微量毒素

赤の魔歌 〜ハチのムサシ〜 p.3

魔歌 赤の魔歌・目次 back next

★ 待つ者(2)

【ガーベラ

 朝起きた途端に、強い吐き気がガーベラを襲った。これは身体から来るものじゃない。私の心から来るものだ。ガーベラは呟いた。

「何かが起こる。それが今日なの?」

 ガーベラがコウガと別れて3年が経つ。その間、色々なことがあった。心読みは後々まで色々なビジョンをガーベラに見せることになった。そのせいでうまくいったこともあれば、失敗したこともあったが、ようやく安定してきた。そして今朝、今までにないほどの予兆がガーベラを訪れたのだ。

「何があるにせよ、受け入れざるを得ないわよね」

 ガーベラは呟きながら、鏡に向かった。ガーベラは今、駅ビルにある大きなデパートで働いている。よろずの相談事を受け付ける、通称、受付嬢である。ガーベラは気配りと対応の速さと的確さでこの部署に所属している。ずっと笑顔を保ち、様々な相談事を持ち込んでくる人の悩みを取り除いてあげるというこの仕事を、ガーベラは嫌いではない。人によっては耐えられないかもしれないが、ガーベラには合っているようだった。受付は駅から入る地下にある。ガーベラは人口灯の下で自然に見えるよう、オレンジ色の口紅をひいた。鏡に向かってにっと笑い、頷いて立ち上がる。ガーベラは、都市のマンションに住んでいる。広くも狭くもなく、家賃も妥当だと思っている。ここから10分で、勤務場所のデパートに行ける。臙脂のパンプスに足を滑り込ませ、ガーベラは部屋を出た。

 出勤途中、駅の雑踏で、前の女性をよけた途端に、同じようによけてガーベラと同じがわに出てきた男とぶつかった。さほど急いでいたわけではなかったが、見事なカウンターとなってしまい、ガーベラは尻餅をついてしまった。

「きゃっ」

 あまりに見事にヒットしたので、ガーベラはおかしくなって笑ってしまった。

「ごめんなさい。大丈夫ですか」

 ぶつかった男が手を差し出してきた。

「ありがとう。ごめんなさい、ちょっとタイミングが悪かったみたいで」

 ガーベラは男の手を取り、顔を見た瞬間、この男が「運命の男」だということがわかった。限りなく好ましい外見と態度。もちろん、心もいちばんガーベラに合っているのだろう。ガーベラは途轍もなく、この男が欲しくなった。男も魂を奪われたようにガーベラに見入っている。無限とも思える時間、二人は見つめあった。男は唇を動かしかけた。

(ほら、こうして男は私の電話を聞き、私は男の連絡先を聞く。今日のうちに男から電話が入って、私は美しく装って、弾んだ心で会いに行く。すぐに私は男と寝て、すぐに結婚の約束をする。結婚式は盛大に行われ、私たちは北の国々を旅する。そして女の子が生まれ、男の子が生まれ、もう一人男の子が生まれる。みんな元気にすくすくと育ち、やがてそれぞれ一生を託す相手と出会い、喜びのうちに家を出て行く。私とこの男は、幸せに家を守り、時に帰る子供たちと、孫たちと、楽しい時を過ごすことになるだろう。男は先にこの世を去り、私は長女と一緒に暮らして、ある日ひっそりとこの世を去るだろう)

 この予知は疑いもなく真実を告げていた。しかし、それにも関わらず、ガーベラは男の手を離した。

「ありがとう。でも、大丈夫です」

 ガーベラは自分で立ち上がり、腰の汚れを払った。男は何か言おうとしているが、言い出しかねている。ガーベラは、会釈して通り過ぎる。男は手を伸ばし、ガーベラに触れようとするが、ガーベラは距離を置き、男の指を届かせず、そのまま歩き去る。

(そう、あの男が運命の男だとしても、私がその運命に従う必要なんてない)

 男が追ってくる気配がするが、あの男は決して自分に追いつけまい。

(運命がなんだかんだと言ってきても、それに従う必要なんてどこにもない。運命は運命で好きにやっていればいい。運命を知って、その上でそれに囚われず、自分で道を決めるのが私のやるべきことだ。そうでなければ、運命を知る意味なんてないじゃない)

 ガーベラはヒールの音を響かせて、地下道を進む。追って来ていた男の気配ももうない。魂が消えるほどの喪失感を感じながら、ガーベラの心は歓喜に満ち溢れていた。

「私は、まだコウガが好きなんだ...」

 再び、烈しい嘔吐感。ガーベラは地下道の隅にしゃがみこむ。

「まだ、終わりじゃないの?...」

 ガーベラは不安な目を彷徨わせた。ない。今はまだ、何もない。とりあえずは。ガーベラは立ち上がった。そして、慎重に勤め先への道をたどり始めた。

【マヤ

「駄目じゃない、あんなところに駐車違反なんてしたら。皆が迷惑するでしょう?」

 マヤは目の前にいる、違反の抗議をしに来た若い男を見上げるように睨む。男はどぎまぎしている。マヤはカウンターの上に身を乗り出した。大きな目を見開いて、男の顔を覗き込む。

「その上、他にもいっぱい駐車してる車がいたんだから見逃せ、なんておっしゃるの?」

 男は横を向いて、何かぶつぶつ呟いた。

「こちらをお向きになって。いいですか、他の誰が何をしていても、あなたが駐車違反をされていた事実は変わりませんでしょう?男なら、ちゃんとやったことの後始末はなさっていただきたいわ。せっかくのいい男が台無しですわよ」

 あっという間に男は言い負かされて、泣き笑いのような顔をして出て行った。

「大変だね」

 先輩の婦警が声をかけた。

「あら、ありがとうございます。でも、若い方たちは、まだ素直でいらっしゃるから、お相手しやすいです。お年を召された方のほうが、ご自分が偉いと勘違いなさっている方が多くて、お話が進まなくて困ります。もちろん、素直な方も多くて、それは嬉しいのですが...」

「違いないね。勘違いしている年寄りは、私でも手に余るよ」

「あら、千恵子さま、そんな言い方はよろしくありませんわ。せめてご年配の方、ぐらいは言ってくださいませんと」

「まあ、考えとくよ」

 マヤは試験を受けて、婦警になったのだ。黒屋敷を出て、せっかく助けてくれたコジローの手前、前のようなことはしたくなく、かと言って何か出来ることがあるわけでもなく、病室で悩んでいる時に、担当してくれた例の刑事が、半ば冗談で警察にでも入ったらどうだと言ってくれたのだ。考えてもいなかったが、マヤは法という背景を基に、物事の善悪判断を実現していく行為の明快さに惹かれた。そして担当してくれた刑事に、色々聞いて、この道を選ぶことに決めたのだ。

「コジロー、あなたのおかげで、私は道を見つけられた。あなたも、行く道はとてもつらくて大変だろうけど、頑張って、正しい道を進んで」

 ちなみに、その時の刑事とは、今も時々会って、色々話をしている。仕事の上の相談や、相手の愚痴を聞いたりが主だが、雰囲気はなかなかいいのではないか、とマヤは思う。無意識の自分の仕草に、相手がどれほどの自制心と忍耐力を持って対峙しているかなぞ、マヤは考えてもいない。ただ、何となく可愛いな、と感じているだけだ。年齢は相手の方が10も上なのだが。

 マヤは、無骨そうに見えて繊細な気遣いの出来るこの刑事に惹かれているのだが、自分の過去を相手が知っているだけに、このまま幸せになりたいとか言うことは考えていない。時々会って、話が出来れば幸せだと思っている。男が半年も前から、公務員としては高価な指輪を買って、会うたびに持ってきては、渡しそびれていることなど、想像もしていない。マヤは、今の自分がとても気に入っていたし、幸せだった。それもこれも、あの灰色の雨が続く秋に、閉ざされた奇妙なコミュニティの中に突然現われた、大胆なくせに純粋な、トリックスタァのおかげである。

 マヤは、ふともう一度コジローに会いたいと思うことがあった。今の自分、満ち足りて、前に向かって進むことが出来る自分を、見てもらいたいな、と思うのだ。いつか、きっと。そして、きっとその時、マヤは今よりももっと幸せになっているだろう。つい、無意識に流し目をしてしまう色っぽい婦警さんは、自分自身のいるべき場所を見つけていた。

【アザミ

「アザミィ、私、今朝はすごく胸騒ぎがするんだけどォ」

「うん、小夜子さん。ぼくもだよ」

「ねえン、コジローになんかあるンじゃないン?」

「あるだろうね。コジローは自分で災厄を招き寄せちゃう人だから」

「なんとかできないのン?」

「できないよ。ぼくらはコジローじゃないんだから。でも、コジローは絶対帰ってくるって言ったから。絶対死なないって言ったから。ぼくはそれを信じてればいい」

「それでいいのォ?」

「いいんだよ。それが、ぼくの分だ。待つことを決めた時から、ぼくは自分に、それしか出来ないことを認めたんだ。ぼくはコジローを信じるよ」

「切ないのねェ。お酒でも飲んで気を紛らそッかァ」

 アザミは苦笑して言った。

「小夜子さん、何度も言うけど、ぼくはまだ未成年だって」

「だってェ。早く娘と酒を酌み交わしながら男の話をするってェのをやってみたいのよン」

「何か、お父さんみたいだね、小夜子さん」

 小夜子は思いついたように言った。

「じゃサ、じゃあサ、倉庫に行ってみない?ジュース持参でいいからさァ」

 途端にアザミの眉が曇った。

「...ごめん、小夜子さん。あそこだけは、いけない。今は、いけない」

 アザミはひどく怯えていた。アザミの手は震えて何かを求めた。その手に小夜子さんの手が被さり、次いでアザミの頭を抱いた。二人は彫像のように、そのまま動きを止めた。

【エリカ

 エリカは、とても悲しい夢を見て目を覚ました。目を開けると、カーテン越しに明るさが感じられる。目覚まし時計の鳴る時間よりはずいぶん早いが、夜はもう明けている。耳に何かが触れたような気がして払うと、手が濡れた。

「よだれ?」

 口を拭うが、どうも違う。耳から濡れているところを探っていくと、目尻に到達した。

「涙か」

 内容はもう覚えていないが、起きる直前に悲しい夢を見ていた記憶がある。

「そのせいだ」

 エリカは納得した。次いで、エリカは自分の心臓が異常に強く脈打っているのに気づいた。

「これは、動悸というものだな」

 エリカは、これまでこんな動悸は経験がなかった。エリカはちりっと不安を感じた。

「まさか、イガに何か?」

 エリカは一瞬宙を睨み、首を振った。

「あいつは帰ってくると言った。だから、心配はする必要はない」

 エリカはベッドを降りた。真っ赤なTシャツにショーツ一枚で、そのまま廊下に出、歩いて行く。エリカは左に折れ、洗面台の前を通り過ぎて、着ていたものを脱いだ。それをランドリーバッグに放り込み、風呂場に入った。洗い場に立ったエリカは、洗面器を蛇口の下に置き、水を出した。迸る水に手をさらし、呟いた。

「冷たいな」

 水が洗面器いっぱいに溜まると、エリカは水を出し放しにして、洗面器を持ち上げ、肩からかけた。身体が冷たさに引き締まる。エリカはまた洗面器を蛇口の下に置いた。エリカの目は真剣である。10回ほど水垢離を取ったあと、エリカは風呂場を出て、バスタオルで身体を拭き、身体に巻きつけた。濡れた髪用にもう一枚タオルを取って、水分を吸わせながら廊下に出ると、台所から母親が顔を出した。

「どうしたの、エリカ。朝シャンなんて、珍しいじゃない。デート?」

 エリカは首を振った。母親は近づいてきて、剥き出しのエリカの肩に手をかけた。

「冷たい...あんた、水を浴びてたの?」

「夢見が悪くて」

「水垢離?夢見が悪くて。我が子ながら、物好きな子ね。冷たくないの?」

「冷たい。早く服を着たい」

「ああ、とっとと行きなさい。まだ時間は大丈夫だけど、風邪を引くわよ」

 エリカは頷き、部屋に向かった。母親は首を振った。

「あの子、なんだかどんどん無愛想になっていくみたい。女になったんだから、艶っぽくなると思ったのに。イガさんのせいなのかねえ。うまくいってるのかしら、エリカとイガさんは」


 エリカは、膝丈だがスリットの深い、濃紺のスーツを着た。シャツは鮮やかな黄色である。ダイニングに行き、トーストと目玉焼きを食べ、牛乳を飲む。エリカは食器を流しに運んで、椅子に置いてあるバッグを取った。エリカは母親に声をかける。

「行ってきます」

 エリカは必要以上に勢いよくドアを開けた。そして、濃紺のヒールを高らかに響かせながら歩き出し、風を切るように進んでいった。抗いがたい運命の壁を、切り開こうとでもするかのように。


魔歌 赤の魔歌・目次 back next

微量毒素