微量毒素

黄の魔歌 〜折れた角〜 p.5


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「では、お休みなさい。子守唄が聞きたくなったら、いらしてください。悪夢を見ていなければ、騒いだりしませんから。じゃあ、お休みなさい。」

 キスゲはするりと部屋を出ていった。プラタナスはしばらく動かず、瞳を虚空にむけていた。やがて頭を振り、手に持った水割りをごぶりと飲み込むと、キスゲが入り口に立っていた。プラタナスは無機的な瞳をキスゲに向けた。

「やっぱり抱いて欲しいのか?」

「さすがですね。このタイミングで、ギャグで迎えてもらえるとは思いませんでした。」

「こっちこそ恐れ入るよ。で、いったい何だ?」

「あの、余分な服をお持ちですか?」

「ああ?」

「寝るときに着る服が欲しいんですけど。」

「ジャージで寝ろ。」

「何か悪夢を見そうで。」

「じゃ、下着で寝ろ。」

「今、着てないんです。」

 プラタナスの動きが止まった。

「...なに?」

「だって、濡れちゃったから。」

 プラタナスは頭をかきむしった。そしてぐしゃぐしゃになった髪の中に指を突っ込んだまま、しばらく固まっていたが、低い声を押し出した。

「Tシャツとトランクス。」

「いいです。洗ってあれば。」

 長いため息をついて、プラタナスは立ち上がり、出ていった。キスゲはその後についていった。

「あの、何か...怒ってます?」

「いや...どちらかというと呆れているに近いかな...少し違うけど...」

「そうですか。」

 着替えを渡されてキスゲは言った。
「あの、やっぱり部屋に来てくれます?」

「なに?」プラタナスの声は少し裏返っていた。

「少し心細くて...やっぱり、よそのうちで一人で泊まるのは、初めてなんで...眠るまで、ついていてくれませんか?」

「おれもかなり心細くなってきたが...」

「何ですか?」

「何でもない。子守唄でも歌ってやろうか?」

「歌えるんですか?聞いてみたい。」

「今のは冗談だ。」

「聞かせて下さい。」

「...着替えるまで待ってるから。ベッドに入ったら呼べ。」

「心細いな...横で待っててくれません?すぐに着替えますから。」

「死んでもだめだ。大丈夫。地縛霊も浮遊霊も怨霊もいないから。たぶん。」

「すぐそこで待っててくださいよ...すぐ来なかったら、悲鳴をあげますからね。」

「わかった。わかったから、とっとと眠りにつけ。」

「待っててくださいよ...」キスゲは心細げに言い、部屋に入った。

「ドアを閉めろ。」

「えー?」

 プラタナスは廊下の壁にもたれ掛かり、長すぎるため息をついた。

「入りました。」

「着ていた服はたたんだんだろうな。」プラタナスが入ろうとすると、

「あっ」

 キスゲがベッドから飛び出し、慌てて脱ぎ散らかしたジャージを、たたみはじめた。プラタナスは、くるりと向きを変えて部屋の外に出、廊下の壁にもたれかかるようにして座り込んだ。そして、しばらく下を向いていたが、やがてその肩が小刻みに震えだした。

「くっ」

「たたみましたあ。」キスゲの声を聞き、プラタナスはこらえ切れずに笑いだした。

「くっくっく...」

「あの...プラタナスさん?」

「くっくっく...プーさんだろ、ええ?」

 久しぶりに苦笑い以外の笑いを頬に浮かべながら、プラタナスは部屋の中に入っていった。
「子守唄を歌ってやるから、いい子で寝るんだぞ...」

 部屋の外では、まだ雨が降り続いている。冷たい秋の雨だ。一雨ごとに秋が深まっていく雨に包まれて、それぞれの人間が、それぞれの思いに耽っていた。


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