微量毒素

赤の魔歌 〜ハチのムサシ〜 p.2

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★ 待つ者(1)

【ルカ】

 ルカは、朝から烈しい焦燥感を感じていた。ムサシが行ってから、もう3ヶ月になろうとしている。時々、呑気な葉書が来るが、それだけである。ルカは、今回のムサシの放浪が、ムサシの言うように気まぐれやモラトリアムの延長希望などによるものでないことは覚っている。だからこそ、ムサシは自分を抱くのを、あんなに躊躇(ためら)ったのだ。


 ムサシは、異様なほど気を使いながら、ルカに放浪の計画を打ち明けた。大学3年生になる時に、一時休学して、しばらく放浪生活をするという。イガも同行するというのだ。両親には話をして、納得してもらったので、あとはルカに話をしておきたいと、わざわざルカのうちに来て、両親に挨拶をして、話を切り出したのだ。プライベートな話になるので、ルカは自分の部屋にムサシを上げた。ムサシは椅子に座り、ルカはベッドに腰掛けた。

「どういうつもり?親の前であんな話を切り出すなんて」

「いや、何となく、証人がいたほうがいいような気がして」

「何よ、それ。なんか、この改まり方、別れ話をする時みたいで嫌なんだけど」

「結婚の申し込みにも似てると思うんだけど」

「だったら、何でそんな悲壮な顔をしてるのよ」

「してるか?」

「してるわよ」

「大事な娘さんをいただくにあたって、緊張のあまり悲壮な顔になっている、という解釈では?」

「何が、解釈では?、よ。前段はもういいから、本論に入って。何が望みで、どうしたいの?」

「相変わらず、厳しいな。望みというか何というか...提案としては、一度縁を切らないか、ということなんだけど」

「駄目。他には?」

「だめ?早いよ。少しは話を聞いてから判断してくれ」

「だったら、そういうふうに話を切り出しなさいよ。先に話をして、縁切りに持っていけばいいでしょ。頭に縁切りが来たら、駄目っていうしかないじゃない」

「なるほど、一理あるか。じゃあ、放浪に出かけるにあたり、いつ帰って来られるかわからないし、それでルカの気持ちを縛っておくのが嫌だから、一度縁を切ろう」

「いや。他には?」

「いや、って、早いよ。補足説明は?」

「いらない。補足しなければいけないんなら、最初から織り込みなさい。でも、この話だと、こちらの言い分も出てくるわね。いつ帰ってこられるか、わからないような放浪に出るのはやめなさい。ただずるずると放浪するだけじゃ、ムサシさまのためになるとも思えない。この企画自体を却下するわ」

「それは困る...帰ってくるつもりはある。期間は、長くて1年と踏んでいる」

「じゃあ、縁を切る必要なんてないじゃない。今だって年に数回しか会えないんだから、大して状況は変わらないし、今のところムサシさまよりいい男と出会ってもいないし」

「出会ったら乗り換えるの?」

「さあてね。誤魔化そうとしても、私は話を見失ってないわよ。何で縁を切る必要があるの?」

 ムサシはいかにも困ったというように、首を振った。

「だって、放浪中に何かあって、命を落としたり、行方不明になったりするかもしれないじゃないか」

「あきれた。それを心配して別れようなんて言ってるの?いったい、どんな危険な放浪をしようって言ってるのよ。そういう危険のある確率が、どれくらいあると思ってるの?」

「10%くらいかな...」

「多いけど、普通に道を歩いてても、事故に遭うことはあるわ。そんなのは縁切りの条件にはならないわね」

「じゃあ、50%」

「そんな旅には行かせないわよ、ばかね」

「説得は無理だな...じゃあ、一方的に別れる。すまん、何も聞かず、別れてくれ」

「いや。ムサシさま、ふざけてるの?そろそろ、殴りたくなってきたんだけど、いい?」

「それは構わないが...」

 ルカは大きく息を吐いた。そして顔を上げて、ムサシの顔を覗き込んだ。

「もう、いい加減に諦めて、本当のところをぶつけてよ。どうしてムサシさまは、いつも私を信用しないのかしら」

「いや。信用しているから、これで行かせてもらおうと思ったんだ」

「甘えんぼ」

「返す言葉もない」

 二人の間に沈黙が下りた。ルカは、身体を揺すって、ベッドのスプリングをぎこぎこと鳴らしていた。階段を上ってくる足音がして、ドアが遠慮がちにノックされた。

「どうぞ」

 ルカが言うと、母親が顔を出した。

「コーヒーと、おやつ」

「ありがと」

「どうも。お気遣いなく」

 ムサシが受け取り、お盆ごと机に置いた。母親が降りていくと、ルカが呟いた。

「長いから、偵察に来たな。ベッドもぎしぎし言わせてたし」

 ちょっと考えて、その意味を悟り、ムサシは赤くなった。

「過激だね、ルカ君」

「そういう歳だってことよ、ムサシ君。私はもう、男に抱かれる心配をされるような歳なの」

 ムサシはルカを尋ねるように見た。

「生物学的にも、法律的にも、たぶん倫理的にも、私は男に抱かれても、何の問題もないのよ。そういう歳の女に、ムサシさまは未だに14の小娘を相手にするようにしか、話してくれないんだから」

 ムサシは下を向き、考えた。そして頷き、言った。

「了解した。もう、ルカは一人前の人間だ。全てを隠して行ってもいいと思ったのは、俺の間違いかもしれない。ごめん」

「いいのよ。ムサシさまはその旅に、非常な危険を感じていて、実は十中八九、途中で何かが起こると思っているのね。それでも行くつもりだけど、私がずっと待っていると、嫁(い)き遅れてしまって可哀想だから、縁を切っていきたいと、まあそんなふうに思ってるわけね」

 ムサシは何も言わないが、その態度がすべてを認めている。ルカは大きく息を吸って言った。

「ざけんじゃないわよ、このいん●野郎が!あんたは私を何だと思ってるわけ?好いた男が手に入らなければ、さっさと他の男とくっつきたがると思ってるわけ?私は何よ。家事手伝い?性欲処理係?子供を産ませるための母体?私は、そのどれでもないわ。私は、ルカよ。私自身よ。私は、惚れた男が死んだら、一緒に死ぬわよ。死ねなかったら、一生その人のことだけを考えて生きていくわよ。わかってるの?あんたは、死ねって言うよりひどいことを、私に言ってるんだって」

 ムサシはじっとルカの顔を見つめていた。やがて、ムサシはルカの手、膝の上に置いた手に、目を落とした。ルカはほとんど姿勢を変えていないが、その手は烈しく震えている。ムサシは、ふ、と微笑んだ。

「ルカには、いつも感心させられる。そんな下品な言葉を言えるとは知らなかった」

「一度言ってみたかったのよ。けっこう、気持ちよかったわ」

「それでも、俺はおまえに頼みたい。縁を切ることは出来ないかな」

「ネヴァ。決して。絶対」

「おまえのことだけが重荷なんだ。それだけが俺に、行かせまいとするんだ」

「そんなに危険なのに、行かなくちゃならないの?」

「ああ」

 ムサシは言った。ルカは立ち上がり、ムサシに近づいた。そして、机の上に置いてあるコーヒーを取って飲んだ。

「悪いけど、私は絶対、重荷になるのを辞退しないわ。あなたの首にぶら下がって、いつもぶつぶつ愚痴を言ってやる。それを認めなけりゃ、行かせてはあげないわ」

「どうしても?」

「どうしても。そうでもしないと、ムサシさまはきっと死に急いだりするだろうからね」

「...わかった。おまえに待っていてもらう」

 ルカはそれを聞き、首を傾げて、ムサシの方を見た。

「それだけじゃ、不十分だな」

「不十分?」

 ルカはぴょんと飛んで、ムサシの正面に来た。肘掛に乗せたムサシの腕に手をつき、ムサシの顔を覗き込む。ムサシは身を引きながら、ルカの目を見た。ルカの目は、きらきらと光っている。

「私を抱いて。抱いてから行くなら、許してあげる」

 ムサシは心臓が跳ね上がるのを感じた。が、強いてそれを押さえて、落ち着いた声で返した。

「そんなことは出来ない。帰ってこられるかどうか、わからないんだから」

「帰ってくるつもりはあるんでしょ」

「まあ、何があるかわからないから、指切りは出来ないけどね」

「別に、言質なんて求めちゃいない。あなたが帰ってくるつもりでいるならそれで十分だから」

 さらに言い募ろうとしたムサシの唇が、柔らかく、甘いもので包まれた。しばらく感触を楽しんだそれは、離れて言葉を囁いた。

「明日の昼は、私は一人だけ。うちに来て。来なかったら、ついて行っちゃうぞ」

 ムサシは観念した。そしてルカはムサシに抱かれた。それは最高の経験であり、ルカの心を隙間なく満たしたのだが。

 その時から、前にも増して、ルカはムサシを身近に感じることになった。善きにつけ、悪しきにつけ。


 ルカは情緒が安定しないのを感じる。どこかでムサシがバランスを崩そうとしている。天秤秤の目盛りを、常にぴたりと0の位置に合わせていないと気がすまないムサシが。大きなうねりの中に、ムサシが呑み込まれようとしている。

 ルカは中原中也の詩集を本棚から抜き出した。ぱらぱらと開き、目に止まった歌を読んだ。


1 夏の朝

かなしい心に夜が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!

青い瞳は動かなかつた、
  世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』は過ぎつつあつた、
  あゝ、遐《とほ》い遐いい話。

青い瞳は動かなかつた、
  ――いまは動いてゐるかもしれない……
青い瞳は動かなかつた、
  いたいたしくて美しかつた!

私はいまは此処《ここ》にゐる、黄色い灯影に。
  あれからどうなつたのかしらない……
あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
  碧《あを》い、噴き出す蒸気のやうに。

2 冬の朝

それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧|罩《こ》めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。
あとには残酷な砂礫《されき》だの、雑草だの
頬を裂《き》るやうな寒さが残つた。
――こんな残酷な空寞《くうばく》たる朝にも猶《なほ》
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其処《そこ》でもまた
笑ひを沢山|湛《たた》へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。
陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏《とり》は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁《し》まず、
人々は家に帰つて食卓についた。
     (飛行機に残つたのは僕、
      バットの空箱《から》を蹴つてみる)


 読んだのは、「青い瞳」。中也はいつも、人々が忘れ去るような日常の風景を大事に溜め込んでおき、それをそっと開いて見せてくれる。

「どこにいても、何をしていても、うねりはあるよね」

 ルカは、やや平静さを取り戻した。

「大丈夫。ムサシは絶対に帰ってくる。帰ってくるって言ってたんだから」

 ルカは身支度を整え、仕上げにピンクのルージュを塗った。ぴしっとスーツに身を固め、会社に出かけるルカ。

「行って来まーす」

 私はこの町で、ムサシを待つ。それが、私の望みだから。晴れ渡る夏の空の下、ルカは駅への道を急ぐ。日々を送り、いつか愛しい人が帰る日を迎えるために。


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