黒の魔歌 〜序・破・急〜 p.9
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★ 夜走る |
アザミはいつの間にか眠ってしまったらしい。気付くと、毛布にくるまれており、横にコジローの姿はない。慌てて身体を起こすと、コジローは既に身支度を整え、近くに立っていた。回りを見張っているようである。アザミが目覚めたのに気付き、コジローがアザミのほうに目をやると、毛布がはだけて、丸い白い胸が月光に曝されている。コジローはぽっと赤くなり、アザミの胸を指しながら言う。 「むね」 アザミは見下ろし、慌てて毛布を引き上げる。しかし、恥じらいより不安が勝って、アザミはそのままコジローを見つめている。 「とにかく、服を着ろ」 しかし、アザミは動こうとしない。その間にコジローがいなくなるのではないかと疑っているようだ。 「逃げやしない。第一、逃げるつもりならとっくに逃げてる」 アザミはようやく頷き、服を探った。しかし、また探る手を止め、コジローを見上げる。 「どうした。早く...」 「向こうを向いてろ」 コジローはパッと笑った。 「すまん。つい、ずっと見ていたくて」 |
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アザミが服を着け終わると、コジローが手招きした。アザミは、毛布を畳んで、立ち上がった。 「少し、歩こう」 コジローは座ったままのアザミの手をとる。アザミは立ち上がろうとして、少し顔をしかめる。 「あ。アザミ、大丈夫か?気がつかなくて」 「大丈夫だよ。ちょっと変な感じだけど」 「歩けるのか?」 アザミはちょっと笑った。 「歩けるよ。怪我や病気じゃないんだから」 そう言いながら、アザミは少し足を引きずるようにしている。 「だって、足を引きずってるぞ」 「うん…ちょっと、蝶番が外れかけたみたいな感じ。でも、怪我って感じじゃない」 「アザミ、大丈夫か?その…痛いとか、つらいとか」 「痛いは痛いけど、大丈夫。つらくはないよ、全然。かえって、満ち足りた感じ」 「ごめん、アザミ」 「何で謝るの?僕はこんなに嬉しいのに」 「いや。何でこんな時にこんなことをしちまったんだろう。それどころじゃないのに」 「これよりすごい事なんてないよ」 コジローは答えず、頭をかきむしっている。アザミは少し首を傾けて、コジローを見ながら言った。 「コジローは、僕を抱いたことを後悔してるの?」 コジローはアザミを見た。しばらくぼおっとしてアザミの顔を見ていた。 「…いや。後悔なんてしていない」 「じゃあ、もっと喜んで。僕はコジローに抱かれたことが、花火を一万発でも上げたいくらいに嬉しいんだから」 コジローは虚をつかれたようだった。 「そうか……そうだよな。俺はおまえと一つになったんだ。これはすごいことだ、確かに」 コジローはつかつかとアザミに近寄り、アザミの眼を覗き込んだ。コジローはアザミの腰に手を回し、ぐいと抱き寄せた。コジローの鼻がアザミの額に触れる。コジローは呪文のように呟く。 「おまえが抱けてよかった。おまえがここにいてよかった。おまえと出会えてよかった。」 アザミは顔をコジローの胸に押し付けてきた。コジローは抱きしめる手に力を込めた。 「僕…僕も初めてくれたのがコジローでよかった…」 コジローは睦言を囁き続けながら、なぜか悲壮な顔つきになってきている。 「おまえがよかった。おまえの肉と、俺の肉が溶け合えてよかった。おまえはこの世の中で、いちばん大事だ。だから、聞け。俺はおまえを置いていく」 びくんとして離れようとするアザミを、コジローは離さない。かえって腕に力を込め、より強く抱きしめた。 「俺は、おまえを攫った奴が誰だかわからない。でも、目当てが俺だって事はわかる。おまえは南野に帰れ」 「いやだ」 コジローに抱きしめられたまま、アザミは答えた。 「とりあえず、だ。一人なら、反撃もし易いし、奴らの正体も調べられる。後で絶対に迎えに行く」 「死んだらどうするのさ」 「死なない」 「あんたは死ぬよ。きっと、誰かのために。それがあんたと関係ない人間でも」 「何を言う…」 「そばにいさせて。僕が見張ってる。誰もコジローを殺さないように。コジローが死なないように」 「無茶言うな。俺の目をつぶして、俺に…殺された男は恐ろしいほどの使い手だった。あんなのがまた来たら、俺は勝てる自信がない」 「だから、ついてゆく。心配なんだよ。だって、あんたガキなんだもん」 コジローはふっと笑った。 「おまえには家族がいる。ずっとおまえを待っている家族が。俺は、おまえを俺の運命に巻き込むことはできない」 「コジローにだっているじゃないか!」 今まで決して言わなかった思いを、アザミは吐き出した。 「エミがいるじゃないか!あんたがずっと捜し続けてる妹さんが!僕なんかより、ずっと大事な人が!」 コジローはアザミを抱く手に、また力を込めた。どれほど強く抱いても、物足りない。アザミはコジローの中に、コジローの中心に、強く抱きしめられていた。 「大事な人が増えるのは嬉しいもんだ。俺はこの世で一番を二つも持っている。実は、俺はエミが元気でいるのかどうか、自信がなくなってきていたんだが、おまえと会ったことで、また自信を取り戻したんだよ。おまえを見ているとエミを思い出す。その像の鮮やかさは、エミが絶対生きていると思わせてくれる」 アザミは何も言わず、コジローの中にいる。 「でも、やっぱりエミはこの世にいないのかもしれない。そう囁く奴も、俺の中にいるのさ。だからせめて、間違いなく元気でいる奴が一人はいるってことを抱えていたいんだ」 「それは、あんたの理屈だ。あんたが元気かどうか、いつも心配して待ちつづけなきゃならない僕はどうなんのさ」 「だから、ごめん、って。おまえにしか、俺の心は預けられないからな。重荷をしょってくれ。俺のために」 アザミはむずかるように見をよじった。 「コジロー、ずるい……」 コジローは腕を緩めた。コジローの中からほどけるようにしてアザミが現れた。アザミは涙を流している。尽きることのないように、涙が頬を伝っている。コジローは微笑んだ。アザミは強い語調で言った。 「わたし…」 アザミの言葉が止まった。凍りついたような時間の中で、アザミの眼が後ろに動こうとした。コジローはそれより早く気づいていたが、相手を補足出来ない。モリはまったく気配を消し、完全に死角になるアザミの背後から襲撃してきたのだ。コジローはアザミを抱いたまま、かろうじて、アザミと位置を変えた。コジローの背中が、無防備に曝け出される。モリは闇が形をとったもののように、コジローを襲った。 |
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モリは両手の平に、サークル・ナイフを隠していた。腕組みのように縮めたモリの両手が、コジローの背中を切り裂こうと、左右に開く。コジローはその瞬間に、アザミを抱いたまま前に飛び、背中の表面を切り裂かれるに留めた。コジローはアザミごと転がり、アザミをさらに突き飛ばしてから膝立ちで立った。アザミはさらに転がっている。コジローが片膝を立てた時には、もうモリが悪夢の中の生き物のように、目の前に迫っていた。コジローは踵で地面を蹴り、さらに後ろに飛ぶ。モリはそれを予測していて、スピードを緩めなかった。不十分な姿勢で飛ぶ速度では、逃げ切れない。モリの左手が左から右へ薙ぎ払う。コジローの顔に巻かれた包帯が切り裂かれた。 コジローは腰を落としたまま右向きに回転しながら左足を伸ばして、モリの足を蹴り払おうとした。モリは後ろ向きに飛び上がり、1回転して着地し、両手のサークル・ナイフをコジローに向かって投げた。コジローは片目で距離感が掴めず、一つは右手で叩き落したが、もう一つが左肩に刺さり、後ろ向きに跳ね飛ばされた。 「ちっ」 コジローの顔が歪む。モリはベルトのバックルから、長い針を抜き出した。畳針のように、丸い輪が片方についているが、それがちょうど指の入る大きさになっている。モリは2本を抜き出して両手に持ち、コジローに迫った。その時、横からアザミがモリに体当たりをした。モリはよろけながらも、アザミの頭に肘を打ち込んだ。アザミは気を失い、倒れこんだ。針の先がアザミの額をかすめ、血が滲み出る。モリは倒れこんだアザミに足を取られて、一瞬動けなくなった。モリは邪魔をされてカッとなり、アザミに向かって針を振り上げた。その瞬間、サークル・ナイフが飛び、モリの振り上げた腕を切り裂く。 モリは顔を上げ、コジローが立ち上がっているのを見た。間合いは不十分。モリが次のアクションに移る前に、コジローがモリを攻撃できるだろう。コジローは、モリから目を離さないようにしながら、置いてある植木鉢を片手で持ち上げ、病院の玄関に向かって放り投げた。ガラスの割れる音が響き渡る。数分を待たずに、人が出てくるだろう。 「くそっ!」 モリはコジローに向かって走った。コジローが構えると、モリは急角度で走る方向を変えた。 「!」 コジローが身を翻すと、モリはコジローには構わず、コジローに叩き落されていたサークル・ナイフを拾い上げ、また方向を変えた。モリがアザミの方に向かったため、コジローも走った。しかし、モリは先ほどコジローの投げたもう一つのサークル・ナイフを拾い、そのまま暗闇の中へ走り込んでいった。モリは闇の中を、怒りと屈辱で身を焦がしながら夢魔のように走っていく。走りながらもその身は闇に溶け込み、猫が走るほどの気配も見せてはいない。 「アザミ!」 コジローはアザミのところへ駆け寄った。病院の中から、人が何人か出てきた。コジローはそれにも気付かず、アザミの名を呼ぶが、アザミの答えはない。コジローはアザミを抱きしめて、悲痛な叫びを上げた。 |
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