微量毒素

黄の魔歌 〜打つも果てるも〜 p.9


魔歌 back end


「あんたは、私をよっぽど馬鹿だと思っているらしいわね。わかってるわよ、あなたが今言っていることくらい。どの調査も必要だってことも、私にきつい仕事を割り当ててるってことも。でもね、いいのよ。私はそんなに気にしちゃいないから。」

「...気にしちゃ、いない...?」

「そこで引っ掛からない!私はまだ、あなたにそれほど悪意を持っちゃいないわ。だから、そっちの話じゃないの。」

「...悪意をもっちゃいない...?」

 キスゲは、暗い声を出した。

「じゃあ、私のしてきたことって、意味がないって言うこと?」

「そうだよ。私はあんたに、嫌がらせをしたわけじゃない。あんたに嫌がらせを受ける謂れはないし、受けても、子供のやることだから、そんなに気にしてないって。」

「私が、あんなに考えて計画したのに。あんなに、調べて割り当てたのに。」

「おいおい、そっちの問題かい。そんなことを考えてる暇があったら、もっと建設的なことが...」

「建設的だったのに!すごく楽しかったのに。すごく、考えて作ったのに。だめだ、私には能力がないんだ。ぷーさん、やっぱり駄目だ、私って。あのまま、雨に打たれて死ねばよかったんだ...」

「こらこら、そこで勝手に死なないで。あんた、他の企画はうまくいってるんだろ?」

 成り行きで、ユカルはいつの間にか、キスゲを励ましていた。

「人を陥れるのがうまくいかないなんて、人間としてはかえっていいことなんじゃないの?そんなことで、死にたいなんて思うんじゃないよ。そういう人間が減るってのは、人類の損失よ。減っていいのは、私みたいな人間だけなんだから。」

 キスゲは、ユカルの顔を見ていた。じっと、穴の開くほど見ていた。さすがにユカルも対応に困り、咳払いをした。

「...ごめんなさい。」

 ユカルは思わず、キスゲの顔を見た。キスゲの顔から、さっきまでの自棄のようなものが消えており、素直な少女の顔に戻っていた。

「ごめんなさい、ユカルさん。私、あなたにひどいことしてました。お話ですけど、少し後にして下さい。今は恥ずかしくて、あなたとお話していられません。後で、必ずお話をお聴きしますから、今は...」

 ユカルは、キスゲの気持ちがわかったので、とりあえず、引いたほうがいいように思った。念のため、プラタナスの顔を見た。プラタナスは、頷いた。その顔には、感謝の念が溢れていた。ユカルは、出て行こうとした。が、何かに引き止められて、振り返った。ユカルはキスゲのそばに行き、肩をぽんぽんと叩き、あらためて踵を返し、振り向かないで、出て行った。

 扉が閉まり、後にはキスゲとプラタナスが残された。プラタナスは黙って立っていた。ずいぶん、長い時間が経って、キスゲがポツリポツリと話し出した。

「私ね、幼稚園の時に、他の子が悪いことをやめないのに、自分がやめなければならないのは理不尽だ、と思ってたの。自分は正しいことをやってるのに、苛められるのは、絶対に嫌だったの。それから、他人が信用できなくなっちゃった。ひょっとしたら、私、たくさん間違ってきたのかもしれない。おとうさんやおかあさん、それに...」

 キスゲの脳裏にエツコの顔がよぎった。プラタナスは、低い声で喋り始めた。

「他人がやめないのは、どうでもいい。気にすることはないんだ。やめなかったその子供は、やめることができなかっただけなのだから。」

 キスゲはプラタナスの顔を見た。

「自分がやめるのは、やめなければいけないから、ではない。やめられるから、やめるのだ。自分の行動を、自分の意志で制御できるのは、人間としてすばらしい特性だよ。そうは思わないかね。しかも、それが自分自身に恥ずることのない方向であれば、申し分ない。ユカルさんの言ったことは、そういうことだね。」

 キスゲは頷き、目を閉じた。滑らかな皮膚の上を、涙の粒が滑り落ちた。

「ありがとう、プラタナスさん。自分でも言うつもりだけど、ユカルさんにもありがとうと伝えておいて。」

「わかった。必ず、伝えておこう。」

 ユカルは、それ以上涙を零さなかった。きょう、この時に、キスゲは精神のくびきから解放されたはずなのだが、キスゲの態度は嬉しいというより、重々しい決意のようなものを湛えていた。それは、プラタナスをしても、声をかけかねる、荘厳さを持っていた。



 私が、この子をこの世界に連れてきた時から、ずっと気になっていたのは、これだったんだ。他人を許せない自分を、許すことができないキスゲ。俺がこの子を読み損なったのは、そこだ。こうなっては、この子をここにおいて置くのは、望ましくない。しかし、外に出すには、もう遅すぎる。この子を引き入れてから、ずっと感じていた恐怖の正体がこれか。自分が招きいれた、お菓子の家から、この子を救い出すことができるか?安全領域を、はるかに通り過ぎてしまった今になって?

 プラタナスは、再び、自分が小さな子供になって、お菓子の家の前に立っているのを感じた。しかも、今は一人ではない。大事な妹がいるのに。空腹にかられて、入ったお菓子の家は、けして入ってはいけない家だった。ここから逃げられるか?魔女を倒すことができるか?この僕に?何も持っていない、ただの空腹な少年に?プラタナスは、またも、激しい恐怖の発作に襲われていた。


魔歌 back end
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