微量毒素

おはなし

あいつ
李・青山華


 雨のせいか、それでも薄曇りの西の空は、赤白くぼんやりと明るい。黒の絵の具の上に白を塗りつけたような、不思議と暗くない空である。すでに夕方、陽は落ちているらしい。
 霧のように流れる雨が、部屋の中に流れ込もうとしているようだが、窓は開けておく。湿った冷たい空気が肩のあたりを冷やしてゆく。空は次第に暗くなる。
 こんな日にあいつを思い出す。何も言わず、いつの間にか消えたあいつを。

「こんにちは」
 あいつは同じアパートの住人だった。今と違い、自分以外の人間にだけは好かれたかった私は、住人たちとの挨拶は欠かさなかった。皆、親しく返事をしてくれたものだが、あいつは困ったような顔をするだけで、挨拶に応じなかった。私は、何だ、あのやろうは、と思いながらすぐに忘れた。

 私は友達と語り、笑い、飲み、騒いだ。いつでももう一人の私が困ったようにぽつんと立っていることに、薄々気づきながらである。その私は、いつでも騒いだあと、ふっと現れる空虚の中に立った。あの時、私は何をしたかったのだろう。あの頃、本当に私は何を考えていたのだろう。

 あの頃、私は時折、夜に走った。全力で、川の際を。石をけり、岩を越えて。全身汗みずくで帰ってきた私は、そのまま布団に倒れこんで眠った。そしてまた次の日から、話し、食い、騒ぎ始めるのであった。何か異和感に襲われながらも、私はそのような日常に満足していると思っていたし、ずいぶんと恩恵も受けていたように思う。

 空を星が流れた。

 私は考えることが多くなってきた。そして、さわぐのも、話すのも、笑うのもいやになり、一日何かを考えてすごした。あの時、私は何を考えていたのだろう。

 ノックの音がした。扉を開けると、あいつが居た。あいつは手を伸ばし、私の頬に触れた。私は一瞬身を引いた。あいつは曖昧に手を振り、外から扉をしめた。しばらくそのまま立っていた私は、ぎくりとし、戸を開けた。あいつはもういなかった。

 私はそのこともしばらくすると忘れ、明けない夢と夜を追い、そして人間嫌いになった。そして気がつくと、母親となり、旦那と子供の世話に明け暮れている。私は旦那も子供も愛している。人間嫌いは直っていないが、旦那と子供は確かに愛している。いや、むしろ人間嫌いになったせいで、本当に愛しているかどうかわかったのかもしれない。なぜなら、今の一人の私は、私と同じように笑い、幸せでいるからである。一人でぽつんと立っていることなどない。

 あいつは、いつの間にか私の周辺から消えていた。私はあいつの性別も忘れてしまったのに、親しげにあいさつを交わした人々のように、忘れ去りはしていない。私の中の存在として、何か重大なものをあいつはつかんでいるのだ。冷たい夜気の中で、顔も忘れたあいつを、私は何故か追っていたりすることもあるのだ。

85.06.21

微量毒素