非日常としての海 |
李・青山華 |
日常から遠く遊離した異世界の入り口としての海の彼方から、 目を放して振り返った目に映る、色鮮やかな、 衣装というには布地を惜しみすぎている水着をまとったものたち。 瞬時に人外の想から人の世に引き戻された時、人はまた眩暈を覚えるだろう。 そのどちらもが人にとって同レベルの重さを持っていることを知るからである。 人が海を訪れるのは、そこでは普段許されないはしたない振る舞いを、 思う存分行っても誰もがそれを認め、許すからである。 下着より面積の少ない水着で大またで闊歩しても誰も眉を顰めることはない。 そこでは普段披露することのない部分を大勢の目に晒して その賛美の視線を受けることができる。 また善良な男女が決して関わり合いになることのない、 地下組織で行われるウェット&メッシーに属するような行為を、 ここでは子供ばかりでなく大人でも存分に行って奇異の目で見られることもない。 肌に乾いた砂、濡れた砂を零し、その感触を楽しみ、また砂の中に埋まって、 その拘束感とダーティな感触を楽しむことができる。 プールなどではなかなか出来ない、水の中で何することもなく漂うこともできる。 ゴム製のボートの上で寝転がり、ずっと波に揺られていることもできる。 子供たちもここでは砂を掘り、水を運んで撒き散らし、 回りを水浸しにしても怒られることはない。 海は人によってではなく、その「場」によって非日常の世界を実現している。 海辺のコンビニには何も着ていないように見える娘が気軽に入ってきて、 お父さんやお母さんをどぎまぎさせるが、これはどぎまぎする方が悪いのだ。 そのコンビニは既に非日常の中にあるのだから。 ここから歩いて10分のところまで行けば既にその呪縛は解かれ、 日常よりは緩いものの、それなりの日常がある。 海の回りには内陸に向かって漸減的に広がる非日常の世界があるのだ。 場が日常との遊離を支配するものには他には温泉くらいしかない。 場がその行為を支配するのは変わらないが、 温泉ははるかに日常に近く許される行為もそれほどない。 つまり海だけが誰でも行くことが出来、 行くだけで非日常を味わう条件を満たすことのできる空間なのだ。 |
05.08.03 |