微量毒素

persons おはなし

瑠璃色真珠
李・青山華

「瑠璃色真珠が欲しいの」

 そう言い出したのは、ホノカである。

「あら、真珠なら私だって欲しいわ」

 話の流れも考えず、口を入れてくるのはアリカである。ホノカはハヤトと話をして
いたのだ。海の中には数多の宝物が眠っている。その中には人には価値のないものも
あり、その一つが瑠璃色真珠だという話だったのだ。いい加減遊び疲れた俺は、
パラソルの下で、帽子を顔に乗せて、半分眠りながら聞いていた。ハヤトが呆れた
ように言う。

「でも、人間には何の価値もないもんなんだぜ。おまえが欲しがるようなもんじゃない
だろ」

「誰かが欲しがるもんなんでしょ。だったら、価値がないなんてことないじゃない」

「おまえ、タコが欲しがるようなものが欲しいのかよ」

「だから、いったいどんなもんなのよ、それ。ルリーロ? ルリーロ真珠?」

「色だよ、瑠璃色。どんなもんなんだよ、ホノカ」

 ホノカは少しためらって、言った。

「私だってよく知らない。私に教えてくれた人は、泡ぶくみたいなもんじゃないかって
言ってた。海の底から上ってきて、波越しに射す日光を受けて光る泡みたいな」

「そりゃ、アンコウのゲップじゃないのかよ」

 考えずに喋ってしまうのは、俺の悪い癖だ。案の定、3人は汚れ物が近くにあること
を気づいたような目で俺を見た。

「最ッ低ね、シン。ちょっとはメルヘンの世界に遊ばせなさいよ、私たちを。でも、
そんなもんかもしれないわね」

 ハヤトがそれを受けた。

「確かに。提灯の灯りに誘われてきた、哀れな小魚の末期のあぶくかもな」

 俺たちは笑いこけたが、ホノカは微笑んだだけだった。俺はちょっと気になって、
ホノカに聞いた。

「で、誰に聞いたの、その話。初めての男に、寝物語ででも?」

 ハヤトが俺の頭を小突いた。いかん、いかん。今、ハヤトとホノカは付き合っている
のだ。二人で海に行く相談をしているのを聞いた俺がからかったら、一緒に行こうと
誘われた。そんな野暮は出来ないから、断っているのを聞きつけたアリカが便乗して
きて、目下交際中のお二人は、お邪魔虫を抱えてこの海辺で馬鹿話をする羽目になった
というわけだ。そのお二人に水を注すような真似をしちゃあいけない。

 ともかく、ホノカは微笑んだまま言った。

「とうさんよ。私の、おとうさん」


 ホノカの両親は、共にもうこの世にいないと聞いていた俺は、どうやってこの場を
繕おうかと考えた。が、頭は真っ白であり、気の効いたセリフひとつ出てこなかった。

「あ、ああ、そりゃまあ、もう」

 という、意味のない言葉の羅列が出てきただけだった。

「別にいいのよ。私だって意味がわからないんだし、海のお話しをしていたら、ふっと
思い出しただけだから」

 被害者の女性にフォローを受けるとは情けない。俺は頭をかいて起き直った。

「ねえ、それでおとうさんは誰に聞いたのかな。男の人のする話じゃないよね、それ」

 アリカはおれの脇腹をつねりながら言った。フォローのつもりらしいが、傷を広げて
ないか?

「おかあさん」

「あ、ああ、そう」

 俺はアリカのよく締まった脇腹を突付き返した。弾力のある、いい身体だ。これは
役得というものか。ホノカは笑みを深めた。

「いい話だからいいのよ。母はね、その瑠璃色真珠を見つけて、それで幸せになったん
だって」

「ちょっと待てよ。おまえ、さっき瑠璃色真珠は人間にとって価値がないって言って
なかったか?」

 ハヤトは少し理屈っぽい。女の子の話の、多少辻褄が合わないところは聴かなかった
ふりをするのが礼儀だろう。でも、確かにそれは気になった。

「そうよそうよ、幸せになれるんだったら、やっぱり欲しいわよ、それ」

 アリカも便乗する。ホノカは困ったように言った。

「かあさんは、ただそれを見つけた時に、偶然幸せになっただけなんだって。とうさん
も、かあさんがどこでそれを見たかも知らないし、どんなものかも知らないんだって。
かあさんが、ふとそんな話をしたのを覚えてたんだって」

「寝物語かな?」

 本当に、これからはちゃんと考えて喋ることにしよう。3人に蹴り込まれながら、
俺はつくづくと思った。頭を抱えた両手の隙間から、ホノカが笑っているのが見えた
ので、少し安心して、制裁を甘んじて受けることにした。


「ひでえな、まったく」

 全身くまなく砂だらけにされた身体を、海で流しながら呟くと、いつの間にか隣に
泳いできていたアリカが言った。

「ひどいのはどっちよ。ほんっとに考えなしなんだから」

 そう言われては、返す言葉もない。

「いや、まったく。海よりも深く反省している」

「その軽さが信用できないのよね」

「いやいや、ほんと。」

 アリカはしばらく俺の顔を見ていたが、得心したらしく、傍を離れて泳ぎ出した。
「そうそう、あんたの脇腹は、よく締まっててなかなかいいなあ」

 言い終わる前に、顔に水飛沫を直撃された。どうして手を振り回すだけで、見事に
半径10センチくらいの的に水を命中させられるのか、俺にはわからない。たぶん、
女性にしかわからない、神秘の力が働いているのだろう。

「バカ!」

 どうも、反省がまったく効いていないようだ。俺は反省できない奴なのだろうか。
シリアスに悩んでいて、ふと気づくとアリカが大声で俺を呼んでいる。浜辺で、ビーチ
ボール遊びというわけか。なんて月並みな。

「行く行くー、ちょっとお待ち」

 俺は鮮やかなクロールで、みなの待つ浜辺へ泳ぎ出した。あちらから見て、鮮やかに
見えていたかどうかは心許無いが、気分的には鮮やかなつもりだった。


 そんなことやあんなこと、諸々の思い出を引きずりながら、俺は大学を出て、何とか
社会人になることができた。身の軽さが幸いして、営業が性に合い、それなりに勤めて
何年か経った今、本当に偶然としか思えない事態が起きた。珍しく8時くらいに得意先
との打合せを終え、直帰しようと駅に向かう途中に、見たことのある顔を見つけたのだ。
ホノカである。

「お嬢さん、お一人ですか」

「いえ、連れが待っていますので」

 ホノカは顔を合わせようとせず、下を見たまま口早に言った。都会でのナンパ避け
の作法に則っている。やはり、いろいろの波風もあるのだろう。

「それは残念。じゃあ、またの機会に、ホノカさん」

 ホノカはわずかに顎を上げた。横目でこちらを確認しようとしている。俺はもちろん、
後ろに身を退いた。それに釣られるように、ホノカは顔をあげてこちらを振り向いた。

「シンさん!」

 悪くない声の高さである。どうやら、印象には残っていたらしい。俺は片手を上げて
言った。

「名前まで覚えていてもらえるとは思わなかった。待ち合わせだったら、連絡先でも
教えてくれたら後で連絡するよ。もちろん、ホノカさんがよければ、だけど」

「待ち合わせ?」

「これから待ち合わせなんだろ?」

「ああ、あれ」

「やっぱり、虫除け?」

 ホノカは笑った。

「ええ。もう帰るだけよ」

「女一人は色々大変だね。虫だの狼だの」

「本当、油断も隙もないわ」

「俺も狼だけど」

「身内でしょ」

「レイプの70%は身内で起きてるっていうぜ」

「安全な身内でしょ」

「それは、ちょっと傷つく言われようだな」

「ごめんなさい」

「冗談だよ。まあ、立ち話は何だから」

 と俺が言うと、

「お茶でも飲みませんか、お兄さん」

 とホノカが受ける。にやりと笑いあって、回りを見回し、目に付いた喫茶店に入った。


 ホノカは、昔とは別人かと思われるくらい、よく喋った。喋り過ぎている。昔のこと、
卒業してからのこと。ハヤトとは別れたという。まあ、よくある話だ。一息ついて、
紅茶を飲んでいるホノカに、俺は言った。

「ずいぶん喋るね」

「え?」

「昔はそんなに喋らなかった」

「ああ」

 気づいたように、ホノカは黙り込んだ。やっぱり、お互い大変なのだ、社会人として、
世間を渡っていくというのは。

「仕事は?」

「順調。だと思う。でも、大変だよね。シン君もそう?」

「ああ、もちろん。何も考えないで喋るくせが残っている頃は大変だったぜ。主任に
殴られそうになったこともある」

 ホノカは噴き出した。

「目に浮かぶみたい」

 俺は眉間に皺をたっぷり寄せて頷いた。また、沈黙。

「時々ね、仕事以外の会話がまったくない時があるの。丸一日。下手すると2日も、
3日も。友達と会うのも、時間が合わないし、皆忙しいから、そうそう会う機会も
ないし」

「それはあるよな。でも、会社の友達もいるだろう」

「同期は、部署がばらばらだからね。まだ、同期以外の友達を作るほど、仕事に余裕も
持てないし」

 女性は男性よりもデリケートなのだろうか。俺はいつも回りの人間と馬鹿話をして
いるが。それとも、他の人間すべてが俺よりデリケートなのかも。うん、そのほうが
ありそうだ。

「だから、仕事の利害関係抜きで話が出来るのなんて久しぶりだったから。ごめんね、
うるさくて」

「いいやあ、女性の話を聴くのは楽しいですよ。ぽんぽんと新鮮な見方が出てくるし。
うら若い女性とマンツーマンで話すのなんて、本当に大学以来だからね」

「ほんと、ずいぶん過ぎちゃったんだね、あれから」

 その時間の中で、ホノカはハヤトと別れたのだろう。色々なことに思いを馳せ、俺は
ブレンドを飲んだ。

「シン君は、友達が大勢いそうだね」

「あ、ああ、そりゃまあ、もう」

 という、意味のない言葉の羅列が出てきた。

「うらやましいな、シン君。そうそう、友達といえば、アリカさん、覚えてる」

「忘れようにも忘れられない」

 ホノカは少し笑って言った。

「あの子ね、結婚したのよ。知ってる」

 びっくりした。

「半年くらい前。私も呼ばれて行って来た」

「俺は呼ばれなかった」

「バカね、新婦友人に男性は呼ばないわよ」

 それはそうか。そうだな、やっぱり。

「会いたがってたんだけどね、彼女は」

「新婦友人の男性に?」

「あなたよ、シンさん。彼女ね、あなたが好きだったみたい」

 それは驚いた。

「ここは、笑った方がいいところ? 驚いていいの?」

 ホノカは笑った。

「驚いていいところよ。海に行ったことがあったでしょ。あの後、ちょっと聴かされ
ちゃって」

「やたら非難されていたことしか覚えていないが」

「だったんだって、さ。ほんと、それだったら、もっとアピールすればよかったのに
ねえ」

「ほんとうに」

「ほんの昨日のような気がするのに、ずいぶん来ちゃったね」

「いや、まだまだでしょう。課長だの部長だの見てると、いろいろ考えちゃうよ」

「大変だね」

「本当に大変だよ。ホノカさんもそうだろうけど」

「まったく」

「ああ、まったく」

 俺たちは笑いあった。かつて共有した過去に、思いを寄せて。


 喫茶店を出たが、まだ時間は早い。特に何ということもなく、夜の町を歩く。俺は
ホノカを見る。どうする、と首を傾げて見せたが、ホノカはふわんと笑った。

 ホノカは顔をあげ、居酒屋のネオンを見上げる。そのホノカの瞳が、街を反射して
煌く。海鮮居酒屋の青いネオンを反射して、瑠璃色に。

 俺は、頭のどこかがチン、と音を立てたのを感じた。それ自体に価値はないけれど
、しかし、それを見つけることが、その人を幸せにすることがあるもの。

 俺は確信した。瞳それ自体に、価値はない。それが何を反射しようと、やはり価値は
ない。ホノカのおかあさんは、一緒にいたその人の瞳が、深い海の色を映し出したのを
見たのだろう。黒い瞳に映った瑠璃色を。そして、ホノカのおかあさんは、その瞬間に
恋に落ちたのだろう。

 つまり、ホノカのおかあさんは、この煌きを見つけて、幸せになったのだ。その真珠
の持ち主と共に。

「なあ、瑠璃色真珠の話を覚えてる?」

 大きく開いたホノカの瞳に、都会の光が煌く。オレンジに、ピンクに、そして瑠璃色
に。

「もちろん。懐かしいなあ、あの頃。あの話、あの時にしか、したことないんだ。
もう、すっかり忘れてた。アンコウのゲップだったっけ?」

「勘弁してよ」

 ホノカは笑って回る。人魚が海で踊るように、都会の妖精はネオンの海で踊る。

「俺さ、瑠璃色真珠を見つけたと思うんだ」

 ホノカの瞳はさらに大きく開く。七色のネオンを反射して、光は混じり、踊りまわる。

「ほんと? どこで? どんなもの?」

 都会の闇の底から浮かび上がる瑠璃色真珠。俺はこれから、ホノカに色々なことを
話すだろう。そして間違いない瑠璃色真珠の話を、ホノカにしてやれるだろう。遠い、
遠い日のホノカの両親の間に現れた、瑠璃色真珠の話を。俺が幸せになるかどうかは
ともかく。

「寝物語に教えてやるよ」

 ぶんと振り回されてきたバッグを、俺はかろうじて避けた。ホノカは笑っている。
俺の悪い癖は、未だにまったく直っていない。


persons おはなし

微量毒素