町を歩いて見ると、やはりどことなく懐かしい感じがする。初めての町とは違う、かつてここで暮らしたことがあるものだけが感じる、空気の色。あそこを曲がれば何かがあると思い、曲がって見ると、昔遊んだ記憶のある公園に出たり、かくれんぼをした神社に出たりする。すごくいいことがあると思えるところに向かうと、駄菓子屋があった。
「あれ?このお店のちかくだったわよね、幼稚園。」
ルカは記憶の糸をたぐった。通園のときは、この道は通らなかった。迎えにきた母親が、用事があったりすると、町に続くこの道を通り、何か買ってもらったり、だめだと言われたりした記憶がある。
「んーと、どっちだったかな...」
ルカはあてずっぽうに歩いて見ることにした。しかし、この道の記憶は、幼いルカには強い印象を残していなかったようで、歩きまわってもピンと来る道はなかった。
「まいったな...」
別に幼稚園にいかなければならない理由はないのだが、ここまで来ていけないのはくやしい。
「あの、すいません。」
ルカは通りかかった、自分と同年輩くらいの女の人に声をかけた。黒いタンクトップにジーンズで、歩きながら本を読んでいたらしい。じろりとルカに一瞥をくれた。
「はい、何でしょう。」
ルカは少し気後れしたが、声をかけた以上、同じだと思い、聞いてみた。
「あの、おぐら幼稚園って、このあたりですよね。」
「ええ。」
「場所をご存知でしたら教えていただきたいのですが。」
「おぐら幼稚園なら、そこの道を入ってすぐですよ。」
「ああ、どうもありがとう。」
ルカは、これだけでは自分の相手をするために、わざわざ立ち止まってくれた人に申し訳ないような気がして、さらに言葉を重ねた。
「私、7年ぶりにこの町に戻ってきたんです。それで、なつかしの場所めぐりなんてやってみようかな、なんて思っちゃって。それが少し、記憶が…」
ルカの言葉に重ねるように、相手の言葉が割り込んできた。
「7年前?」
「え、ええ、あの…」
「おぐら幼稚園...?」
「はい、あの。」
「あなた。お名前はなんとおっしゃるの?」名前?何で?
「あの、ルカ、と言いますが…」
「ルカ...」何よ、何なのよ...女の人はルカの目を見つめて言った。
「久美という名前にお聞き覚えは...?」クミ?くみ?あれ?ええと...
「ま、まさかあなたは…あの。」
相手は勝ち誇ったように腕を組んで、ルカを見つめた。
「お...おもらしのクー?」
自分でも驚くようなことばが口をついた。もっと驚いたのは、相手の反応である。それまでの張りつめた雰囲気が消え、自失したような表情が相手の顔に広がった。
「あ、あの...」
ルカが声をかけた途端、相手の顔に表情が戻った。ただ、さっきまでの表情ではなく、憤怒に燃えた表情だった。
「って、あんた!いったいどういう印象であたしのことを覚えてんのよ!」
あんた、って、馴れ馴れしすぎない?でもあなたは...
「クミなんだ、あなた。」
「そうだよ、ルカ。何年ぶりにあったかと思えば、いきなりそれかい。」
「ごめん、ごめん。でもよくわかったわね。」
「いやさ、困って途方にくれてる感じなんて、ぜんぜん変わってなかったわよ。」
ことばの端々に満ちている、ささやかな悪意を受けて、ルカも黙っているわけにはいかない。
「そうね。どこの文学少女かと思えば、クミだったなんて。読書なんて大嫌いになると思ってたのに。お昼寝の時に先生に読んでもらったお話が怖くて、おトイレにいけなくて...」
「ストップ。」久美はすばやくあたりを見回した。人影もまばらな、休みの日の昼下がりである。
「ここじゃ、人目がある。公園に行こ、公園に。」久美は有無を言わせず、ルカを引っ張っていった。
着いたところは、ルカにも馴染みのある公園だった。久美はその一角のベンチにルカを座らせた。適度に木に囲まれながら、明るい、気持ちのいいエリアだ。久美はルカを待たせてどこかに行き、戻ってきた時には缶ジュースを持ってきていた。
「金はある?」
「ある。」
「じゃあ、120円。ダイエットとかしてる?」
「いいえ。」
「OK。」と、ダイエットコーラを渡してよこし、久美も横に座った。プルトップを開け、ごくごくと飲んだ。ルカもプルトップを開け、刺激の強い飲料を飲んだ。回りを見回すと、休日だけに、けっこう子供連れの夫婦などもいる。
「こっちのほうが人目があるんじゃない。」
「まあ、ことばの綾だ。座ってお話したかったのよん。」
ルカはあらためて久美の顔を見た。どことなく面影がある。強情だが、ほんとうはやさしいおもら...おっと、クミ。あまり大勢の子たちとは遊ばなかったけど、ルカはとろかったせいか、よくかまってくれた記憶がある。久美はベンチにもたれて、顔を空に向けて、歌うように言った。
「まーったく。泣き虫ルーが帰ってきたなんてね。」ルカはちょっとムッとした。
「そうねー、おもら…」
「わかったわよ。もう言わないわよ。あのね、私は今、クールな久美で通ってんのよ。ばかなうわさ流さないでね。」
「あらら、どやってごまかしてんの?知らないってこわいわねー。」
しばらくにらみ合いが続き、ふっと久美の顔がゆるんだ。ルカもにっと微笑んだ。
「ほんとに、7年も前だなんて思えないわね、あのころが。」
「そう?私はもう何十年も前みたいに感じるけど。ルカも親の都合で行ったり来たりで、たいへんだね。」
「あら、私はけっこう楽しんでるわ。」
「おお、大人の発言。立派、立派。」
言いながら、久美は腕を頭の後ろで組んで、伸びをし、そのまま雲の流れるのを眺めている。その横顔は、少し意固地な、自分の世界をしっかり持った子どもの顔を思い出させた。
「久美も変わったみたいだけど、よく見ると面影があるね。」
「ほう。」久美の目がルカを突き刺す。相変わらず、容赦のない目だ。ぜんぜん変わっていない。
「美しいところが。」ルカの言葉に、久美は目を閉じ、大きなため息をついた。
「ルカ君、君が私に含むところがあるのはよーくわかった。それはわかったから、とりあえず聞かせておくれ。その激動の半生を。」
ルカは割合に素直だったので、自分の半生を、多少の脚色を交えながら話した。煎じ詰めれば、小学校入学前にここを離れてから、小学校のうちにさらに一回転校をして、賞罰ともに人並み、恋愛経験も人並みというような話である。聞き終わって、久美は言った。
「中学生であればこんなものだろう。まあ、可もなく不可もなく、だね。流浪している割には普通だな。」
「そうでもないよ。」
「そうだろう。子供にとって、転校は生活が根こそぎ変わってしまう大転換だ。子供の心には、かなりの衝撃を受けているだろう。だから、普通だな、というのは誉め言葉だと受け取ってくれたまえ。」
「にぶい、って言ってんじゃないの?」
「私は君の幼児期を知っている。」久美はルカの方に向き直って、ルカの目を見ながら言った。
「いつも困ったような顔をして、人に溶け込めなかった子供が、そんな環境でつらくなかったわけがない。」
久美のことばは、ルカの痛いところをついた。
「お、おい、ルカ?すまん、そんなつもりじゃなかった。」
久美があせっているようだ。ようだ、というのは、今は目の前がぼやけてよく見えないから。
「こら、泣き虫ルー、おまえは7年前から進歩してないのか?」
ルカの脳裏に、過去の光景が鮮やかに蘇った。幼稚園の庭で、正面にいるのはクミ。だが、やはりぼやけてよく見えない。ルカが泣いているからだ。
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