微量毒素

魔歌:Bonus Track 〜ホーリー・マヤ〜 p.2


魔歌 back end

1 報告検討会 p.1
2 危ない話題
3 いろいろ、やりたい
4 何のための指輪か
5 過去を誇る女 p.2
6 汚れたら、洗うべきこと
7 闇の声
8 歯止めなく、すごい、マヤ

★ 過去を誇る女

 マヤは、近くの公園にホリイを導いた。夜のこととて、人影もない。アベックが来るような公園でもなく、人気はない。

「その指輪ですけど、どういうつもりで私に受け取らせようと?ただの贈り物ですか?それとも、もっと大きな意味を持たせて送られるつもりですの?」

 ホリイはすぐには答えられない。

「贈り物としてなら、それは受け取れません。私は贈られるようなことを何もしていませんから」

 どうも、駄目らしい。それなら、言うべきことを言った方がいい。ホリイはようやく、清水の舞台から飛び降りるようなつもりで告白した。

「薬指にはめてもらいたいと思っている」

「どちらの?」

「え?何か違いがあるのか?」

 思いもかけないことを訊かれて、ホリイはうろたえた。頭に血が上って、正常な判断力を失ってしまった、うろたえるホリイを見て、マヤは哀しそうに笑った。

「ほんとうに、愛しい方」

 ホリイは頭ががんがんと鳴り、マヤの声も耳に入らない

「ええい、慣れん回りくどい言い方をするからこうなる!マヤさん、結婚してくれ!」

 マヤは両手で耳を隠し、いやいやをする。そのマヤを見ているうちに、頭の中で暴れている子豚も落ち着いてきたらしく、ホリイはやや平静に戻った。そして、マヤを混乱させないように、静かに言った。

「駄目なら駄目でいい。そう言ってくれ」

 マヤは耳を塞いだまま、ホリイのほうを見ずに言った。

「本気で、そんな風に考えておられたんですか」

「俺はいつも本気だ」

 マヤは頷いた。

「うそでも、気の迷いでも嬉しいですわ。でも、駄目です。私のようなものとなんて、ホリイ様のためになりません。しっかりした方だと思っていましたのに、私の色香に騙されてしまうなんて」

「何が俺のためになるかは、俺が決める。こちらも伊達に歳はとっていない。いくらすごくても、小娘の色香に騙されて、人生を誤ったりはしない」

「それは、ホリイ様がまだ私をご存じないからですわ。私がその気になったら、小娘なんておっしゃっていられなくなりましてよ」

「そら見ろ、おまえはまだその気になってなんかいないんだろ。じゃあ、俺を惑わしてなんかいないじゃないか。俺は、自分でおまえがいいと決めたんだ」

 マヤは耳を覆った手を下ろした。

「哀しいことをおっしゃる。私のほうが惑わされてしまいそうです。でも、私は信じられない。私は愛し合ってもいない夫婦が、妥協しあって、寄生しあって生きているのを見ました。私はそれがどうしても嫌で、家を出たんです。ホリイ様も、今はそう考えていらっしゃっても、時が経つうちに、私の過去を思って、きっと私を嫌いにおなりです。でも、その時には私がホリイ様と離れたくなくなっています。そうしたら、私はただの枷(かせ)になってしまいます」

「さっきから、過去過去ってしつこいんだよ。おまえはカッコー鳥か?」

「...笑えませんわ」

「すまん、少し緊張を和らげようと思って。とにかく、おまえは過去に拘っているようだが、そんなに大層なもんなのか?大勢の男に抱かれていたことが」

 マヤは打たれたように後じさった。

「俺は、あの少年が飛び込んできたときから、あの事件に関わっている。だから、事件の最初からおまえを見ていたんだ。おまえがどんな人間か、どんなことをしてきたかくらい、すべて知っている。今さら、過去を誇って、それに縋(すが)ってるんじゃない!」

「誰が誇ってなんか!」

 マヤは叫んだ。怒っている。本当に、マヤは怒っている。ホリイはにやりと笑って言った。

「誇ってないんだったら、もうそれをこれ見よがしに引き合いに出すな。過去は過去、だが今のおまえは過去のおまえじゃない」

「理屈はそうでも、感情はそうは割り切れませんでしょ!ぜったいに嫌になります。私の身体は、汚れきっているんですから」

「汚れてたら、洗えばいいだろう]



★ 汚れたら、洗うべきこと

 マヤは、虚を衝かれたようだった。

「汚れたら、洗えばいい...?」

「普通、そうするだろう?汚れたからって、何でもかんでも捨てるほど、俺は金持ちの育ちじゃない」

「洗うんですか...」

「それにな、俺は自分のものに手をかけるのが好きなんだ。俺の車を知っているだろ。もう13年も乗っている。古いし、手はかかるが、他の車に乗り換える気にはならない。俺はあいつの隅々まで知っているし、あいつはちゃんと手をかけていれば、いつも俺の期待に応えてくれる」

「車と人間は違いますわ...」

「女はいつもそう言う。同じだよ。一方的に愛情を注ぐという意味ではな」

「一方的に...」

「なあ、マヤ。人間なんて車と違って、手をかけたらかけた分だけ応えてくれる、というわけじゃないだろう。だって、それぞれ別々の意思を持って生きているんだから。だから、愛情は一方的に注ぐしかないんだ。後は、相手が受け入れてくれるかどうかだ。両方がちょうどよく愛し合っているカップルなんて、そうそういやしない。あんたの両親も、あんたが思うほどひどかったわけじゃないと思うぞ。本当に相手を好いていなければ、同じ屋根の下にいるのだって嫌になってくるからな。たかだか16年くらいしか生きていないガキが、それより長く連れ添っている夫婦を見切ったような気になるなんて、俺から言わせりゃ大層な思い上がりだ。よく考えてみろよ。おまえを間において、おまえのうちにも、すごくいい空気が通っていたはずだぞ。そうでないことが、確かにあったとしてもだ」

「おとうさんと、おかあさんが?」

 マヤは色々な思いを探っているようだった。しばらく放っておいたほうがいいかも知れない、とホリイは思った。しかし、マヤはすぐにまた向かってきた。

「でも、一方的に愛するしかないなんて、悲しいことじゃありませんか?」

「逆だな。愛情ってのは本来、与えるものだ。見返りを求めたら、そりゃもう愛情じゃないだろう。単なる取引だ。悲しいのは、愛されることしか知らない奴だ。そういう人間は、決して満足できない。愛情の本質を勘違いしているから、永遠に満たされることがない。一方的に愛することができるのは、それだけで生き物としての最高の経験の一つだよ」

「ホリイ様が、そんなことを考えるような方だとは思いませんでしたわ...」

「言ったろう。縁がないって。昔からどうも縁に外れるから、こんなことを考えて、気を紛らわすしかなかったんだ。威張れたことじゃない」

「でも、相手が受け入れてくれなかったら?それは悲しいでしょう?」

「当たり前だ。今、この時だってとても悲しい。でも、相手の気持ちがこちらに向いていないのに、受け入れられたらどうだ?もっと悲しいじゃないか。それで受け入れられたら、相手の気持ちは自分以外の何か、金とか権力とかに向いているわけで、独りでいるよりつらくなると思うぞ」

「それは、そうですね」



★ 闇の声

 マヤはホリイを改めて見た。じいっと、じっくりと見た。

「ホリイさんって、お話がお上手ですのね。騙されてしまいそうですわ。それでは、もう一つだけ、どうしてもお聞かせ願いたいことがあります」

「もう、何でも来いだ。ふられ男に怖いものはないぜ」

 マヤは公園に立っている街灯の明かりから隠れるように、大きな木のつくる漆黒の闇に身を隠した。ホリイには、その闇が喋っているように聞こえる。

「ホリイ様は、何人もの男を知って、色々な喜びをたくさん知っている女と、ホリイ様に初めて抱かれる、何も知らない娘のどちらかを選ぶとしたら、どちらをお選びになりますか?」

「嘘を言ってもいいか」

「駄目」

 闇はそう言ったきり、気配を消した。ホリイはゆっくりと言った。

「そりゃあ、もちろん、俺に初めて抱かれる、何も知らない娘だろう」

 闇の中には声もない。

「待てよ。まだ終わりじゃないぞ。それでも。」

 ホリイは闇に向かって、強く言った。

「それでも、そうでない娘が欲しいと思ったら?自分はこうだと頭で思っていても、現実に選んだのがその子だとしたら?それは、それこそが本当の気持ちだということにならないか?」

 闇が、揺れたようだった。

「あんたがどれほどの男を知っているか、俺は知らないが、そのことであんたが汚れているとは思わない。抱かれてた時は、それが正しいと思ってたんだろ。後悔するなとは言わないが、その時のあんたも含めて、今のあんたがいるんだ。過去は悔やむものじゃなく、真摯に受け止めれば、今の自分にとってプラスになるだろう。だから、な、下らんことを気にするな。後悔するなら、それを糧にしろ。その上で、判断してくれ。指輪を受け取ってくれるかどうか。俺に気なんか使うなよ、もう半分諦めているから大丈夫だ。嫌ならバーンと断ればいい。でも、ちょっとは検討してくれると、とても嬉しいんだが」

 闇が泣いている。

「俺はな、身体がどうかなんてのは、ほんとのところ大した問題じゃないと思ってるんだ。あの少年が教えてくれたよ。おまえの魂は汚れておらず、常に高みを望んで震えていると。だから救い出したかったんだと。俺はおまえを最初から見てきた。それで、あの少年の言葉が間違っていないことがわかった。だから、結婚してくれ。俺はおまえの全てを受け入れられると思う」

 しばらくの間があった。そして、闇の中から近づいてくる足音があった。

「マヤ?」

 闇の中から、白い手が突き出されてきた。左手である。ホリイは合点し、慌てて箱を落としそうになりながら、指輪を取り出した。頭に血が上っている。闇の中からくすくすと笑い声が聞こえる。

「いいぞ。指輪を嵌める時には、笑ってないとな」

 ホリイは言いながら、神妙な顔をして、厳かに、薬指に指輪を嵌めた。

「どうして、サイズがわかったんですの?」

「必死でな。気付かれないように、色々やった。結局、俺の小指の第2関節と同じサイズだということがわかったんで、それで注文した。もういいだろ、来い」

 指輪をつけた左手を引っ張って、光の中に現われたマヤを見て、ホリイは胸を衝かれた。マヤは微笑みながら、滂沱の涙を流していたのである。ホリイは、そっとマヤを引き寄せた。マヤは枯葉が落ちるようにホリイの胸の中に在った。ホリイに抱きしめられたマヤは、上気した顔で、ホリイの耳元に口を寄せた。

「そのような仲になりましたら、私、手加減をしませんわよ。私、本当にすごいんですの。ちゃんと受け止めてくださいましね」



★ 歯止めなく、すごい、マヤ

 ホリイは怯えたような顔で、真っ赤になっている。すでに血管が切れそうな状態である。

「...努力しよう」

「ねえ、もう我慢出来ませんわ」

 マヤは唇をホリイのそれに近づけた。と、ホリイがマヤを抱きなおし、唇を重ねた。乱暴なまでに荒っぽいキスを受け、マヤは身体を脈打たせ、ホリイに全てを預けた。

 ようやく唇をはなすと、マヤはふらつき、立っていることが出来ない。ホリイは慌ててマヤを支え、回りを見回して、空いているベンチを見つけて、そこにマヤを座らせた。

 マヤが浅く息を吐いているのを見て、隣りに座り心配そうに聞いた。

「大丈夫か?」

「大丈夫に見えます?全然大丈夫じゃありませんことよ。キスって、こんなに刺激的でしたのね。初めてですわ、キスでいってしまったのって」

「い、いった?」

「ええ。もう数え切れないくらい」

「そうなのか...」

「でも、もう大丈夫。ほら」

 マヤは立ち上がった。が、すぐにふらつく。

「危ない...」

 ホリイが支える。マヤはそのままホリイに凭れかかり、身体を揺すっている。

「少し、休みたいですわ」

「そうだな。喫茶店にでも行くか」

 マヤはホリイに回した手を、少し強く締め付けた。

「ホリイ様は、一人住まいでいらっしゃいましたよね」

「ああ。アパート住まいだ」

「そちらに連れて行っていただけません?二人きりになりたいんです」

 ホリイは呆然としてマヤを見る。マヤは目を潤ませてホリイを見返す。

「生まれて初めて、自分の意思で男の方に抱かれたいと思ったんです」

 ホリイは口をパクパクするが、一向に言葉が出てこない。

「ちなみに私、着付けも出来ますから」

 マヤは言って、ホリイの胸に顔を埋めて、小さく笑った。


魔歌 back end

微量毒素