黒の魔歌 〜序・破・急〜 p.10
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★ 待つために |
小夜子さんの前、コジローはテーブルに肘をつき、両手で頭をかきむしった姿勢のまま、言った。 「小夜子さん、俺は一人で行きます。ここにも来ないつもりだったんですが、お願いが出来てしまったんで、お会いできる義理でもないのを承知の上で伺いました」 小夜子さんは黙って座っている。ここはウンディーネの中。まだ開店までは間がある。コジローは続けた。 「俺は、アザミを守れませんでした。大切な、大切な娘を。自分を守るのに精一杯で」 「あなたのせいじゃないわン。こんな変なことなンて、普通考えられないもン」 「信頼も裏切りました。俺は、大事な預かり物を汚してしまいました。小夜子さんに、あんなに偉そうなことを言っていたのに」 小夜子さんは口を挟もうとしたが、コジローはそのまま続ける。 「挙句、傷つけ、あいつは今病院です。それほど傷は重くはないようだけど、俺のせいで傷つけられたんです。自分で傷つけるだけでは足りずに」 「汚してなンか、いないわよン。すばらしいことがあったンじゃないン。みンなが望んで、でも必ず得られるとは限らない、お互いの信頼の上に立った素晴らしい経験が」 「だめです。どんな言葉で飾っても。俺はアザミを汚した」 小夜子さんは抜く手も見せずに、コジローの頬を張った。激しく高い音が、ウンディーネの中にこだました。コジローはよけもせず、受けた。 「ほンとはわかってるンでショ、あの子の心。だったら、それを辱めるようなことは言わないで」 「ありがとうございます。信頼を裏切って、迷惑をかけることになってしまいましたけれど。私は消えます」 「愛し合うもの同士が結ばれたんでショ?なのに何でコジローは行くのよ」 コジローの口元に、凄絶な笑みが浮かぶ。 「俺といると、アザミが不幸になる。襲ってきた連中は俺を狙ってきたんです」 「当たり前でショ。誰がアザミちゃんを狙うってのよン。思い当たる節はあるんでショ」 コジローは笑みを浮かべたまま言った。 「ええ、いくつか。で、俺は遅れをとった。相手はものすごい使い手でした。ほんの少しの差で私が生きましたが、あんな男がまた来たら、俺にはアザミを守りきる自信がない」 「アザミちゃんは守ってもらいたいなんて思ってないわよン。逆に、そばについていて、コジローを助けたいと思ってるのよォ」 コジローは一瞬ぽかんとして、この時はいつもの笑みを浮かべた。 「すげえ。どうしてわかるんです?アザミの言った通りだ。あいつに聞いたんですか?」 小夜子は、身体を揉むようにして言った。 「だからガキだって言うのよン。女はネ、みんなそう思ってンのよォ。好いた男を守りたいって。男はみんな、まるで死ぬのが好きみたいに飛んでっチャうからさァ」 「ははは、そうなんだ...」 「そうよォ。お願い、アザミについててやって。あんたがいなけりゃ、あの子がどうなっちゃうと思ってンのよォ」 小夜子は、本当に、必死で言っている。コジローにもそれはわかっている。伝わっている。 「アザミを頼みます。頼めた義理じゃないけど」 「このォ、大馬鹿やろォ!」 コジローは頭を下げ、ウンディーネを出て行った。小夜子にも分かっているのだ。大事なものを傷つけるかもしれないと思いながら、それでも連れて行けるほど強い男はそうはいないということを。コジローが出て行く足音を聞きながら、小夜子もまたコジローを引き止められない。コジローの気持ちがわかってしまうから。 「腰抜け野郎!まったく、どうして男って、自分の理屈でしか動こうとしないンだろォ。何で自分一人で、何でもかんでも背負おうとしちゃうンだろォ」 小夜子は怒りに近い悲しみが、身体の中を荒れ狂うに任せながら、じっとそのまま座っていた。 |
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ウンディーネを出たコジローは、荷物を持って駅の方に歩き出した。コジローが行ってしばらく経ってから、男が一人横道から姿をあらわし、公衆電話に向かった。 「スナックです。今、出て行きました。駅方面に向かったようです」 男はしばらく受話器を耳に当てたまま立っており、短く了解、と言って電話を切った。男は、回りを見回し、伸びをしながら歩き出した。 「まだまだ開いてる飲み屋はねえなあ。ちょっくら戻ってみるとするか」 男は大きな声で独り言を呟き、すっかり飲兵衛の親父の雰囲気をまとって、蟹股で歩き出した。商店街の人込みの中、若い奥さんが眉を顰めて避ける中を、男はふらふらと歩いて行った。男の姿はすっかり町に溶けこみ、目を離すともう見分けられなくなっている。 |
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コジローは背後からずっとついてくる女の気配を感じている。 (あの物騒な女じゃなさそうだが) コジローは思って、歯を食いしばったまま笑った。 (もう、付いて来やがる。どんな奴らが俺を付け回しているのか。俺は逃げた方がいいのか、悪いのか、もうわからんが、とりあえずは、アザミと約束したんだ。生きていかないとな) 柔らかく包み込む包囲網を感じながら、コジローは歩く。一人で。皮肉な笑みを頬に浮かべながら、コジローは歩き続けている。 |
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「いい風...」 よく晴れた秋の日。日が暮れれば肌寒いが、日が出ている間は、風が心地よい。病室の窓から、白い飾り気のないカーテンを揺らして、風が通り抜ける。アザミはベッドの横に座っている小夜子さんが眼に入らないように、顔を高く上げて、カーテンの揺れる窓の外を眺めている。その横顔は、気高いと言っていいほど透き通っている。時間がゆっくりと過ぎていく。アザミが、外を見たまま、不意に言った。 「行っちゃったんでしょ、あの人」 小夜子は答えない。これは答えの要らない質問だから。 「ほんと、ガキなんだから、あいつ」 アザミは歌うように言った。 「わかってるのかな。こんなに大変な仕事を、小夜子さんに押し付けるなんてさ。一人で置いてかれた、いかれた娘の説得をさせるなんて」 小夜子は初めて口を聞いた。 「わかってるわよン。あの子は、人一倍気を使う性質だからねン」 アザミは外を眺めたまま、小夜子の言葉を聞いている。 「それでも、私に頼むしかなかったンでショ...あンたを巻き込みたくなかったから」 アザミは、激しい勢いで小夜子さんに食ってかかった。 「何言ってんの、おばさん!あんたに分かるわけ、ないじゃない!ぼくは巻き込まれることなんて少しも怖くなかったんだ。置いてかれて、コジローを助けてあげられなくなることだけが怖かったんだ!ぼくはずっとコジローを守ってあげなきゃいけなかったのに、あいつは行っちゃったんだ...」 「コジローちゃんはネ、ものすごく怖かったんだよォ。あンたを巻き込んじゃうのがねン」 アザミは、小夜子の言葉を聞き、今の勢いを忘れたかのように退いて、静かに言った。 「ごめん、小夜子さん。小夜子さんがわからないなんて思ってないよ。きっと、コジローより、ぼくよりよく分かってんだよね、今のぼくたちの気持ちが」 小夜子は静かに笑っている。 「ぼくはどうしたらいいんだろ。南野に帰って、全部忘れて、また一からやり直せばいいのかな。コジローのことを忘れて、ぼくでもいいといってくれる人と会って、静かに暮らしていけば...」 「忘れちゃ、だめよォ」 アザミは小夜子さんを見た。小夜子さんは、やはり静かに笑っている。アザミは童女のような声で言った。 「忘れちゃ、駄目なの?」 「忘れちゃ駄目。コジローは、あンたの、この世で一番大事な人なのよン。それを忘れて、どうするって言うのン」 アザミは小夜子の目をじっと見ていた。そして、目を逸らして、呟いた。 「忘れないで、いいのかな」 「違うわよォ。忘れちゃ、駄目なの!」 アザミはまた、小夜子さんの顔を見た。みるみるその顔が歪み、べそをかき始めた。 「だって...うっく、えく、コジローは...ふっぐ、ひっく」 「コジローは、迎えに来るって言ったンでショ。きっと、生きて迎えに来るってェ」 泣きじゃくりながらアザミは頷いた。 「う...ん。ひっく、えぐ、ぜったい、うっく、帰るって...えっく」 「それをあンたが信じなくて、ほかの誰が信じるって言うのよン」 アザミは頷く。何度も。もう、声は出せない。 「うっく、えく、ひっく、えぐ」 アザミはしばらく泣き続けた。小夜子はずっと横に座っていた。随分な時間が経ち、アザミは腫れぼったい目を細めて、笑って見せた。 「ありがとう、小夜子さん。もう大丈夫」 頷いて、小夜子は首を傾げて言った。 「聞いてもい−い?コジローが言ってたんだけどォ、あンたたち、結ばれたんだってェ?」 「コジローったら、そんなことまで小夜子さんに言ったんだ」 「あの子なりの誠意のつもりなンでショ。とりあえず、おめでとう。よかったね、アザミちゃん」 「コジローは行っちゃったのに、おめでとうなの?」 「大好きなもの同士が結ばれたンでショ?これ以上にめでたい事なんて、この世にはありませンよォ」 「うん、うん。そうだよね。そうなんだよね、小夜子さん」 アザミは涙をまた零したが、今度の涙は、完全な嬉し涙だった。 「ありがとう、小夜子さん」 小夜子は頷いて言った。 「退院したら、まず最初にぱーっとお祝いをしようね」 「なんか、恥ずかしいなあ」 「何言ってンのよォ。花火を上げちゃってもいいくらいよォ」 「あはは」 「もちろん、旦那は抜きで、あンたとあたしの二人だけでねン」 「そうね。場所はもちろん」 「倉庫の上!」 アザミは頬に涙の後をつけたまま、光り輝くような笑顔を見せた。小夜子は少し首を傾げて聞いた。 「それからは、どうするン?」 「...南野に帰るしかないかな。ほかに当てもないし」 小夜子さんは珍しく言い出しにくそうな顔をした。アザミがきょとんとしていると、意を決したように、唐突に切り出した。 「ねえ、あたしさァ、あんたたちを養子にしたいなァなンて考えてるんだけど、無理かなァ」 アザミは驚いた。さすがに、これはアザミも予期していない話だった。 「どうかなあ。ぼくの両親は、ぼくを手放さないと思うんだ。コジローが、それを教えてくれた。両親は、ずっとぼくを愛してくれているって」 小夜子さんは少しもじもじしていたが、顔を上げて言った。 「じゃあ、コジローを養子にするってのはどうかしらン。アザミがお嫁さんに来てくれればァ、おンなじことよねン」 アザミは思わず笑った。 「ものすごい考え方をするねえ、小夜子さん」 「コジローはどうなのかなァ。ご両親は亡くなったって聞いたんだけどォ」 「うん、コジローは身寄りがないんだって。あとは行方知れずの妹さんが一人いるって言ってたけど...」 「じゃア、大いに脈ありィ、って感じよねン」 アザミは嬉しそうな小夜子の顔を見て笑った。 「うん、そうだね」 「だからさァ、だから...」 小夜子はまた言い淀んでいる。アザミは聞いてみた。 「うん?」 「だからァ、コジローが帰って来るまで、アザミちゃんは一緒にいるのよ?お嫁さん見習い、ってことでさァ。もちろん、南野には挨拶に行ってェ、私からお願いしてみるからさァ」 「小夜子さん...」 小夜子さんはアザミがここでコジロ−を待っていたいと思っていることをわかっているのだ。ここでなら、アザミは一人の人間として、独立していられる。ここにいたから、自分の本当の気持ちがわかって、コジローの本当の気持ちも分かったのだ。南野に帰れば、回りのみんなが、悪気はなくても、また私を枠にはめてしまうだろう。そうしたら、コジローへの思いもだんだん忘れちゃって、昔そんんな人がいたなあ、なんて思い出すだけになってしまうかもしれない。だから、アザミはここにいたかったのだけれど... アザミは顔を伏せ、小夜子さんを手招きした。 「?」 小夜子さんはベッドの方に乗り出してきた。アザミは、その小夜子さんに思い切り抱きついた。涙をまた溢れさせて、アザミは小夜子さんに言った。 「小夜子さん、あたし、コジローのことが大好きなの。だからずっとこの町にいたい!」 「うん、うん」 小夜子さんは、手をアザミの背中に回し、トントンと叩いた。アザミは不思議と安心し、そのまま抱かれていた。そして、自分の手に水滴が落ち、涙は止まったのに、と不思議に思っていると、水滴はもっと上から落ちてきていたのだ。 「小夜子さん...」 二人はずっと抱き合っていた。 |
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「ねえ、小夜子さん、こんな歌を知ってる? 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」 「大丈夫。どんどんいい女になってけばいいンだからァ。じゃ、私も一つねン 君が行く 道の長てを くり畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」 「怖いな、それ、怖いよ、小夜子さん。そうしたいけど」 アザミはようやく落ち着いて、小夜子さんと話をしている。 「小夜子さんは、やっぱりすごいパワーを持ってるねえ。なんか、コジローが行っちゃったことが、悲しいことじゃないような気がしてきた。コジローが行ったのは、すごく楽しいことの準備のためみたいな気がしてきたよ」 「わたしにパワーがあるとしたら、それはすべて旦那様にもらったものよン」 「いいなあ。ぼくも早くそんなふうに言ってみたいよ」 「もう、言えるでショ、この非処女がァ」 「ひどいよ、小夜子さん。でも、そうだね。コジローがいたから、ぼくは今、こうして、こんなふうにしていられるんだ。そう考えたら、すごく嬉しいな」 「コジロ−ちゃんも、そうだといいんだけどねン」 「うん...でも、コジローは、きっとたくさん、闇をくぐらないといけない気がする。そこで完全に闇に染まってしまわなければいいんだけど。コジローは、あの人を殺しちゃったことを、とても、とても重荷に感じている。その重荷を担っていけるだけ、強くなってくれればいいんだけど」 「まだ、だめなの?」 「まだまだ、駄目だね」 二人はコジローを思って、しばらく黙り込んだ。 |
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二人がいる病院の外で、ヌマジリさんは小夜子さんを待っている。何となく、遠慮したほうがいいと、ずっとここで待っているのだ。幸い、気候はよし、待っているのも苦にならない。 「養子縁組ねえ。あいつも面白いことを考える」 ジリさんはタバコを加え、青空を見上げる。 「誰が悪い癖だか...」 ジリさんはタバコの煙を吐く。 「水商売じゃ、相手は嫌がるかもしれんが、あいつなら何とかするかもしれんな。まあ、頑張ってみるさ」 ジリさんはタバコを外に置いてある灰皿で念入りに消し、吸殻を放り込んだ。 |
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コジローは歩いて行く。もはや自分でも、どこに向かっているかわからない道を。未だ顔のわからない敵を従えて、どこかに向かって歩いてゆく。 |
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