微量毒素

おはなし
蝋燭(ろうそく)
李・青山華


蝋燭に火をつけるという行為は、常に畏敬に満ちている。世の中が、電気という
エネルギーを光源として用いることが当たり前になった現在では、なおさら。


闇の中で動き回る能力を失った人類が、本来活動を止むべき闇の中で、
さらに活動を継続しようとする意思が、蝋燭をつけるという行為にはついてくる。

それはまた、すでに闇の眷属となった、故人の属する無明の中に、
ここがおまえの来るべきところだと、指し示す意思にもつながる。
既に活動を終えた生命に属したすべてのものは、闇に埋めておけばいいのに、
その存在を継続させようとする意思である。


闇の中、神に使えるもの以外立ち入ることを許されない神域で灯る蝋燭、
あるいは既に明るい光を必要としない解脱僧の、瞑想の前で揺れる蝋燭の炎。
これらの炎には、灯ることも、消えることも、すべてが意味を持ってくるし、
あるいは何の意味も持たない。

意味を持たないということは、その蝋燭がそこにあることすら、何の意味も持たない
ということである。これらは、本来の蝋燭が持つ属性を大きく逸脱している。
本来、蝋燭は、光源としての意味しか持たず、必要であれば点けられるし、
不要であれば消されるという実用品としての属性しか持たないのに。


人は蝋燭にいつも過大な意味を期待する。
蝋燭の炎が揺れている間は生きていられるとか、赤い蝋燭を灯すと嵐が来て、
村が全滅してしまうとか。
すべてを一度に吹き消すことができれば幸せになれるということがある。
しかし、その祝福は、常に裏の呪いを呼ぶ。吹き消せなければ? 
吹き消せなければどうなるというのであろうか。


人はいつも自らの作り出した影に怯え、あるいは歓喜して生きている。
動物たちが持たないこのような感覚を持っているということは、
人にとっては祝福なのだろうか。それとも呪いなのだろうか。


蝋燭は、自らの身体を維持していける間は、完璧な形の炎で燃焼し続ける。
その時間は、ほぼ変わることがない。この実用性は完成されている。

本来、日常に溶け込んでいたこの炎は、今はブラックマジックと結び付けられる。
よしんば、それがかつてブラックマジックの場で揺らめいていたとしても、
その時は確かに光源としての意味しか持っていなかったはずなのだが。


そのようにして、魔術は形骸化していく。
本来あった部分より、その当時の環境を再現することに力点が移り、
魔術自身に込められる力は削がれていく。
そしてそれこそが、現在に魔術を期待し得ない、もっとも大きな問題点なのだ。


時代がいかに変わっても、蝋燭自身の持つ意味は変わらない。
ただ、それを見る人の目が、そこに在ったかもしれない様々な可能性を探り、
解釈をつけ、肥大させていくのだ。

燃え続ける蝋燭の回りに溜まっていく、様々な残滓を。

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