微量毒素

赤の魔歌 〜ハチのムサシ〜 p.10

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1 因縁と願い
2 時は満ち、禍津神は舞う
3 わがままな女神

★ 因縁と願い

 イガの服はぼろぼろになっている。ユカルもイガも、かなり息を切らしている。

「よくない、趣味、ですよ、かわいい、男の子を、苛めて、楽しむってのは、」

「すごく、いいの。あなたと、危ないことを、して、遊ぶの。かわいい、って、言葉には、いろいろ、思うところも、あるけどね」

 イガは相手に気付かれぬように息吹きを行い、呼吸を調整した。瞬く間にあがった息が落ち着いてくる。イガが見たところ、相手も同じことをやっているようだ。荒かった呼吸音は嘘のように消えている。

「俺も、お目もじできて光栄です。お名前をお聞きしていいですか?」

「よくってよ。私はユカル」

「おれはイガです。お会いできて、うれしいです」

 ユカルは真横から腕を回し、イガに切りかかる。イガは自分から後ろに倒れこみ、勢いあまって踏み込んできたユカルの身体を、寝転がった状態で蹴りあげた。ユカルは真上に吹っ飛んだ。ユカルは着地しようとするが、イガは足を大きく回してその足を蹴り飛ばす。イガは回した足の勢いで起き直り、蹴り飛ばされて落ちてくユカルの腹に膝をめり込ませた。さすがに腹を押さえてうずくまったユカルの背後にイガは立ち、両耳の下を強く押した。すぐにユカルは動きを止め、ぐったりとなった。イガは急いでユカルの脈を確認した。

「よし、気絶しているだけだ。すみません、お姉さん、先に行かせてもらいます。友だちが待っているんで。もし生きてたらですけど」

 イガはドアに向かった。開けようとすると、鍵がかかっている。何とか開けようとしたが、どうしても開かない。把手を掴み、足で戸をぐいぐいと押したが、やはりまったく開かない。慌ててドアの回りを探し回ったが、やはりわからない。イガは途方にくれた。

「内鍵のはずなのに、開け方がわからん...」

 イガは後ろを振り向き、気絶しているユカルを見た。足を忍ばせてユカルに近づき、耳元に口を寄せて囁いた。

「失礼しまぁす、お姉さま。内鍵の開け方がわかんないんですけどぉー」

 ユカルは完全に落ちている。起きる気配はない。イガは溜息をついた。

「起こさないと無理だけど、起こしたらまた暴れるんだろうなあ...」

 イガは首を振って立ち上がり、部屋を見回した。壁の一部が壊れている。闘っている間にぶつけたか何かしたらしい。イガはそこを覗き込んだ。

「中空構造か。なら、壁を崩していけるかな」

 イガは呟きながら、部屋の中を振り返った。イガは頷いて、置いてあったソファを担ぎ上げた。

「おっと」

 イガはバランスを崩しかけて、危うく踏みとどまった。

「これくらいの重さがあれば、なんとかなるでしょ」

 イガは構造材の集中していそうなドアのすぐ脇を避けて、少し離れたところに狙いをつけた。身体を少し沈め、ソファを前に出して突進する。

「おぇああああああああああ...」

 壁がぐんぐんと近づいてきた。


 いきなり、ムサシの脇の壁が、轟音とともに崩れた。あたり中に破片を撒き散らし、咳き込みながらソファをかざしたイガが姿を現した。ムサシはさすがに驚いた。コウガも警戒したように動きを止めている。

「おあっ、ごはっ、何とか、出られたか?」

「イガ! 無事だったか」

「おお、久しぶりだな、ムサシ。俺は今、セクシーなお姉さんと、とても危ない時間を過ごしてきたんだ」

「そんな感じに見えるな。また会えてうれしいよ」

 二人の会話を聞いて、コウガは片眉をあげた。

「そのセクシーなお姉さんを、片付けてきたっていうのか」

 コウガは低い声で呟く。信じられないという響きがこもっている。

「で、おまえは何やってんだ」

「ええと、俺はあの人に、出口を教えてくれるように説得してるんだが、どうも難しい局面に入ってしまったようでな...」

 イガの服はずたずただが、ムサシも、かなりの傷を負っている。いや、ムサシのほうが傷が深い。イガは相手を見た。コウガはやはり、身体を浮かせたような独特の構えを取っている。イガはムサシを振り返って言った。

「代わろう。あいつの闘い方は変則だ。俺のほうがしのげる」

「しかし、イガ...いや、ここは任せる。俺は出口を捜そう」

「イガ...? その名前、ずいぶん昔に聞いたことがある...」


 走り出したムサシを庇うように、イガは前に出、ユカルから借りてきたナイフを投げた。それを上から叩き落したコウガは、イガに襲いかかる。体の大きさに似ない、ロケットのようなダッシュだ。イガは横っ飛びに転がってかわす。

「は、早い...」

「ユカルを片付けたのが頷ける。叩き落すのが精一杯だ...」

 二人は目を合わせる。イガはにやりと笑い、正確にコウガの目を狙って転がった時に掬った砂塵を投げた。コウガは手を上げて難なくガードし、ピョウを飛ばしてきた。鎖でつながれた投げ矢は、イガがかわすと手品のようにコウガの手の中に戻った。

「よけるか、こいつ」

「やな武器を使うなあ。再利用可能な投げ矢かい」

「こう見えて、地球に優しいんだよ」

「エコ狂いの方々って、時として手に負えないからなあ」

「エコロジーは大事だよ。自分の住処をなくしたくなければな」

「しかも、説教世代だし」

「まあ、実は説教よりも実地指導の方が得意なんだ。君は彼より礼儀を知らないようだ。ちょっと指導させてもらうよ」

「やなこった。あいつの説教にも、いいかげん嫌気がさしてんだ。この上指導なんて御免だぜ」

 イガは右の壁に向けて走った。コウガはそれを見たが、立ち位置を変えない。走りながらイガは腰の後ろにさしたボウガンの矢(これもユカルさんの借り物である)をコウガの足を狙って投げた。コウガはそれを叩き落した。が、あくまで立ち位置は変えない。

「やばいな、こいつ」

 イガは呟いた。イガとしては、コウガに自分を追って身体を動かして欲しかったのだ。動いた瞬間、空間把握が一瞬甘くなる。そこに付け入ろうとしたのだが、コウガは全く動かない。

「しゃあない!」

 イガはそのまま崩れかけた壁を駆け登った。壁はずたずたになっているように見えるが、構造材の部分はこれくらいでは崩れない。イガはその位置を覚えていて、そこを駆け登ったのだ。イガが駆け登った瞬間に、コウガは身体の向きを変えていた。この瞬間にはイガが攻撃できないと判断してのことだろう。イガが構造材の位置を把握しているのも悟っていたようだ。

「くそっ」

 イガは駆け上がりながら悪態をついた。イガの掻きまわし策に全く乗せられていない。驚くほど安定した、強固な精神の持ち主だ。イガはふと、姉のことを思い出した。結局成就することのなかった、姉の恋。姉は相手のことを、極めて精神が安定していて、姉が安心して一緒にいられる唯一人の人間だと言っていた。ひょっとしたらこんな奴だったのかもしれない。イガは壁を駆け登りきり、最後に天井を蹴ってコウガに向かって突っ込んだ。


後ろをとるつもりで、コウガからは一瞬たりと目を逸らさなかったのに、イガが天井を蹴って、軌道修正が不可能になった瞬間にコウガは動き、逆にイガが後ろを取られる形になった。イガは不利な位置を嫌って、地面についた瞬間に飛び出そうと体勢を整えたが、地面につく前に強い衝撃を受けて跳ね飛ばされた。飛ばされた勢いを利用して身体をひねり、手を着いて足から下りようとしたイガの目の前に、既にコウガが迫っていた。

「対面指導は嫌いだぜ」

 イガはそのまま後ろ向きに飛び、ばく転をした。それでもコウガはそのままの勢いで迫ってくる。イガはさらにばく転をして、コウガから逃れた。そして、3回目のばく転で地面ではなく壁に足を着け、逆にコウガに向かって飛びかかった。空中で前に回転して、かかとでコウガの頭を狙う。コウガはそれを十字受けで受け止める。イガは跳ね上げられるままに後ろに回転し、十字受けの下からコウガの咽喉元を突いた。コウガもさすがに避けきれず、後ろに数歩跳び下がった。イガは猫のように四足で着地して、そのまま油断なくコウガを見据えていた。

「俺が後ろに下がらされたのなんて、何年ぶりだろう。いや、初めてかもしれない」

 コウガは咽喉をさすって感慨深げに言った。イガはコウガから目を離さず、ゆっくりと立ち上がった。

「指導をしたことはあるけど、されたのは初めてだ、ってか? そういう奴が一番たちが悪いんだぜ」

 イガは油断なく身構えた。

「しかし、指導されるのも新鮮で悪くないな」

「言ってろ!」

 イガは腰からトンファを抜き、両手に構えた。コウガはそれを見て、指を振って言った。

「それは無理だ。我々のスピードでは、身体を延長するような武器は邪魔になるだけではないかな」

 イガは何も言わずに突っ込んだ。イガはトンファで突きを入れたが、コウガはその突きが届く前に、イガの内懐に入り込んで、肘打ちから裏拳へと攻撃をかける。イガはかろうじてガードするが、ガードの上からでもコウガの攻撃は重く身体に響く。コウガは休みなく足を払い、イガが必死で回したトンファを手甲ではじいて、そのまま両掌でイガの左肩と右胸を撃つ。イガは避けきれず、吹っ飛んだ。イガは転がり、トンファをかざして防御の構えを取った。もちろん、こんな受けではコウガの攻撃が防ぎきれないのはわかっている。イガは必死でコウガの攻撃を防ぐ術を考えていた。しかし、コウガは連続攻撃を止めて、イガに向かって話しかけた。


「わかったかな。本来、スピードは君の方が上だろう。しかし、私のスピードも、おそらく君が今まで体験したことのないレベルのはずだ」

「へっ。こっちはムサシといつも闘ってきてんだぜ。あいつのスピードは身に沁みて感じてんだろう」

「ムサシ君の太刀行きの早さも尋常ではないが、刀は攻撃のラインが読みやすい。おそらく、ある意味で君は楽が出来たのではないかな。太刀筋を見切れば、攻略可能ではあるだろう」

「そう簡単に見切れるかよ、あいつの剣が」

「簡単ではない。だが、君は私が見切れると思ったのだろう?だから彼と替わったんだ。そうじゃないのかね」

 イガはしゅっと息を吐いた。残念ながら、コウガの言う通りだったのである。

「だから、私との戦いで、武道具を持つのは得策ではないんだ。手の延長である武器は、それ自体が意思を持っていないため、使う者の意思よりほんの少しだけ、タイムラグが発生する。武器のスピードは、どうしても使用者の意図に追いつけないんだ。今までは、それが問題にならない程度の相手としか、出会ったことがないんだろうが、私は違うよ。手先からのコンマ数秒の遅れが致命的になる」

 イガはコウガの意図がわからない。なぜこんな話をして、時間を過ごすのだろう。何も言わずに連続攻撃を続ければ、間違いなくイガは疾うの昔に眠らされていただろう。罠があるかもしれないので、一瞬も気を弛めることなく、イガはコウガに毒づいた。

「何でそんな話をするんだよ。順当に行けば、俺はもうとっくに説教なんて聴かなくて済んでたのに」

 コウガはにっこりと笑った。

「おやおや、もう敗北宣言かい。威勢の割には気弱だな」

「誰が!そんなに油断すると後悔するぜって言いたいのさ」

 イガの虚勢に、コウガはさらに笑みを広げて言った。

「油断なんかするものか。君はユカルを倒してきた。彼女は、俺がもっとも恐れていた者の一人だ。俺が彼女とまともに闘ったら、勝てる自信は五分五分だった。その彼女を倒してきた君を、私が甘く見るわけがないだろう」

「あんたが女に甘いからだろ」

「彼女はハンデを置いて勝てる相手じゃない。シミュレーションでは、私は随分とひどいことをして、それで五分だったんだよ」

「確かに、すごいお姉さんだったけどな。じゃあ、何で? 何で無駄話を?」

「無駄じゃあないさ。初めてなんだよ、俺が俺と同じ土俵で五分に戦えそうな相手と出会ったのは。しかし彼は、若さのせいか、愚かな間違いを犯して、自ら墓穴を掘っている。これは甚だおもしろくない。わかるだろう?」

「へいへい、ご説教、骨身に沁みました」


 イガは両手を上げて、トンファをくるりと回し、左右に落とした。確かにコウガの言う通り、武器を持ったことは間違いだった。あの狂気染みたスピードに、四肢を延長する武器を使おうとしたのは間抜けだった。しかし、コウガの言うように、スピードとセンスなら、自分の方が上だとイガは確信していた。コウガはムサシ以上の怪力と、おそらくイガより遥かに多くの経験を積んでいる。

「やっぱ、五分かな」

 呟きながら立ち上がるイガの身体には、毛筋ほどの隙もない。コウガは満足そうに頷いた。

「君から来るしかあるまい? 君の勝機は、先をとることにしかない」

「陰険じじいめ。そこまで追い詰めて、先の先を取る気だろう?」

「もちろん、そうだ。君を甘やかす気はまったくない。一瞬でも気を抜いたら、そこで君は終わりだ」

「まったく、分が悪いぜ、こりゃあ」

 イガはそう言いながら、コウガに向かって歩き出した。真っ直ぐではなく、微妙に左右に揺れるその歩みは、イガがコウガに対して、既に技を仕掛け始めた事を物語っている。コウガはそれを十分に承知した上で、静かにイガの接近を待っている。



★ 時は満ち、禍津神は舞う

 ムサシは次のフロアに入った。男が一人立っている。ムサシは、相手の雰囲気を読み、無駄と知りつつ、一応尋ねてみた。

「失礼、出口はどちらですか?」

 男はズボンの尻を払いながら立ち上がった。髪を伸ばし、右眼はまったく隠れている。残った左目に明るさを湛えて、男は応えた。

「さあ。俺もよく知らないんだが。捜しているんなら、見つけたら教えてくれ」

「わかりました。それじゃあ、ちょいと失礼します」

 横切ろうとするムサシを遮るように、男は姿勢を変えた。やはり、ここでも足止めを食うらしい。しかも、まったく隙がない。ムサシは溜め息をついた。

「俺の名はコジロー」

 男は断ち切るように言った。ムサシはびくんとした。

「俺はムサシ。以前、会った事でもあったかな」

 男は首を振った。

「たぶん、ない。なのに、俺はずっとおまえとこうして出会うのを待っていた気がする」

「いやいや、お恥ずかしいが、こちらもそんなふうに感じているぜ。参ったね」

「二刀流だな?」

「ああ。一本が折れても、もう一本が使えるからな。雨が降りそうもなくても、必ず傘を持ち歩くタイプなんだ」

「両方とも折れてしまったらどうする?」

「粉骨砕身して、ベストを尽くすさ」

「よし。やってみろ」

 コジローは滑らかにムサシのほうに歩み寄った。ムサシはコジローを待ち受ける。


 その一連の攻撃で、イガはコウガの動きを止められるはずだった。しかし最後の攻撃で、コウガが受けてくれなければ、そこを軸にした次の攻撃が仕掛けられない。驚いたことに、コウガは敵の攻撃の真っ最中に、自分から倒れこんでイガの空中からの蹴りを空振りさせたのだ。イガは勢いを止められず、体勢を崩して地面に下りたのだが、その時にはコウガは既に攻撃圏内にイガを捉えており、眼にも止まらない後ろ回し蹴りを、イガの首に向けて放っていた。

 イガは確かにコウガの攻撃をブロックしたのだが、コウガの体重を乗せた攻撃に、そのブロックの上から吹き飛ばされ、壁に激突し、苦痛のうめきを上げた。

(だめだ、ムサシが、まだ...)

 イガは身体を引き剥がすように壁から離れたが、2、3歩前に足を運んで、そのまま倒れた。コウガはゆっくりとイガに近寄り、跪づいた。

「やはり、おまえたちは危険すぎる。ここで動きを止めてもらうべきなのかもしれない」

 コウガはイガの首の横に親指を押し当てた。力を込めようとする刹那、コウガの頭の中で、懐かしい声が爆発した。

《やめて!コウガ!》

 コウガは呆然として、顔を上げた。あたりを見回す。

「...ガーベラ?」

 ここにガーベラがいるはずはない。いれば、その気配をとうに気づいているはずだ。

「?」

 コウガは理解できなかった。その頭の中に、またガーベラの声が響いた。

《やめなさい!コウガ!あなたたちは二人とも、私の宝物なの!傷つけあったりしたら、許さないからね!》

 聞こえるのは、間違いなく、懐かしいガーベラの声。声音だけでなく、高飛車なもの言いの中に、愛情のこもったニュアンスは、間違いようもなく、愛しい人のものだった。

「ガーベラ...」

《これよ、これなんだわ、私を苦しめていたのは。コウガ、いいこと?絶対、馬鹿なことをしちゃ駄目よ。あなたが自分で判断して、こうすればいい、と思うことをしなさい。あなたを信じてるから。私は、またあなたに会える。だから、自分を信じて、やるべきことをして。いいわね?》

 唐突に声は消えた。何の気配も残さずに。しかし、コウガは十分に意とするところを理解していた。

「仰せのままに、お姫様...」

 脳に過重な負担がかかったせいで、コウガは意識を薄れさせていった。コウガはまず膝を着き、崩れるように倒れた。



★ わがままな女神

 プラタナスは、キスゲのベッドにのしかかるようにして立っていた。体力のほとんどないキスゲがあまり大きな声を出さなくてもしゃべれるように、耳をキスゲの口に近づけている。男性用のローションの匂いと、プラタナスの体臭が混ざった香りが感じられて、キスゲはなんだかくすぐったい。

「深い水の底で、私はずっと考えていた。私はこの組織をこわします。全霊を込めて」

「何を言ってるんだ?」

「わかってくれるよね...」

「そうは言うが…」

 プラタナスはキスゲを見た。透明なまでに蒼ざめ、浅い呼吸をしている。以前、危険な状態には変わりない。

「お願い。止めて。みんなを助けて。ムサシには悪意がない。彼らがいれば、次のフェーズに進める。どうか…」

 キスゲは目を閉じ、止まりかけた呼吸が再開するまでじっと耐えた。呼吸が安定してきて目を開けると、プラタナスの顔が目の前にあった。不安が全面に出た、素の顔だ。《変な顔。でも、好きだわ。こんな顔もできるのね》キスゲはやはりくすぐったい。微笑みがかすかに顔に浮かんだ。

「わかった。もう喋るな。おまえがそう言った。おまえはそう信じている、と。わかった。俺はすぐに行く。みんなを止める。これでいいんだな?」

 キスゲは微笑み、頷いた。

「くそったれ。がきんちょのために、俺は失職するのか...よっしゃ。言う通りにするから、絶対に元気になれよ。何も心配しないで、そこで寝てろ。俺が全部まるく治めてやる。わかったな?」

 キスゲは微笑んだ。頷く力はもうない。プラタナスはいかめしい顔で頷き、部屋を出て行った。キスゲはその背中に、心の中で呼びかけた。

『お願いだから、気をつけて...』


 キスゲはそのまま、また意識を失い、昏睡状態に入った。せんせいは慌ててキスゲに近寄り、脈をとった。

「言わないことじゃない。くそったれが。ヴァルハラ、強心剤はどうだ?」

「まだ、早いね。話のために入れたばかりだから、続けては避けたい。大丈夫、この子は保つよ。それにしてもせんせい」

「なんだ?」

「せんせいも汚い言葉を使うことがあるんだね。お下品だよ」

「くそはくそだ。わしが何のために、ここで手を尽くしてると思ってるんだ。プラタナス自身がこの子の寿命を縮めてどうする」

「この子が生きていくために、そうする必要があったんだろ。プラタナスは馬鹿じゃない。この子も馬鹿じゃない。あれを伝えなけりゃ、この子は生きる意味を失っちゃうんだろ。だから。いいのさ」

「...なるほど、そうか」

「せんせい、そろそろ様子を診て。危なければ、危険だけどもう少し心臓を活性化させなくちゃ」

「そうだ。それどころじゃないな」

 せんせいはキスゲに向き直り、計器を確認しながらチェックを始めた。ヴァルハラは横で、顎に手を当てながらその様子を見ている。


 プラタナスは、その足でカルラのところへ向かった。

「頼みたいことがある。仕事じゃない。手伝ってくれ」

 カルラは立ち上がった。

「行こう」

 プラタナスは出てゆく。カルラは後に続いた。


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