微量毒素

魔歌:Bonus Track 〜家族の神話〜 p.7


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1 下界でも吹いている風
2 お菓子の家・再考


★ 下界でも吹いている風

 暗くなり始めた頃、ようやく家が見えてきた。ぼくは呟いた。

「まったく、どうして女ってのは、人の言うことを聞かないんだろう」

 ユウを見ていてくれるはずのナミさんが、家の前をうろうろしているじゃないか。父さんもいる。ってことは、ユウは病院で一人きりじゃないか。ぼくは腹が立って、ナミさんにひとこと言ってやろうと、足を早めた。ちょうどその時、ナミさんもこっちを見つけたらしい。なぜわかったかというと、ナミさんが走り始めたからだ。

 ナミさんは、こっちに向かって一直線に走ってくる。ひざ下まであるスカートが太ももまで舞い上がり、ちょっとした見ものだ。大人の女の人の全力疾走なんて、ぼくは初めて見た。学校の先生だって、こんな走り方はしない。感心して見ていると、姉さんがぼくの後ろに回った。さすがにびびるわな、これは。まだ50メートルの距離を置いて、ナミさんは走りながら叫んだ。

「ごめん!テルミちゃん」


 たどりついて、ぜーぜー息を吐きながら、ナミさんは姉さんに言った。

「ごめんなさい、テルミちゃん。私、」

「いいのよ。でも、今度また同じことをしたら、承知しないからね、かあさん」

「テルミちゃん...」

「テルと呼びなさい。でないと、許さない」

 ナミさんはうるうるとした眼で姉さんを見つめ、抱きしめた。ぼくが安心してほうっと溜息をつくと、横に立っていた父さんがおろおろして言う。

「テルミは大丈夫なのか?」

 ぼくは父さんの足を蹴飛ばした。今回は、こいつがいちばん悪い。姉さんのことを理解してないわけじゃないから、ナミさんとユウに気を使って判断を誤ったんだろう。

「い、いて?」

 父さんはぼくを見る。ぼくは父さんを睨んだ。

「姉さんが大丈夫でないわけがないだろ?ちょっとは子供を信用しろよな」

「あ、ああ」

 まだわかってないかな。まあ、父さんのことだ。冷静になって考えれば、すぐにわかるだろう。

「そうだ!」

 姉さんがナミさんを引き離す。

「ユウは?ユウは大丈夫なの?」

「そうだよ。ナミさんにはユウを任せたのに、何でこんなところにいるんだよ」

「ユウが行けって言ったの。テルちゃんがいなくなったって知ったら。ズクくんとの約束があったから、ぐずぐずしてたら、本気で怒られちゃった。そこにお父さんが来たから、乗せてもらって来たの」

 ユウも男だねえ。ま、仕方ないか。

「これから行ってみよう。今日は万一に備えて病院に泊まるそうだ。ごめんな、テル。俺がちゃんとわかってやれなかったから、こんなにこじれちまったんだな」

 姉さんは横を向いて笑った。照れているのだろう。父さんがぼくの方を見て、首を傾げて見せたので、ぼくは拳を突き出して、親指を立てた。父さんも、同じようにした。ぼくは座をなごませるため、別の話を振った。

「それにしても、ナミさんの全力疾走は凄かったねえ。陸上でもやっていたの?」

「いや、そうなんだ。中学・高校と陸上部だったんだそうだ。そのおかげで、今もこのスタイルを維持して、見事な足を...」

 場を考えないバカ親父の足を蹴ろうと、ぼくが足を引くと、親父の悲鳴が上がった。

「いってててって?」

 ナミさんが赤くなって、親父の耳を引っ張っている。

「何てこと言ってるんですか、こんな時に!」

 同じように足を引いていた姉さんとぼくは、顔を見合わせて笑った。


 この後、ぼくたちは父さんの車で病院に向かった。ユウは頭を打っているかもしれないということで、今晩一晩は病院に泊まることになったという。ナミさんもついているということなので、こっちは心配なさそうだ。明日の朝、父さんをちゃんと送り出せるかどうかだけが心配だ。父さんは、どうしても朝寝坊をするんだもの。これは姉さんが責任を持ってたたき起こすことになった。

「思いっきりやっちゃって」

 ナミさんの言葉に、姉さんは嬉しそうに頷いた。父さんは嫌そうな顔をしていたが、嫌ならとっとと起きればいいだけなのだから、誰も同情しない。

 みんなで笑っていると、ユウが身体を起こした。

「何?どうしたの?」

 ナミさんが言うが、ユウは僕を呼んでいる。そんな気がしたんで、近くに寄った。ユウは枕元に、布に包んで置いてあった何かを、ぼくに渡した。首を傾げて開くと、中に青いくまが入っていた。いつかの騒ぎの時に、なくなってしまった、ぼくの一番大切にしていた、あいつだ。

 ぼくは目を丸くしてユウを見た。姉さんもそばに来て、ユウを見ている。ユウは手をぐるぐる回して、その後両手を花のように開いて見せた。

「落っこちた時?」

 ユウは頷き、ぼくの手のくまを指差して、ふわふわと漂うような手付きをして見せた。

「浮いてたの?」

「ぷかぷかと?」

 ぼくと姉さんは、同時に叫んだ。信じられない。奇跡だ。転げ落ちたユウの目の前に、ユウがずっと気にしていたに違いない、なくなったぼくのくまが浮いていたなんて。これで、ユウの悩みも、姉さんの悩みも、ナミさんの悩みも、ぼくの悩みも、全部きれいになくなったのだ。やっぱり、どこかに神様がいて、色々考えているのかもしれない。ぼくはそんなことさえ思ってしまった。このぼくがだぜ。ただ一人、家の中で何も悩んでいなかった父さんが訊いた。

「何なんだ、それ?」

「わからない。汚いから捨てようとしたのに、ユウはどうしても離さないの。治療の間も、ずっと」

 捨てられてたまるか。姉さんが言った。

「これはね、秘密の宝物なの」

 ユウが頷いた。

「お城から奪われて、ずっと行方知れずになっていたのを、ユウが苦難の旅の末に見つけ出して届けてくれたのよ」

「ありがとう、ユウ」

 ぼくも言った。

「シュテンマイヤー・フリードリッヒ・マギナクレオリウム274世を取り戻してくれて、本当にありがとう」

 ナミさんと父さんは、ものすごい謎に対面している顔をして、ぼくたちを見つめている。姉さんはにっこりと笑った。ユウも笑った。ぼくも笑っているはずなんだけど、前が見えない。どうも、ぼくの目からは涙が溢れているようだ。袖で目をこすると、姉さんがユウに抱きついて、ワンワン泣いていた。まあ、これで歳相応と言うものだろう。


 二人を病院に残し、ぼくたちは父さんの運転で家に向かった。姉さんは車に乗るなり、全身をぼりぼり掻き始めた

「うー、痒い」

「掻いちゃ駄目だよ、姉さん。もっと痒くなるよ」

 姉さんは恨めしそうな顔でぼくを睨んだ。

「ほい、ムヒ」

 ぼくはムヒを手渡した。姉さんは情けなさそうに、ムヒを塗り始めた。

「死ぬほど痒いのよ」

「仕方ない、今日はムヒ風呂にでも入るしかないね」

「人事だと思って。気が狂いそうなのよ」

「まあ、自分で蒔いた種だ。あきらめるんだね」

 父さんがハンドルを握りながら、感心したように言った。

「ズクはクールだなあ」

「ほんと、情がないったら」

「自分の意思で野壺に飛び込んだ人に、同情する気持ちはないんだ」

「ううー」

 うなる姉さんを無視して、父さんが言った。

「そうだ。きょうの晩飯はどうする?父さんが作ってもいいが...」

「回転寿司!」

 ぼくと姉さんは声を揃えて叫んだ。父さんは頷いた。

「それもいいか」

 父さんはハンドルを切り、車の行き先を変えた。

「ねえ、ユウ。首の後ろの方、塗って」

 姉さんが背中を向けてきた。

「いいよ」

 ぼこぼこになった首筋に、ムヒを塗る。やっぱり、全身に鳥肌が立つ。何で人の首なのに、こんなに鳥肌が立つんだろう。

「じゃあ、後は」

 ぼくはそう言って、姉さんの無防備なわき腹に、思いっきり指を立てた。

「ぎゃあ!」

 姉さんは凄い悲鳴を上げた。父さんは危うくハンドルを切り損ねるところだった。

「おいおい」

「ズークー...」

 姉さんがホラー映画になっている。

「いや、許して、お姉さま」

 大丈夫、もうすぐ回転寿司につくはずだ。そうすれば、この危機は免れることができる。勝算は十分にあった。父さんの間抜けな声を聞くまでは。

「あれ、道を間違えた」

 ホラー映画に襲われたぼくの悲鳴が、車内にこだましたのはそれから3秒後だった。


「ユウ、かあさんはね、きょうとっても悪い人間になっていたの。でも、ズクくんとテルちゃんのおかげで、またいい人間に戻れた気がする」

 一人で呟いているナミさんを、ユウは真剣な顔で、じっと見つめている。ナミさんは顔を上げて、ユウを見た。

「ねえ、ユウ。ズクくんとテルちゃんと兄弟になれて、本当によかったね」

 ユウは頷いた。何度も、何度も。

「ナギさんと結婚して、本当によかった。あのおうちに入れて、本当によかった。ねえ、ユウ、もっともっとみんなと一緒に、いっぱい楽しくしようね。ずっとずっと、いい日にしようね。駄目だ、うまく言えない。ユウ、幸せになろうね」

 ユウはナミさんの顔を見て、重々しく首を振った。え?という顔のナミさんに、ユウは右手を左から右へ大きく動かして見せた。ナミさんは、目を大きく見開いた。

「ずっと?いいえ、もう前から、ずっと、ね」

 ユウは頷いた。ナミさんは、何も言わずにユウを抱きしめた。そして、目からぼろぼろと涙を零しながら、何度も頷いた。ユウは痛いという顔をして、ナミさんの背中を叩いたが、ナミさんがどうしても離そうとしないので、あきらめてされるがままになった。そして、にっこりと笑って、ナミさんの胸に、顔を押し付けた。



★ 「お菓子の家」再考

「お菓子の家ってさ、綺麗でおいしそうだけど、中身はないんだよね。栄養も偏っているし、着色料は使われているし。実際にあったら、虫がびっしりついてそうだし」

 ぼくがお菓子の家についての意見を披露すると、姉は顔を顰めて言った。

「馬鹿ねえ、ズク。お菓子はね、とってもおいしいのよ」

「でも、栄養が...」

 ユウは何か一生懸命描いている。マーカーを体の回りにばら撒いて、床に腹ばいになって書いている。ちなみに、ここはぼくの部屋。なぜか、みんな集まってしてしまう。ぼくは一人で本を読んでいたいんだけど。

「そんなことを言ってるから、ズクはもてないんだよね。理屈っぽいっちゅうの?お菓子の家があったらいいな、っていう、夢見る気持ちがないんだよねえ」

 ユウは立ち上がった。描いていた絵をぼくたちに見せる。鮮やかな色で、お菓子をちりばめた家。姉は感心したように言う。

「これがユウのお菓子の家ねえ。なかなかいいわよ。理屈ばっかのズクなんかよりずうっと夢があるわ」

 ユウはにこにこしながら、紙をぼくによこす。

「くれるの?」

 ユウは頷く。姉はハーンという顔をして言った。

「夢のないズクちゃんへのプレゼントね。これを見て修行をしろというわけね」

 ユウは首を振る。そして、絵を指差し、ぼくを指差す。

「あげる?違うな。これが、ぼく?何だ、それ」

 首を傾げていると、姉がぼくに耳打ちする。

「そうだわ、その通りよ。ユウはこのお菓子の家は、ズク、あんただって言ってんのよ」

 絵をもう一度じっくりと見る。たくさんのお菓子が散りばめられた、素敵な家。顔を上げてユウを見ると、こくこくと頷いている。そしてユウは自分を指し、ぼくを指して、抱きついてきた。

「おいおい」

 ぼくは突然のことに、絵を破かないように持ち上げて、不自然な姿勢で抱きつかれている。

「いいなあ」

 姉の言葉を聞き、ユウは今度は姉に抱きつく。姉はベッドに押し倒されてきゃあきゃあ言っている。ぼくは少し混乱して、ぼうっとしている。もう一度絵をじっと見ていると、ノックの音がして、ナミさんが入ってきた。床に散らばったマーカーを見て言う。

「ユウ、使い終わったらちゃんとしまいなさい。テル、何でここにいるの。勉強してるはずでしょ」

 慌てて片付けだすユウと、こっそりと部屋を出てゆこうとしている姉さんに、ナミさんは声をかける。

「おやつを出したから、下にお出で。ズク、あんたもよ」

 ユウは慌てて1階に下りていく。途中で姉の足音も混ざる。頷いて出て行くナミさんに、ぼくは声をかけた。

「おかあさん、お菓子の家って、どう思う?」

 ナミさんはびっくりしたようにぼくを見た。

「お菓子の家?素敵じゃない。子供のころ、絶対に行き会いたいと思って、よく林の中を歩き回ったものだわよ」

「虫とか着色料とかのことは考えない?」

「ばかね、そんなことを言ってると、女の子に嫌われるわよ。」

 姉と同じことを言っている。

「あれはね、子供の夢なのよ。現実にあったら、そりゃあんたの言うようなこともあるかもしれないけど、お菓子の家は、どこかにあると思うだけでオッケーなのよ。それがお菓子の家ってもんでしょ」

 ナミさんは降りて行く。早く来ないと、おやつがなくなるわよ、と言い残して。下では、姉とユウがきゃあきゃあ騒いでいる声が聞こえる。でも、おやつがなくなることはないだろう。姉も、ユウも、ナミさんも、ちゃんとぼくの分を残しておいてくれるだろうから。


 まあ、ぼくもお菓子の家のことを考えるのは大好きさ。でも本当は、お菓子の家は悪い魔女が作っているんだよね。それとも、悪い魔女の心の中にも、素敵なものを欲しがったり、作ったりしたくなる気持ちがあるって考えた方がいいのかな。そう考えれば、嫌いな人を、また減らすことができる。

 今、ぼくのいる家はお菓子の家みたいに甘い、素敵な家だ。ぼくはもう数年でここにあきたらなくなるだろうと予感している。姉とも、今みたいには話せなくなるだろう。それが大人になるってことで、ぼくはそれを嫌だとは思っていないが、少し寂しいとは感じている。そして大人になったら、ぼくは自分で自分のお菓子の家を作らなくちゃならない。

 その家が素敵な家になるように、ぼくはいっぱい考えなくちゃならない。姉は考えすぎるとろくなことにならないと笑うけど、ぼくはぼくのできるやり方でやっていかなくちゃならない。でも、道はたくさんに分かれているから、ちょっとでも間違えると、とんでもないところへ行ってしまうかもしれない。そんな時に、教えてくれる人がいればいいんだけどな...


 そう、ぼくは道を間違えたりしなかった。このときから10年が経って、ユウと姉さんが、ぼくの前から消えてしまうまでは。


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