微量毒素

白の魔歌 〜大学祭〜 p.23

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1 そして、彼女は去る
2 やはり、彼女は去る

★ そして、彼女は去る

「聞いた?アユミ!」

 教室に飛び込んでくるなり、ザッコが叫んだ。

「たぶん、聞いてないわよ。何?」

「エリカが今日、実家に帰っちゃうんだって!」

「ええっ?」

 アユミは衝撃を受けた。まだ卒業式まで一ヶ月あるのだ。まだ時間はあると思って、安心していたのだが。

「偶然会った子が聞いたんだけど、きょうの11時30分発で帰るんだって」

 アユミは立ち上がりながら言った。、

「ありがとう!誰か、車を出してくれる人はいない?」

「いいよ、行っても」

 顔の長いクラスメートがのんびりと言った。

「恩に着る!」


 二人は駐車場にちょこんと止めてある、2シーターの軽のオープン型スポーツカーに乗り込んだ。色は鮮やかな黄色。まるでおもちゃのような車だ。

「困ったな。私、安全運転しかしないんだけど。」

 乗り込んで、ドリは嬉しそうに言った。

「事情が事情だから、しょうがないよね」

「うん、できるだけ、いそ」

 アユミが喋り終わる前に、車は急発進した。

「どこ?」

 アユミがイガの大学名を告げるなり、ドリはタイヤを鳴らしながら右に曲がった。

「こっちの方が早いな」

 ドリは呟き、シフトダウンしてアクセルを踏み込んだ。車はぐぐんと前に出た。加速してすぐにシフトアップした車はスピードを伸ばし、横で口も聞けないでいるアユミを乗せて鮮やかに走り去って行った。


 相変わらず生気のない眼で、イガが講義室で講義を待っていると、アユミが飛び込んできた。

「いた...やっといた...こんなところに...」

アユミは息が切れ、話もできないくらいだが、言葉を切れ切れに咽喉から押し出すようにする。

「アユミさん?どうしたんだ」

「我ながら、よく見つけたわよ...エリカはうちに帰るわよ。田舎に行っちゃって、もう二度と出てこないの。止めようとしたんだけど、あたしじゃだめなの。いい?聞いて。あの娘はね、」

 アユミはエリカの事情について、イガに話した。

「エリカはね、、地元の有力者の息子と結婚しようと思ってるのよ。だから、大学にいる間は恋人を作らないでいるつもりだったの。エリカのお父さんが事業をやってて、そのためには、有力者と縁故関係を結んだ方が有利だと思っているらしいの。そして、エリカはその両親が大好きなのよ。あの子、このままだと、本当に結婚しちゃうわよ。ほんとは、あんたのことが好きになってるのに...」

「そうか。それで、あの時...」

「だから、すぐに行って。エリカは、卒業まで待たずに帰っちゃうの。今日の11時30分の電車で。行ったら、あのこの性格から、絶対に取り返しがつかないわ。行って、頼むから」

「でも考えてみれば...」

「行って!」

「でも彼女は...」

「行け!行きなさい!行けってば、この馬鹿!あんたが何をよく考えてるかなんて、どーでもいいの。あたしはエリカがかわいそうなだけなの!あの子はあんたが好きなのよ!行きなさいってば!」

 イガはにやりと笑い、目にいつものふてぶてしい光が戻ってきた。

「わかった。サンキュ」

「駐車場に、黄色の二人乗りの車が待ってるから、それで駅まで連れていってもらって」

「了解!」

 イガは短距離走のような勢いで走り出す。ムサシがゆっくりと近づいてきて、遠慮がちにアユミの肩をポンとたたく。アユミは声も立てずに涙を流している。

「何で好きなもの同士が別れなくちゃならないの?誰が見てもお互いに想い合っているのに...」

「悲劇は喜劇と同じ側面の表と裏。その表と裏の間からは誤解と自惚れとその他もろもろが生まれ出る」

「何よそれ。あんた、宿命論者かなんか?」

「いいや。おれはメガロマニア(誇大妄想狂)だよ...大丈夫。イガはもう走り始めた。奴なら大丈夫。死なない限りは、ぜったいに目標物に到達できるよ。だから、安心しなさい」

「あのこ...エリカはわたしをだいっきらいだって...」

「嫌いは好きと同じ側面の表と裏。その間が人間関係のすべてだからねえ」

「...ばか」

「嫌うしかなかったんだろうさ、狂わないためには。あんたはうまくやったよ。自分でもわかってんだろ、あんたなら」

「...!...もちろんよ。わたし以上にうまくさばける人間なんて、あの世にもこの世にもいやしないわよ。でも...ちょっとだけ、今だけはだめ。わたしは怖い。わたしは失敗したかもしれない。だめかもしれない。エリカはほんとうにぎりぎりのところにいるの。もし失敗だったら...わたし、生きていられそうにない...」

「了解した。そんときゃ、わたくしが介錯つかまつる。だから、安心して苦しんでいなさい」

「あんたって、ほんっとに...」

「すてき?」

「情なしのばか」

「やはりそうか...まあ、わたしをわらだと思ってつかんでいなさい。わらを馬鹿にしちゃいかんぞ、諺にもある」

「用法、違ってない?」

「ぜんぜん違っているだろう。まあ、日本刀の試し切りをする時、わらを束ねたものを使うのは、感触が人を切るときと近いからだそうだ。つまり、わらでも、束ねれば人くらいの役割はできるということだ」

「わたしも藁ね...」

「そう、立派なわらだ」

「わら人間友の会でも作ろうかしら...」

「調子が出てきたな。でもたぶんだめだろう。調子が出てくれば、あんたは自分がわらだなんて思いもしなくなるだろうし、作るのはたぶん、自分を認めない相手のための、わら人形友の会になってしまうだろう」

「あんたって、ほんとに」

「いい男?」

「太鼓持ち!」

「きびしいのお...」

 ムサシは目を細め、あごを撫でる。大気が風をはらみ、一気に吹き抜ける。吹きぬけた風はそのまま大空に舞い上がる。風の中に立つアユミとムサシは小さい存在ながら、大気と大地に少しも引くことなく、その存在を主張しつづけているかのような存在感に溢れてそこにいた。


 エリカは、故郷へ帰る急行列車の座席に座っていた。

<私は、最後までやり通さなくちゃならない。捜さないし、聴かない。ホームを目で追ったりしない。私は、うちに帰る。この町でのことは、すべて忘れる。私が決めたんだから>

 エリカは目の前の座席を見つめる。くたびれた青い生地。長い年月、人を支えてきて、疲れきりながらも、まだ大丈夫、と頑張る生地。これだけの強ささえ、今の私にはない。


 イガが駅構内に走り込んできた。瞬間、周りを見回し発車予定の電光掲示を見る。時計を見るまでもなく、おそらく今出ようとしている列車が、目的の列車だと知れる。間に合わない。イガは改札を飛び越え、駅のホームに走り出た。駅員が何か怒鳴っているが、今のイガには聞こえない。イガは階段に向かって走る。絶望的な距離を埋めるため。

 発車ベルが鳴り始める。イガは、ようやく目的のホームに走りこみ、勢い余ってたたらを踏む。右か、左か。イガは迷わず左に行く。ホームを全力で走りながら、窓の中を確認していく。ホームにいる周りの人たちが、口をO(オー)の形にしているが、イガの耳には入らない。エリカがいた。行き過ぎたイガは、靴底をブレーキにしながら身体の向きを変え、エリカのいる窓へ走る。エリカは座っている。いつものように、きりっと結んだ口元。目の前の空間を見据える瞳は、怒っているようにすら見える。俺の織天使。イガは窓を叩く。力強く、そしてやさしく。

 エリカは顔をあげ、イガを見る。一瞬焦点を絞った瞳孔が、見る間に開いてゆく。音が聞こえるほどのスピードで。エリカは怯えているように見える。イガは胸を衝かれた。こんなに寄る辺ない様子のエリカは見たことがない。エリカの手が辺りを探り回り、指はそれぞれが別の意思を持つかのように動き回る。エリカの眼は、イガの顔から離れない。そしてその指は、目的のものを探し出して、秩序を取り戻し、それを包み込むようにした。バッグについたストラップ。大学祭で作ってもらった、世界に二つしかないストラップ。

「...イガ...?」

 エリカの顔は蒼白になっている。衝撃を吸収しきれていない。エリカの瞳は、イガを奥深くまでとらえている。

「行かないでくれ!おまえが必要なんだ。いなくなったら、俺は耐えられない!」

「イガ...」

 エリカは立ち上がろうとする。ベルは鳴り終わり、ドアが閉まる。

「俺が追っかけるから。すぐに追うから。頼むから、待っててくれ。俺の話を聞いてくれ」

「いや...」

「何だって?」

 がたんとショックがあり、列車はゆっくりと動き始める。

「いやって言った。いやだ、いやだ、いやだ!絶対に!」

 イガはひるんだ。エリカはいやいやをするように首を振り、窓に手を打ち付けた。

「待つのは、いや!私を行かせないで!そばにいて、イガ!」

 エリカは立ち上がり、窓をいっぱいに開けた。

「おい、何を...」

 エリカはためらいもせずに窓枠に足をかけ、飛んだ。イガはその身体を受け止めようとして、飛び出しながら、考えていた。

<頑固で、依怙地、めっちゃ変わってて、魅力まみれの、ばか女...>

 イガは何とかエリカを受け止めることに成功し、そのまま背中でホームを滑り、柱に激突した。頭の中を天使と星がうれしそうに飛び回っている状態で、向こうから駅員が激怒して駆け寄って来るのが見えた。走りながら駅員は、ものすごい声でイガを怒鳴りつけた。

「馬鹿野郎!なんてことをするんだ!」

 まことにごもっとも、と思いながら、イガは柱にぶつかった頭の痛みで気絶しようと試みたが、エリカがしがみついて泣きじゃくっているので気絶するのをあきらめ、世間的な後処理をするためにしぶしぶ身体を起こした。

「まあ、これ以上悪くなるわけでもないさ…」

 イガは頭のコブにそっとさわりながらつぶやいたが、しがみついているもののせいで、それほど悪い気分ではなく、本当のところは非常にいい気分だった。

★ やはり、彼女は去る

 イガとエリカは向かい合って立っていた。エリカは決闘でも申し込むように、イガに向かって言った。

「両親に、話してくる」

「やってみてくれ」

「もちろん、説得できないだろう。でも、最善を尽くす」

「いいだろう」

「どんな結果になっても、私たちは後悔しないな」

「もちろん。もし、おまえが駄目なら、俺が行く」

 エリカは黙り、顔を伏せてしばらく考えて、上目遣いにイガを見上げた。

「...来るの?」

「行く」

 イガとエリカは見つめ合った。しばらく、というより長い時間が過ぎて、エリカは右手を差し出した。イガはその手をとり、キスをしようとした。エリカは驚いて、手を引いた。イガはにやりと笑い、今度は自分の右手を差し出した。エリカは、しばらくうさんくさそうにイガの様子を窺っていたが、右手を差し出し、握った。エリカは強く握り、言った。

「みんなは一人のために、一人はみんなのために」

「三銃士かよ...」

「なんとなく、だな」

「意味わかんないけど、気持ちはわかる」

「うん」

 握手したまま、また時間が過ぎた。エリカはそろそろと手を離した。まだ、握っていたいようだったが、あえて離したようだ。

「私は行くよ」

 イガは手を振った。エリカは一瞬止まり、振り返って言った。

「"I'll be back."」

「今度はターミネーターか...」

 苦笑するイガをしばし見つめ、エリカは歩き出した。自信に溢れ、大股で、どんどん歩いてゆく。ミニスカートから伸びた足が、思い切りよく地面を蹴って歩いてゆくのを見ながら、イガは初めて会ったときのことを思い出した。足にまつわりつくワンピースのすそを、蹴りだすように歩いていたエリカ。あれから1年しか立っていないのか。もう何十年も、エリカと一緒に過ごしていたような気がする。やはり、エリカにお嬢様服は似合わない。またイガはよけいなお節介なことを考えていた。エリカは、自分で動いてゆく人間だ。動くのにふさわしい恰好をしたエリカは、なんと輝いていることだろう。エリカは振り返らない。何者も、彼女を止めることは出来ないだろう。エリカが自分の意志で歩き出した今、イガは何の心配もしていなかった。


 イガは学校に戻ってきた。ひょっとしたら、アユミが残っているかもしれないと思ったからだ。案の定、もう数時間も経っているのに、アユミはいた。ムサシがずっとフォローしていたらしい。ほんとうに、まめな、いい人だ。イガはにやりと笑った。イガはアユミに話をした。アユミはまた泣いた。今度はうれしさで、である。ムサシが言った。

「だから言ったじゃないか。うまく行くって」

「よかった...エリカは自分で思ってるより、ずっとイガさんのことが好きだったのよ。ありがとう、イガさん...」

「いやいや、礼を言うのはこっちの方で。言われなけりゃ、世紀の恋を、かってな思い込みで諦めてるとこだった。感謝してもし足りないほどだい」

「ふむふむ、なるほど。イガくん、今の言葉に嘘はないね。それでは、これから世紀の恋始まりお祝いツアーに繰り出そうではないか。もちろん、金は君持ちでだが」

「ぬ?」

「そうね、それじゃあ、学園祭の時の実行委員会のメンバーも呼んじゃいましょう。エリカさんの恋の行く末は、みんなとっても気にしていたから」

 アユミは電話をかけ始めた。

「あ、あのね。そういうのは、エリカ本人が来てからやったほうがいいんじゃあ...」

「その時はもう一回やるさ。まあ、幸福料だと思ってあきらめるんだな」

「そんな〜」

 3人の上では、早春の柔らかい青い空が広がっている。この空は、エリカの故郷へもつながっている。そして、今、エリカの乗っている、故郷へ向かう列車の上にも広がっているのだ。次に会えるのはいつになるかわからないが、必ず会える。イガはそう確信していた。


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