さくら |
李・青山華 |
この候 あらゆるところで空が薄桃色にけぶる。 輪郭のはっきりしないその姿は精霊にも似て 春の訪れを明示的に告げる。 早春の まだ暗い風景を抜けた後に突然広がる匂やかな空気は 寒さに固く閉ざされた脳髄を溶かしきるに十分である。 いつも花が咲くまでは、大したことはないと思っているのだが、 咲き始めた桜の近くに行くとふらふらと引き寄せられてしまう。 桜は普通の花木と違い、無数の花に包まれた空間を作り出す。 葉が一枚も出ていないから、花だけが空間を埋め尽くし、 ひとつの閉ざされた異世界を現実の隙間にぽっかりと現出させるのだ。 空を一面に埋め尽くし、桜花は人の心を占領する。 この奇跡はほんの数日しか続かない。 瞬く間に盛りを極めた花は、すぐに惜しげもなく散り始める。 はらはらと雪のように降りしきる花の死の舞の中に立っていると、 自分自身の存在すら、夢幻の中に薄れていく。 山の中、どこまでも続く桜の森。 薄桃色の霞の中にいれば、正気などはあっという間に どこかに消えてしまい、後には生気を吸い取られた ぬけがらばかりが残る。 また今年も狂気の季節がやってきた。 |