少女はためらわず、引き絞った弓を放った。矢はガラスを突き破り、ぐんぐんとサエキの背後から近づいてゆく。サエキは、突然後ろからどんっと押されたと思った瞬間に、顔から雪溜りに突っ込んだ。弓は背中に刺さり、サエキは気を失っていた。 少女はしばらく耳を澄ましていたが、動く気配がないので、またコジマに向き直った。コジマは、苦しい息の下から言った。 「君は、ここを所有していた人の妹さんだね...名は何と言ったか...」 「もう名前はない。神々に捧げた。」 「まさか、みんな、君一人で。」 「この場所で生きているのはあと二人だけ。おまえと、今出て行った男だ。止めを刺さなければならない。」 「!...みんな、殺したっていうのか!」 「神が導くまま、すべての贄の血は流された。止めをさすのは、慈悲だ。」 「何が慈悲だ!いったい、どんな神だ。人の命を食い荒らして...」 コジマは涙を流し始めた。少女はコジマの言葉を待った。 「みんな、いい奴だったのに。これから、やることがいっぱいあったのに。仕事でここにいただけなんだぞ、ちくしょう!誰も殺されるようなことなんてしてないのに...」 少女は静かに言った。 「おととい、兄が死んだ。おまえたちのせいだ。でも、家の神は、おまえたちに復讐してはいけないという。同胞同士で殺しあうのはいけないという。でも、私は許せなかった。だから、力を貸してくれる神を呼んだ。その神は、力を貸してくれた。」 「そうか...あの青年は死んだのか...いや、しかし、俺たちが悪いわけじゃないだろう。おまえの兄が死んだのは、そりゃあ、間接的にはこの会社のせいかもしれない。でも、ここで働いていたもののせいじゃないだろう。なんで、何でこんなことを...」 少女は涙を流しつづけるコジマを見下ろし、その生命が消えていくのを感じ取った。少女は番えた矢を戻し、サエキにとどめをさすために、外に出て行った。死の間際、コジマは満足していた。どこの神だか知らんが、俺は、一人は守ったぞ。この、くそいんちきな神の野郎... コジマは、満足しながら息絶えた。しかし、その背後で、カエデは既に事切れていた。少女を見た時に、少女の投げた山刀を背中に受けていたのだ。床に流れていた、多すぎると訝った血は、コジマ一人のものではなかったのである。 少女はサエキを見下ろした。弓をひき、首の後ろからまっすぐに射込んだ。一瞬、はねあげられた身体から、生命が去ったのを感じ、少女は振り返った。事務所から煌々と漏れる、蒼ざめた蛍光灯の灯り。とても明るいのに、生きて動くものは一つもない。少女は頭がちりっとするのを感じた。しかし、生命の気配はない。 少女は、満足して踵を返し、結界を踏み破った。名前を言えない神の支援は、これで終わり、少女は、これからその神の支援の代償を払わなければならない。 事務所のトイレの中では、ヤツサカが意識を失って倒れている。少女が結界を越えた瞬間に、守りの神の像は、二つに砕けた。 少女は、白い闇の中へ進んで行く。神の支援の代償は、ユカル自身がその神の行為に対する、全ての神々の裁きを、代わりを受けることであった。 |
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