微量毒素

緑の魔歌 〜帰郷〜 p.1


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緑の魔歌 〜帰郷〜
李・青山華

 「あー、もう。どうしようかなっ...と」
 ルカは目の前のダンボール箱の山を見ながら呟いた。引越しの翌日、新しい住居に着き、明けた朝である。昨夜は友人たちとの別れと、移動の疲れで気にもせずにぐっすりと眠ってしまったが、日の光の下でみると、いかにも醜悪だったし、その中にルカの宝物が閉じ込められていると思えば、一刻も早く開放してやりたいと思うのは、13歳の乙女としては当然であった。

 朝ご飯を早々に済まし、山岸家の面々は、各々の守備範囲に散っていった。もちろん、引越しの後片付けのためである。ルカは午前中いっぱいで、母親を手伝って台所を使用可能な程度にまで復元し、午後はとりあえず明日からの学校に備え、自分の部屋を何とかすることにして、2階に上ってきて、梱包された自分の魂を見渡しているところであった。

 とりあえず、形だけでも勉強できる環境を整えようと、「机関係」と書かれたダンボールを開いてみた。開いて見ると、そこには愛用の品が詰まっており、前にいた学校の懐かしい気配が漂ってきて、思わずため息が零れてしまう。

 ルカは幼稚園のころからもう何回も引越しを重ねてきている、いわば引越しのプロである。しかし、歳と共に、新たな環境に慣れるのが難しくなってきた。いや、むしろなじんだ環境を手放すのがつらくなってきた、ということだろう。中学生になって、そろそろ深い仲の友人たちも出来てきつつあるこの時期に、学校を変わるというのは、つらいものがある。とは言え。

 ルカは基本的に前向きに物事を考える性質であろうと努力してきた。その結果、親の都合で環境が変わるこの生活を、むしろ楽しむようにしてきたのだ。でもね...

 ルカは、思いっきり首を振り、「...」の先の考えを振り切った。今回、腰を落ち着けることになったN市は、実はルカが生まれたところでもあり、幼少期、小学校入学前のかなりの期間を過ごした町なのだ。大きな川が町を東西に分け、山が優しく寄り添うように三方を囲み、北に向けて広がる平野。

 父の仕事の都合で、7年ぶりにここに戻るということがわかった時、何か甘い、期待にも似た感情が、ルカの心の中に湧き上がってきたのである。単なる生まれ故郷に戻るという感情より、強いその気持ちを感じて、ルカは戸惑いを覚えた。何だろう、この気持ちは、と。とりあえず、その気持ちの原因を探るということも、新しい町への期待にプラスして、親しんだ友人との別れの寂しさを埋める一助としたのである。しかし...

「どうしよう、この山」
 ルカは目の前の未整理のダンボールを眺めつつ、もう一度呟いた。引越しのダメージから、ルカはまだ回復しきれていない。とりあえず、インターバルを置いて、気力の回復を図るため、階下に降りて、母親とだべろうと決めた。

 階段を下りたのだが、母親は姿見だけを開梱して、衣装合わせをしている。しかも、鼻歌なんかを歌っている。長年に渡るルカの観察では、これは最上級の母親の喜びの表現である。ルカは食卓の椅子に座って、しばらく身づくろいする母親を眺めていた。頭の中には、たくさんの「?」が飛び回っている。

「おかあさん?」

「はい?」

「何をそんなに浮かれてるの?」母親は、手に持っていた髪留めを振り飛ばした。

「え、えっ?なんで?別に浮かれてなんていないわよ」
 鼻歌を歌っている時の母親は、自分ではまったく気持ちを隠しおおせていると思っているらしい。これもいつものことなので、ルカは落ちた髪留めを拾って、母親に渡した。

「どこかにお出かけ?」

「ええっ、何で?何でわかるの?」

「着替えてるじゃん」

「あ、ああっ、そうね。そう、ちょっとご近所回りに」

「ずいぶん、化粧も念入りだし」

「ああっ、それはね、あれよ。そうよ、あまり貧相な恰好で行くと、ご近所に舐められちゃうでしょ。やっぱり最初はびしっと決めていかないと」

「ふーん」納得していないルカの顔を見て、さらに何か喋ろうと母親が口を開こうとした時、父親が入ってきた。

「おーい、冴子、準備はできたかい。残ってるかな、初めてデ...」ここまで言って、父親はルカの存在に気づいた。

「わあっ、ルカ」

「...なによ、それ」
 父親は母親以上にうろたえたようだった。ルカは眉をひそめ、思い切り横目を使って父親を見た。

「初めてのデ...ねえ」
 しかめっつらが続いたのは、そこまでだった。ひきつけを起こしそうなほど、笑い転げるルカを、父親と母親は途方にくれたように見つめていた。とりあえず、笑いの発作も治まり、ルカは両親を送り出した。

「そんなに遅くならないつもりだけど、よろしくね。出かけたければ、出かけてもいいけど、あまり遅くならないようにね」

「そちらこそ、気をつけてね。門限はちゃんと守るように」
 赤くなる母親。しばらくはこれでからかえるな、とルカは思った。どうやらかつてデートしたりした場所を回って見るらしい、円満な夫婦を送り出し、ルカはほうっとため息をついた。さすがに、少し寂しい気持ちがするのは否めない。ルカはまた自分の部屋に戻って、片付けを再開することにした。

 ルカは果敢に、手近にあったダンボールの封を開いた。本や漫画の詰まった箱だった。机や本棚、タンスなどの大物家具は、もうあるべき場所に設置されている。ダンボールから本棚へ移動するだけなので、けっこう調子よく片付けが進んだ。本棚があらかた埋まるころには、空のダンボールがいくつもできていたので、場所を空けるために、この空ダンボールをたたんだ。これをたたみ終わると、だいぶ空間が空いてきた。気をよくしたルカは、次に服のダンボールに手をつけることにした。服もダンボールからタンスに移動すればよいので、まあまあのペースで片付いていった。

 ここで、ようやく最初に開いた「机関係」と書かれた、文具や教科書を詰め込んだ箱にとりかかった。文具を引出しや机の上の、しかるべきところに並べるところから始めた。教科書類を机の前に並べる時に、ルカは国語の教科書を取り落とした。拾い上げたルカはぱらぱらと教科書を開いてみた。

「別の学校だから、教科書も変わるんだろうなー」ルカは、あるページで教科書をめくる手を止めた。

「ああ、好きだな、この詩」開いたページに載っているのは、中原中也の詩だった。


吹く風を心の友と
口笛に心まぎらわし
私がげんげ田を歩いてゐた十五の春は
煙のやうに、野羊のやうに、バルブのやうに、

とんで行つて、もう今頃は、
どこか遠い別の世界で花咲いてゐるであらうか
耳を澄ますと
げんげの色のやうにははぢらひながら遠くに聞こえる

あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか
滲むやうに、日が暮れても空のどこかに
あの日の昼のまゝに
あの時が、あの時の物音が経過しつつあるやうに思はれる

それが何処か?――とにかく僕に其処へゆけたらなあ・・・・・・
心一杯に懺悔して、
恕された(ゆるされた)といふ気持の中に、再び生きて、
僕は努力家にならうと思ふんだ――


 この詩が好きだという事は、前の学校の誰にも言ったことはない。なんとなく、言うのが恥ずかしかったし、みんなの話のタネにするようなことでもないと思ったのだ。今、この詩をあらためて読んで、胸がきしむような感情を覚えた。この町に帰ると聞いた時に感じた気持ちを、ずっと強くしたような感情である。過去に在った自分に、確かな何かを持っていた自分に、もう一度出会いたいという気持ちを歌ったこの詩が好きだったのは、この町の何かが関係しているのかもしれないと、ルカは初めて思った。

 7年前。何かが。何か大事なことが。捉えようとする思いは、形をとりかけたと思う間に崩れた。
「思い出せん…」
 ルカはベッドに倒れこみ、布団に顔をうずめた。何かとても大事なこと。7年前。このふるさとで。ルカはむくりと起き上がった。

「やっぱり、私も出かけよう」
 片付けたばかりの服を引っ張り出し、着替え始めた。セーラー襟のブラウスに、ジーンズ地のミニスカート。黒のハイソックス。スカートにはサスペンダーを付けた。髪をゴムの髪留めで止め、姿見の前でポーズをとった。

「完璧だ...」と言った後、後ろを向いたり、服のすそを引っ張ったりして、あちこち点検し、
「おかしくないわよね...」と言ったのは、やはりご近所さんに舐められてはいけないという意識が働いたものであろう。ルカ専用の鍵を持ち、ルカはいよいよ探検に出かけることにした。


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