微量毒素

魔歌:Bonus Track 〜家族の神話〜 p.6


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1 ユウの怪我
2 山の上に吹く風


★ ユウの怪我

 鉄棒事件以来、姉さんとナミさんの間には、微妙な距離があった。姉さんは、自分を完全に疑ったナミさんの目を見ていたし、ナミさんも誤解を解いたわけではなかった。ユウがいじめられても追いかけて行く、と理解しただけである。表立った喧嘩になるわけでもない、この種の緊張は、普通に喧嘩するより、はるかに心を蝕んでゆく。

 こういう誤解は、腹を割って話してみる以外に、解決する方法はない。でも、当事者二人は、相手を理解できず、怯えてしまって、出来れば距離を置きたがっていたし、父さんは仕事が忙しく、そこまで気を回す余裕がなかった。本来、気付いてしかるべきだったぼくは、お恥ずかしい話だが、まったく気付かなかった。いや、緊張は読めたんだけど、大したものじゃないと思っちゃってたんだな。この微妙な人間関係のあたりについては、ぼくはちょっと鈍いのかもしれない。


 結局、緊張関係は解かれることがなく、そのまま腫れ物に触るようにして二人が過ごしていたある日、その事件は起こった。ユウが病院に担ぎ込まれたのだ。ぼくが帰ってきて、居間でおやつを食べている時に、その電話がかかってきた。

 ユウは貯水池の崖を転がり落ちたのだという。水は少なかったので、溺れはしなかったが、全身を打っており、気づいた近くの奥さんが、すぐに救急車を呼んで、病院に連れて行ってもらったという。ユウのことを知っている人だったので、すぐに電話をしてきてくれたのだ。ナミさんが電話を受けている時に、姉さんが帰ってきた。

「ただいま」

 ナミさんは、その声を聞いて、姉さんを見た。こっちからナミさんの顔は見えなかったけど、姉さんが怯えた顔色に変わっていくのは見えた。姉さんが僕の方を見て言った。

「何かあったの?」

「ユウが貯水池に落ちて、病院に運ばれたんだ」

 姉さんは、はっとしてナミさんの顔を見た。理解の色が浮かび、ランドセルを投げ捨てて姉さんは家を飛び出して行った。

「姉さん!」

 ナミさんは、受話器を持ったまま、固まっている。

「わたし...」

 ぼくは受話器を奪い取った。

「どうもありがとうございます。病院はどちらかわかりますか?救急車だからわからない。わかりました。調べてみます。ありがとうございました」

 ぼくは受話器を置いた。続いて、消防署に電話をする。

「もしもし?きょう、10分くらい前に、救急車で病院に運ばれた子供の家族なんですが、どちらの病院に運ばれたか、そちらでわかるでしょうか...はい...6歳です。はい。ちょっとお待ちください」

 ぼくはペンを探した。

「どうぞ。中央病院ですね。わかりました、ありがとうございます」

 ナミさんは、まだぼおっとしている。ぼくはパアンとナミさんのお尻を叩いた。

「ナミさん、ぼうっとしてる場合じゃないよ!」

「私...私ったら、何を考えていたのかしら。そんなはずないのに。テルミちゃんがそんなことするはずないのに」

「姉さんのことは、ぼくがちゃんとするから。ナミさんはすぐにタクシーを呼んで、この病院に行って。ユウのことは任せたからね」

「ズクくん...」

「“くん”はいらない!早くしてったら!」


 ナミさんはタクシーを呼んだ。タクシーが来る間、段取りを決めた。ナミさんは病院に行って、ユウについている。父さんにもナミさんが電話を入れた。幸い、すぐに帰ってこられるという。まあ、それでも1時間半はかかるけど。ぼくは姉さんを捜す。近所を一通り捜して、見つかれば連れ帰る。見つからなくても、30分後には家に戻って、ナミさんからの電話を待つ。それで情報交換をする。その後は、その結果次第だ。タクシーが来て、ナミさんはそれに乗って行った。

「テルミちゃんに、私が謝っていたって言って。テルミちゃんのこと、頼むね。ズクくんなら大丈夫よね」

「任せておいて」

 そうは言ったものの、ぼく自身に自信があるわけではない。姉さんの根性に自信があるだけだ。姉さんは強い。どんなものにだって、負けやしない。ぼくはそう信じているから、ナミさんのお願いをきっぱりと請け負ったのだ。そうして、ぼくは30分間、近所を探し回ったが、姉さんは見つからなかった。何となく、そんな気はしていたのだ。30分では足りない、どこかにいるという気は。

 いったん、うちに戻り、電話を待った。電話はすぐにかかってきた。まるで待ち構えていたかのように。

「はい」

「ズクくん?テルミちゃんはいた?」

「くんはいらない。いなかった。もうちょっと探してみる。大丈夫、ぜったい見つけるから」

 病院についたら、救急車に一緒に乗ってきてくれたお母さんと、ユウより大きい、小学生の女の子も一緒にいたんだそうだ。「うちの子を犬から庇ってくれて」つまり、そういうことだったんだ。ぼくはすぐに思い当たった。

「男は女を守らなきゃいけないのよ」

 こんなセクハラなことを抜け抜けと言い放った人間の言葉を、ユウはしっかりと守ったんだ。大丈夫。ぼくたちは、ずっと一つのままだ。

「私、なんてことをしちゃったんだろう」

 電話口の向こうで、ナミさんはまだ混乱している。電話も1分おきにかけていたそうだ。30分後に、と言ったのに。女はいつもこうだ。約束事なんてすべて吹っ飛ばして、自分の都合だけしか考えないのだ。まあ、今回は同情の余地が大いにあるし、なにしろ謝罪のためだから、よしとしよう。

「ユウは大丈夫なんだね。特にひどい怪我はない、と。わかった。姉さんはぼくが連れてくるから。ナミさんはユウについててやって」

 ぼくは電話を切り、父さんに伝言を残した。それから洗面所に行って、引出しを捜した。それから台所に行ってちょっとあさって、見つけたものを袋に入れて、家を出た。戸締りをして、行くべき方向を見た。

「帰りは暗くなるかな」

 そう呟いて、ぼくは歩き出した。



★ 山の上に吹く風

 ぼくは細い山の道を上って行った。何度も通った道。本当は通っちゃいけないことになっているんだけれど。ぼくは疑いもなく上って行った。そして裏の山のてっぺんに出た。そこの小さな空き地に、見慣れた背中が座っている。もうとっくに気付いていたのだろう。背中は微妙に拗ねている。

「蚊に刺されるよ」

「もう、刺される所なんて残ってないわよ」

「はい」

 ぼくは持ってきた袋を渡した。蚊取り線香と、ムヒと、アンパン。

「この際、アンパンがいちばんありがたい」

 姉は顔をぼりぼりと掻きながらアンパンの袋を裂く。

「掻くと跡が残って不細工になるよ」

「いいのよ、細工なんてどうだって」

「3年も経てば考えが変わるよ」

「3年先なんて、永遠に来ないような気がするわよ」

「姉さんが飛び出してから、もう半日も経っている。3年なんてあっという間だよ」

「いつでも今が一番大変みたいに思えるのよね...」

 ぼくは蚊取り線香に火を点け、姉さんにムヒを塗った。だって、自分で塗ろうとしないんだもん。本当に、刺されるところが残っていないほどだ。塗りながら、ぼくは鳥肌が立ってしょうがなかった。

「信じらんない。なんでこんなになるまでいるんだよ」

「まあね」

「死のうなんて思ったんじゃないよね」

「まあね」

「蚊に血を吸われ過ぎて死んじゃう、とか」

「当たり」

 姉さんは、本当に寂しそうに見えた。

「ズクは本当によくわかってんのね、あたしのことが」

「わかってないよ。本気だったの?蚊の話」

「自分から死ぬのは嫌だし、家を出られるほど大人じゃないし。蚊が止まって、見てるうちにどんどん膨らんでいくの。ひょっとしたら、じっとしてるだけで死ねるかもしれないと思った」

「姉さん、馬鹿だろ」

「いつまで経っても、どれほど刺されても、気が遠くなってもいかないのよ。かえって、どんどん痒くなって、気も狂うほど」

 ぼくは聞いているだけでどんどん鳥肌が立ってきた。

「それでも動かないでいると、ふっと痒みが消えてね。あれあれと思っているうちに、もうこんな時間よ」

「今も痒くないの?」

 姉さんはぼくの方に向き直って、ぼくをじっと見つめて言った。

「痒いわよ、死ぬほど」

「よかった」

 ぼくは安心した。姉さんはかちんときたらしい。

「何がいいってのよ」

「だって、成仏しちゃうみたいじゃないか、痒くなくなるなんて」

「なるほどね」

 蚊取り線香のせいで蚊はそれほどよって来ないが、そろそろ夕闇が忍び寄ってきている。

「もう帰ろうよ」

「ズクは私が成仏しない方がいいの?お化けになって出てきても?」

「ああ、死ぬほど怖いかもしれないけど、祟ってくれた方がいいかも」

「なんでよ」

「祟ってくれれば、姉さんがそこにいるのがわかるじゃないか」

 姉さんは言葉に詰まった。

「あ、ああ」

「いなくなっちゃうより、ずっといいよ」

 姉さんはじっと下を向いていた。

「そろそろ行こうよ。暗くなっちゃうと、道が危ないしさ」

 しつこくよってくる蚊を払いながら言うと、姉さんは小さな声で言った。

「ごめん。ごめんね。母さんとだぶらせちゃったのね」

「いいから、行こう。でないと父さんにここのことを教えるよ」

 姉さんは立ち上がってついてきた。ぼくは蚊取り線香を折って、ゴミを集めて下り始めた。後ろは見なかった。ついてきてるのはわかってたから。


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