黄の魔歌 〜折れた角〜 p.6
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「学校をやめるって、どういうこと?」 「やめるんじゃなくて、転校したいの。」 「高校の転校って難しいのよ。なんでまた...何が違うの?その学校と今の学校で。」 「スペシャリストを育成するための学校なのよ。全寮制で、自分が興味を持ったことを、徹底的に追及していけるようなカリキュラムになっているの。私は普通の学校だとなじめないけど、その学校なら、自分のいいところが、伸ばしていけるような感じがするの。だから、お願い。」 「でも...」 キスゲは、プラタナスが世話をしてくれることになった学校への、転校を決めていたが、当然のことながら両親は心配し、キスゲの真意をはかろうと躍起になっていた。しかし、キスゲの決意は固かった。転校を決めてから、キスゲは学校に通うのをやめていた。先に折れたのは、一日中説得され続けて、疲れ切った母親ではなく、父親の方だった。ついに母親が折れたのは、プラタナスも同席した、10日目のことだった。 「キスゲが、それが自分にとって、いちばんいいことだと思っているんだから、それでいいんじゃないのか?」 「本当に、それがいちばんいいと思っているの、キスゲ?あたしには、あんたが何か無理をしているんじゃないかって、そればかり気になるんだけど...」 「考え過ぎよ、おかあさん。ここにいるプラタナスさんが。私の才能を見つけてくれたの。たいしたことないかもしれないけど、もし私に何かの才能があるんだとしたら、私はそれを試してみたいの。」 「でもね、キスゲ。それでも私はあんたが何か無理してるんじゃないかって...」 「いやあね、おかあさん。私が何で無理する必要があるの?私が不満を持っているとしたら、なんの取り柄もない私がこのまま人と同じように生きていけば、なんの取り柄もない人生を、全うすることになるだろう、ってことに対してだけよ。何か私だけができることがあるんなら、私はそれに賭けてみたいのよ。」 「でも...」 「おかあさん。おかあさんは私が何をしたいか、何を本当に望んでいるかわかるの?私にやりたいことがあるとすれば、それがわかるのは私だけよ。」 「そんなことはないんだよ、キスゲ。本当は、私たちがわかってあげられなくちゃいけないの。でも、私は頭が悪いからわかってあげられない。そのためにあんたが、つらい選択をしなくちゃならなくなっているんじゃないかって、」 「おかあさん...」 母親の真摯なことばにキスゲの決心が揺らいだ一瞬だった。その時、プラタナスが口を挟んだ。 「そこまで考えられるおかあさんが頭が悪いなんてことはありませんよ。しかし、今のお母さんのご心配は、まだ小さいキスゲさんを、手放されるのがつらいお気持ちから、きているのではないですか?だとしたら、心配しすぎて、何もできない子供にしてしまうことにもなりかねませんよ。けっこう最近多くなっている話ですから。キスゲさんは今、自分の道を自分で切り開こうとしているんです。こんなに自分の人生を真剣に考えているお子さんは、最近はむしろ珍しいくらいです。そんな彼女の熱意に感じて、私も今回のようなお話しをお持ちしたのです。お子様の、前に進もうとする力を大事にしてあげて、一度試させてはいただけないでしょうか。何、通常のカリキュラムは普通高校より進んでいますし、もし思ったような成果が出なくても、通常高校でやり直すのは簡単です。以前差し上げた資料でも触れておりますが、ほとんどの通常高校への転校は、無試験に近い形でできるわけですから...」 キスゲの母親のほんとうの気持ちは、もっと原始的な、愛情に満ちた魂から生まれる、直感からきているものであり、だからこそキスゲはそれに動かされそうになったのである。しかし、プラタナスはそれを察し、母親の気持ちを、盲目的な母性愛ではないか、という枠組みにはめ込むことで、その情動を抑え込んだのである。 実際にあっているか否かに関わらず、分類され、レッテルを貼られた感情は、納得しやすい形を持ち、多少の違和感は消してしまう。しかも、その後に並べられている言葉が、世間一般でいうところの正論で固められていれば、それはいっそう甘い口当たりで迫ってくるのだ。 キスゲはそれを察したが、レッテル貼りの効果は確実に機能し、キスゲの情動を抑え込んでしまった。一度感情から理性にシフトしてしまうと、どんなに貴重な感情も色褪せてしまう。これはキスゲの母親にも同様に機能し、自分は誤解していたのかもしれないと思わせてしまう。一度疑いのフィルターを通した感情は、どんなに純粋な動機から出たものであっても、本人自身にも真実が見えなくなってしまう。これはマインド・コントロール技術の一つであり、キスゲはそれに気づいていた。 滔々としゃべり続けるプラタナスを見ながら、キスゲはプラタナスを疑いながらも、未だ甘い期待をどこかに抱いていたことに気づいて、自らを戒めた。それと同時に心の奥のどこかが傷ついていたが、これは表層には現れず、深層のレベルで処理されてしまった。 このプラタナスの話で、キスゲの転校は事実上決定した。理性では承知した母親だったが、やはりプラタナスの話に、違和感を感じていた。プラタナスの帰ったあと、母親は娘にこう言った。 「あの人も頭がいいけど、あまり信用しきらないほうがいいんじゃない?」 「あの人にはとりあえずお世話になるだけだから。全面的に信用しているわけじゃないから大丈夫よ。」 母親はそれで黙ったが、キスゲの言葉を信じてはいなかった。また、キスゲもそれを感じてはいたが、深層で傷ついた心がそれ以上この話題を続けることに苦痛を感じていたため、親子はこれ以上、この話題の理解を深めあうことはできなかった。そして、それほど待たずして別れの日を迎えることになった。 |
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「このたび、キスゲさんが転校されました。突然のことで、お別れの挨拶もできないということで、皆さんによろしくお伝え下さいとのことでした。」 キスゲが学校を休んで一ヶ月ほどたったある日、担任の教師がクラスにキスゲの転校を伝えた。ひそやかなざわめきの中、エツコは机にあいた小さな穴に消しゴムのかすを詰め込んでいた。シャープの先で慎重に押し込み、飛び出ないように押さえて、しばらく力を込める。そっと戻しながら飛び出てこないことを確認し、その上から新たなかすを押し込み、ぎゅっと押さえる。エツコは授業の間中それを繰り返し続けていた。 昼休みになり、食事を終わった生徒達が外に、あるいは屋上に出ていく。エツコは、前に顔を向けたまま、いすに座っていた。やがて、エツコは重たそうに唇を動かし、声を出さずに言った。 『逃げたわね、キスゲ。こっちの気持ちを、わかろうともしないで。』 エツコは、そのまま動かなかった。空いている廊下の窓から、エツコを見つけたミエが、声をかけながら通り過ぎる。 「やほー、エツコー。また遊ぼうねー。」 ミエはほかの友達と笑いあいながら、通り過ぎてゆく。エツコは返事するともなく、つぶやいた。 「...いつかね...」 窓の外から、みんなが叫ぶ声、笑い声が聞こえてくる。教室の中は、外の明るさに比べると、遠く隔たった世界のように、薄暗く、静謐さに満ちている。もう、教室にはエツコ以外、誰もいない。みな、明るい外へ出て行ってしまった。外があまりに明るいので、エツコは黒い影のように見える。影は、少しも動こうとしない。やがて影の唇が動き、影の心を綴り始めた。 「わたしはね...わたしは、あなたを変えてあげたかったのよ。いつも抑えて、子供らしくない我慢をしているあなたを。」 外では、バレーボールか何かが始まったらしい。掛け声と、ボールの弾む音、悲鳴と笑い声が窓から流れ込んできている。 「なのに、あなたは行ってしまった。」 風で、席の後ろの掲示物が、はたはたと音を立てるが、やがてまた静まってしまう。 「私はね、あなたに、泣いて、怒って、笑ってほしかったのよ...心の底からね。逃げるなんて、卑怯よ。くそったれ。...わたしの...わたしのともだちでしょ?キスゲ...」 誰もいない教室。 「なんで、信用してくれなかったかな、ブタ女。」 エツコは静かに、表情も変えずに、涙を落とした。澄んだ鐘の音が、学校全体に響き渡った。予鈴だ。もうすぐ、午後の授業が始まるのだ。 |