微量毒素

白の魔歌 〜大学祭〜 p.22

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★ 謀略

 ムサシはアユミに聞いた情報を受けて、完璧な偶然を装って、エリカと西九番町のモールでばったりと出会った。

「おや、エリカさん、お久しぶり」

 エリカはびくっとして硬直し、ムサシを見て、全身の力を抜いた。

「あ、ああ、ムサシさん。お久しぶりです」

 やはり、誰かさんに出くわすことに怯えているらしい。ムサシは脈はまだ十分にあると踏んだ。

「学園祭以来だね」

 エリカはつらそうな顔を見せた。

「そうですね。あの時は楽しかったな...」

「そうでしたね。ものすごく頑張っていましたからね、エリカさんも、みんなも」

「ええ。今思うと、まるで夢の中の話みたいで...」

「でも、夢なんかじゃありませんよ。みんなで、本当に大成功させたんですから」

「ええ、そうですね...」

「最近お会いしないのは、私の相方と一緒にいないからかな、と思ったんですけど。あいつに会ってます?」

 ムサシは個人名を出さずに水を向けたが、ナメクジに塩をかけるより明らかに、エリカの態度が変化した。

「私、別にあの人とそういう関係じゃありませんから」

「イガと会ってないんだ」

 わざと個人名を出す。目を上げていられないエリカ。本当に落ち込んでいるのが、全身に表現されている。わかりやすい。わかりやす過ぎる...

「ごめんなさい、私用事が...」

 まずい。追い詰めすぎた。慌ててムサシは言った。

「実は今、ルカの卒業祝いを探してたんですよ」

 エリカが顔を上げた。懐かしむような表情を見せている。

「ルカさんって、夏に一緒に来てくださった方ですよね」

「ええ。その節はお世話になりました」

「いいえ、こちらこそ、本当に楽しかったです。あんなに楽しかったのは生まれて初めてでした。ルカさんって、可愛くて、頭の回転が速いんですよね。びっくりしちゃいました」

「ルカに聞かせてやりたいですね。伝えてもいいけど、またいつか会ってやってください」

「喜んで!」

 エリカは楽しかった記憶を蘇らせ、すっかりムサシに気を許している。

「それで、よかったら、プレゼント選びを手伝ってもらえませんか?時間が空いていたらでいいんですけど。女の子がどんなものを喜んでくれるのか、よく分からなくて」

「いいですよ。私なんかでよければ、喜んで」

 エリカは本当に嬉しそうに言った。感謝しつつ、ムサシはエリカとモールを歩き始めた。


 ルカのプレゼントを探し回るエリカは、本当に嬉しそうだった。ムサシが決めようとしても、次の店に引っ張って行く。

「まだまだですよ。一応、候補にしといて、全部一通り探してから決めましょう。もっといいものがあるかもしれないでしょ?」

 全部というのは、モールの店全部ということかな、とムサシはげっそりして考えたのだが、違っていた。モールを回った後、エリカはこう言ったのだ。

「じゃあ、ここはこれくらいで。次は駅前を回りましょう」

 ムサシは贈り物を選ぶという戦略を考えたことを、心から後悔していた。


「疲れた...心の底から疲れた...」

 ムサシは喫茶「王城」の椅子に座り、呟いた。何か、いくつも荷物があるのは、エリカのお勧めでルカのために買ったものたちだ。そのエリカは、ムサシの目の前で、嬉しそうにレモンティーの香りを吸い込んでいる。

「よかったですね、いいものが買えて」

「...いや、お願いした甲斐がありました」

 確かに、男ではここまで厳選するということはなかったろう。ムサシは2−3軒の店を回って決めるくらいのつもりだったのだ。今日、回った店は、冗談でなく優に100軒を越えるだろう。さすがに疲れきって、選んでくれたお礼にと、エリカを喫茶店に誘って、一休みしているのだ。

「それにしても、疲れましたよ」

 ムサシが本音を漏らすと、エリカはバツの悪そうな顔になった。

「ごめんなさい。人のために選ぶと思ったら、力が入っちゃって。ムサシさんがルカさんにお祝いに上げるものだから、適当なものを選んだら、ルカさんをがっかりさせるんじゃないかと思って。そしたら、せっかく頼んでくれたムサシさんに申し訳ないし...」

 ムサシはほろりとした。いい子じゃないか、ちくしょう。何でイガはうじうじしてんだ。ムサシはずっとエリカと一緒にいて、エリカがイガのことを思っているのを確信していた。ムサシといて喜んでいるのも、ルカのことを気にかけてくれるのも、すべてイガとの思い出に裏打ちされているからである。

「いいえ、感謝してるんです。自分じゃ選べないほどいいものが選べましたよ。特に、あの人形は...」

「もんたろうくん?可愛いでしょ、すごく。絶対に喜ばれますから」

「可愛い...ね」

 どう見たら可愛いと思えるのか、ムサシには理解できなかった。エリカに勧められたとき、ムサシはこれを掴んで、後ろから見たり、逆さにしてみたりしたのだが、360度、どこから見ても可愛いという感覚はつかめなかったのだ。一緒に見ていた女性たちは、みんな目を輝かせて買っていたし、店員も大絶賛していた。たぶん、女性にはわかる、何かがあるのだろう。カップルもいたが、男は一様に眉間に皺をよせていたから、ムサシだけが理解できないわけではなさそうだ。

「私も買えばよかったな...」

 エリカは寂しそうに言った。やはり、エリカも欲しかったのだ。なぜ買わなかったか?誰かと一緒に買いたかったのだろう。ムサシはアユミの気持ちがよくわかった。なぜ、二人は一緒にいないのか?自分たちがそれぞれの相手といるように、イガとエリカも、一緒にいるのが自然なのだ。

 それにしても、いよいよわからない。ここまで来ているのに、成就しないというのは。両親の希望はそんなに絶対なのだろうか。ムサシには、そうは思えなかった。エリカがここまで天真爛漫に育ってきている以上、エリカの両親が娘に政略結婚を強いるような人間だとは思えない。これはエリカが勝手に思い違いをしているだけなのじゃないだろうか。ムサシは覚悟を決めた。

「エリカさん。なんでイガと付き合わないんです?」


 エリカは幸せそうな顔をして紅茶を飲んでいたが、その激変は見ものだった。ぶるぶる震える手をかろうじて下ろして、カップを受け皿に置いたエリカは、真っ青になって震えている。ムサシは自分が死んだ方がいいような気分になったが、ヒール(悪役)を貫くことにした。

「学園祭まで、エリカさんとイガは、誰が見ても仲の良いカップルでした。それが何で付き合い続けていないのか、どうしてもわからないんです」

 エリカは真っ青になって、手を膝に置いて震えている。

「イガは、学園祭からこっち、ほとんど死んでるようなんです。エリカさんに振られたとしか思えない。でも、エリカさんもイガと会いたがってるみたいだし。どうなってるのかさっぱりわからない。エリカさん、一度イガと会って...」

 ここまで言ったとき、エリカは紅茶のカップを持ち、その手を大きく後ろに振った。まさかね、とムサシが思うまもなく、カップの中身はムサシの顔に命中した。ムサシは絶望に近い諦めの中で、ああ、カップが飛んでこなくて良かった、と思った。カップを置いて、エリカが立ち上がった。出て行くのか、とムサシが思うと、意外にもエリカはムサシの方に来た。

「?」

 ムサシに思考する隙を与えぬまま、エリカがムサシの飲んでいたコーヒーのカップを持ち上げた。あれあれ、とムサシが考えた瞬間に、ムサシの顔は二杯目を享受することになった。あああ。ムサシは自分の身に起きたことが信じられなかったが、顔に浴びせられた2種類の液体は顔を伝い落ち、服をマーブル模様に変えていた。

「とりあえず、事実を認識するしかあるまい」

 ムサシが呟き、目を開けると、エリカがバッグから何かを出そうとしていた。ムサシが諦めの境地で、せめてあれが硫酸とか塩酸でありませんように、と祈っていると、エリカは白いハンカチを出して、机の端において、一瞬躊躇いを見せた後に、足早に出て行った。テーブルに千円札が投げ出してある。

「奢るって言ってるのに」

 ムサシは、呟いたが、エリカはすでに店の外に出て行っていた。ムサシはハンカチを見下ろし、言った。

「これでどうしろってんだ」

 それでも、それで顔を拭い始めると、店の中が静まり返っていることに気付いた。顔を上げると、店中の視線がムサシに集中している。ムサシが片手をあげてにこっと笑うと、みんな慌てて気付かない振りを始めた。みんな向こうを向いていながら、意識はムサシに集中している。ムサシが苦笑していると、店員がお絞りをいくつも持ってやってきた。

「どうなさいました、お客様」

 どうなさいましたもないだろう。ムサシは心の中で毒づきながら言った。

「いやあ、ちょっと手が滑って、零してしまってね。お騒がせしてしまいました」

 拭いてくれる店員の肩が微妙に震えている。

「いや、こっちの分までかけられるとは思わなかったな」

 ムサシの呟きに、店員の震えが大きくなった。

「お客様、替えのおしぼりをお持ちします」

 店員は苦しそうに言い、逃げるように去った。先に店員が持ってきた、手付かずのおしぼりを取り、ムサシは顔を拭いた。

「うーむ、これもなかなか得難い体験だな」

 ムサシは言いながら、この格好で帰ることを考えて、おかしくなってくすくすと笑い始めた。店の客たちは、あくまでムサシから目を逸らしながら、そんなムサシに怯えていた。


 ムサシはアユミに電話をした。

「今日はエリカさんに紅茶とコーヒーの混合液をぶっかけられましたよ。その状態でうちまで帰ってくるのは大変でした」

「やっぱり、駄目なのか...」

「でも、エリカさんはイガのことが好きですね。これは間違いないでしょう」

「やっぱり、そうよね。そうだと思うんだ」

「こちらは、イガに例の事情を話してみることにします。アユミさんからもエリカさんにアプローチしてみてくれませんか。もう一押しだと思うんです」

「わかった。やってみる。まだ一ヶ月あるし。イガさんの方もよろしくね」

「了解しました」

 ムサシは電話を切った。アユミは受話器を置き、アプローチの方法を考えた。

「まったく、これは男を落とすより難しいわね、ほんとのところ」

 アユミはいろいろな考えを頭に上らせたが、どれもあまりうまくいきそうにもなかった。


 教養部の第三棟の2階で、ムサシはイガをつかまえた。イガは相変わらず生気がない。

「イガ、昨日、おまえの思い人にコーヒーをかけられた」

「俺の思い人...?」

「殴るぞ、おまえ。俺がエリカさんに迫って、コーヒーと紅茶をかけられたとしたらどうだ?」

「あり得ん」

「嬉しいような、悲しいような...じゃあ、まったくフリーの奴が迫ったとしたらどうだ」

「どうか、お幸せに...」

「駄目だ。テッテ的にだめだな。おい、イガ、考えても見ろ。中学生じゃあるまいし、今時何か変な振る舞いをしたぐらいで、そんなに拒否するもんか?原因は別にあるに決まってんじゃないか」

「さらば、わが青春...」

「ええい、もう、どバカ!ボケ!カス!スカタン!」

「それはマヤ文明の...」

「それはユカタン半島!」

 必要のない突っ込みをしてしまうムサシを生気のない眼で見て、イガは離れた。

「いいか、よく聞け。エリカさんはな、故郷に親も認めた婚約者がいるんだ。親に義理立てて、エリカさんは好きになったおまえを諦めようとしてるんだ。おかしいだろうが、これは!」

 イガはそれを聞き、いっそう絶望の色を深めた。

「おお、お幸せに...」

 イガはよろよろと去っていった。ムサシは脱力した。

「いかん、アプローチを間違えたらしい」

 もう一度、作戦を練り直そう。ムサシは思い、腕を組みながら歩き去った。


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