微量毒素

persons おはなし

或いは狩りのように
李・青山華

大学時代、私がサークルに行くと、いつも襲いかかるように近づいてくる彼女。
才気に溢れ、あらゆる方向へ思考を伸ばす彼女は、なかなか思考をまとめられない
私にとっては、苦手な相手だった。
色々議論をふっかけては、受けきれない私を鼻で笑う。
色々な疑問を投げかけ、必死で考えて出した結論を鼻で笑う。
そのくせ、私の提案を時々採用している。


そのことを指摘すると、珍しく少し躊躇して、それでも顔を決然と上げて、
よく考えたら、これがちょっといいかもしれないって思ったのよ、という。
怒りのせいか、少し紅潮した頬をして言い切る彼女に、私は言う言葉も持たない。
それでも、公平な彼女は、考えてくれてありがと、と言うことは忘れない。
たとえ、それが感謝というより、怒りの表現のようにきつく言われるとしても。


そのように、彼女は公平であり、理不尽なことはなかった。
だから、しんどかったが、彼女の相手をするのは不快ではなかった。
大学在学中はそのようにして過ぎた。
大学を卒業して働き始め、数年が過ぎ、ようやく社会人としての形が整ってきた頃、
一枚の葉書が舞い込んできた。彼女からだった。


ごく普通の安否伺いのような葉書だったが、中の一節だけ、鮮明に覚えている。
覚えているのは、それが彼女に似つかわしくなかったからだ。

 決めなくてはいけないことが多すぎて、頭の中が混乱しています。
 自分がどちらを向いて歩いていいのかもわからない。

もう葉書も捨ててしまっているので、他の部分は覚えていない。
それでも、彼女が悩んでいる様子はわかったので、返事を書いた。
内容は覚えていない。
いつものように、当たり前の、ぱっとしないことを書いたような気がする。
投函した途端に、やめておけばよかったと後悔したくらいだったから。
返事は来なかった。


さらに数年が過ぎ、また一枚の葉書が舞い込んだ。今度は同窓会の案内だった。
卒業して10年が経ったので、一度皆で会わないかという月並みな誘いだった。
特に行きたいという気持ちはなかったが、それでも承知の返事を出したのは、
せっかくの誘いを断るのも失礼な気がしたからに過ぎない。


10年という歳月は不思議だ。
驚くほど老け込んでいる者もいるし、ほとんど変わらない者もいる。
店に着いた時、私は誰かを捜している自分に気づいた。
彼女を捜していたのだが、彼女は来ていなかった。
不思議な失望と安堵を覚えて座りかけた私の横に、女性が滑り込んできた。
はっとしたが、彼女ではなかった。
やはりサークルの女性で、ほとんど話したこともない。
まだ席は空いているし、わざわざ私の横にくることもないのだが。
その女性は、私の表情をまじまじと見て、溜息をついた。
私はきまり悪いと同時に、何がなし不安定な気持ちを味わった。
だいたい出席者は集まったと見えて、会は始まった。


社会の中とはまた別の世界で育んだ仲間意識は、10年の歳月がなかったものの
ように、すぐにまた皆を包み込み、学生時代そのままのような盛り上がりを見せた。
私はといえば、大学時代そのままに、やはり一人で少し取り残されたような気持ちを
味わっていた。
隣の女性は、みんなとたわいのないことを話しながら、酒を飲んでいた。


一通り料理も回り、座は乱れていくつかのグループが出来て、
それぞれ盛り上がっていた。
隣の女性も呼ばれていたが、もう少し飲むから、と言って隣に座っていた。
そして飲んでいたぐい呑みを置き、私を振り返った。
あなたがまったく気にしていないようだったら、言わないつもりだったんだけど。
いきなり彼女は切り出した。
捜していたのは、彼女ね。

私は何も言えず、口の中に入れていた中華風に甘酸っぱく味付けられた鶏肉を
噛むことを忘れた。
あの子の言ったとおりか。嘘をつけないA君。
そして女性は話し始めた。


女性は、別に彼女と親しかったわけではなかった。
彼女の才気は認めていたが、才気を振りまいている彼女には否定的だったので、
在学中はそれほど話したこともなかったという。
だから突然電話が来た時はびっくりしたらしい。

彼女は電話の向こうでぐしょぐしょに泣き濡れていた。
女性は彼女がそんな風になる様を想像できなかったので、
少し話をして、すぐに家に向かうことにしたのだという。
私もそんな彼女を想像することが出来ない。


アパートに着き、ドアを叩くと彼女がドアを開けた。
彼女の顔は、電話口で想像したとおり、ぐしゃぐしゃに泣き濡れて、
まるで小さな女の子が泣いているところのようだったそうだ。

やはり、想像できない。いつも自信に溢れて、胸を張って歩いていた彼女が。

部屋に入ると、小気味よく片付いた部屋の、テーブルの上に葉書が一枚置いてあった。


彼女が見ていたのは、私があの時に出した葉書だった。
その女性が見ても、ごく普通の文面であり、相手を励ますような内容だったという。
なぜ、それだけで女性がすぐに彼女の気持ちを汲み取れたのかは、私にはわからない。
女性だけで理解し合えるような何かがあるのだろう。


最初は彼女も、頭の回転の遅い私をからかっているようなつもりだったらしい。
しかし、どんなにバカにするようなことを言っても、
次にまた話を持ちかけると、きちんと答えてくれることに気づいた。

他の人間は彼女に煽られ続けるうちに、次第に曖昧に返答をぼかすようになって
いったのに、私は最後まで真剣に考えていたと。
そして、それが凡庸な結論に思えても、実はちゃんと考え尽くされた答えであると
いうこともわかってきた。

彼女は、いつか真剣に私の答えを求めるようになっている自分に気づいたという。
しかし、今さらスタイルを変えることも出来ず、あのようになっていたのだと。
彼女は、自分の才気に振り回されていたのだという。
彼女はあんなに自信に満ち溢れているように見えていたのに。


そして、学校を離れて社会に出てからは、様々な要因が
彼女が見つける正しい道を、歩ませてはくれなくなっていた。

社会が様々な因果関係で成り立っていることはわかるし、
力のあるものの思惑が優先されるということを理解してはいても、
理想の道を現実に否定されるのは、耐えがたいものがあった。

ましてや、彼女の自信が、提案への否定に結びつくことがままあるようだということが
判ってからは、どうすればいいのか、わからなくなってしまったらしい。

自信を持っても駄目、卑屈になっても駄目。
彼女は道がまったく見えなくなってしまったらしい。
その時に零れたものが、私のところに来た葉書だったのだ。


あの人は、ずっと変わらない。
今でも、私の由無し事を聞いて、真剣に考え抜いて、
石に刻み付けるように答えを示してくれる。
どうしてこんなに、変わらずにいられるんだろう。
どうして、こんなにしっかりと、揺るぎもせずに立っていられるんだろう。

それは、彼が自分自身をしっかりと確立しているからだわね。

女性が言うと、彼女は、あんたならわかってくれるって思ってたわ、
そう言ってまた、泣き続けたという。
それで、初めて女性は自分に電話がかかってきた理由がわかったという。

それなら、一生そばで助言をしてもらってたらいいじゃない。
女性が冗談めかして言うと、彼女は涙を振り飛ばしながら首を振ったらしい。


私はいいけど、彼にはよくないの。彼は私をしんどく思っている。
でも、誠実だから返してくれるだけ。私は、彼がそばにいたら、頼ってしまう。
すべてあの人に頼って、あの人の生活を滅茶苦茶にしてしまう。
だから、私はもう彼には近づかない。ありがとう、滅茶苦茶な話に付き合ってくれて。

言うだけ言ったら、すっきりしたわ、と言う彼女の顔は蜻蛉のようだったという。


女性はそのまま彼女の家に泊まった。
大丈夫だと見極めをつけるまで帰らないつもりだったと。

しかし、彼女は自分で言ったとおり、自分自身をすっきりさせたらしい。
翌日には、いつもの自信に溢れた顔を見せたので、女性は家に帰ったのだと言う。

彼女は今は結婚して、カナダに行っているそうだ。
それで来られなかったんでしょうね。
女性はそう言ったが、私は彼女は日本にいたとしても、
ここには姿を現さなかったような気がする。


あんたたち、割れ鍋に閉じ蓋だったのよね。女性はそういい、向こうを向いた。
そして、失礼、と言い、手洗いに立った。

戻ってきた女性はそのまま別のグループに合流し、私は一人で取り残された。
そして、口の中に、噛まれないままの鶏肉が残っていることに気づいた。


会も終わり、外に出た私は、二次会へと誘う声を断って、帰路をたどり始めた。
空は晴れており、白い半月が明るい。
カナダでも、同じ月が見られるのだろうか。幸いにして、私はそれを知らない。



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