微量毒素

赤の魔歌 〜ハチのムサシ〜 p.5

魔歌 赤の魔歌・目次 back next

★ 魔歌の始まり(1)

 イガはトラックのハンドルを切りながら、ムサシに話しかけた。ムサシはさっきから一言も喋ろうとしない。

「ずいぶんと呑気そうじゃないか。やばそうな匂いがぷんぷんするぜ。わかってんだろうけどさ。」

「見た目ほど呑気なわけじゃない。色々考えてるんだよ」

「今さら、何を考えてるんだよ。ここまで来たら、頭じゃなくて腕を使わなくちゃならないんじゃないのか?」

 ムサシは憂鬱そうにイガを見やった。

「ここまで来るつもりはなかったんだがな。もっと手前に柵が立っていると思ってたんだ。いきなり崖っぷちだなんてな」

「そうは言っても、来ちまったもんはしょうがないだろう。それとも、ここで退けば済ませられるのかな?」

「無理だろうね」

「だったら、いい顔をして崖から飛び降りてみようじゃないか。すぐに地面があるのかもしれないし、温泉が湧いているのかもしれない」

 ムサシは笑った。

「そりゃそうだな。行ってみなけりゃわからない、か」

 ムサシは黙った。イガも黙ってトラックを走らせている。

「...俺が考えていたのは、何でこんなことになるか、ってことだ。俺は自分が異常だとか、問題があるとかはまったく考えていない。ただ、自分の思うように生きてみたいだけなんだ。それを何が邪魔しようとしているかってことだ」

「やっぱり、いろいろと困るんじゃないの?皆が好き勝手始めるとさ」

「でも、それは人間が本来持っている自由を損なうことになるんじゃないのか?確かに管理は大変になるだろうが、それは重要度から言えば二の次と考えていいんじゃないのか?」

「確かにね」

「人間管理の効率化のために、自由が阻害されていいんだろうか。それとも効率化した分で、何かをした方が、人間の幸福になるんだろうか」

「まあ、人それぞれだろうねえ」

「そう、その人それぞれって奴を許容しないのが今の社会だ。今の学校で、上から押し付ける授業に興味を持たないものは、学習不適合児として、教育ルートから外してしまう。ここから外れることは、社会に出る時まで、特別なルートに乗せることになってしまう。一方で、そういう教育で優等生でいる者たちが、浮浪者を攻撃し、殺してしまい、しかもゴミ掃除をしたくらいの気持ちしか持っていない。これが歪んでいなくて何だってんだ?罪の意識すら持とうとしない人間たちを増やすのが、今の社会の体制だ。本当にこれでいいんだろうか」

「でも、そういうのは一部じゃないの?」

「一部だろうが全部だろうが、あることには変わりないだろう」

「そりゃそうだが...極論過ぎないか?」

「いや、俺はそれがあることを否定しようとしてるわけじゃない。はるか古代から、いじめというのはあった訳だし、自分と利害の一致しないものを攻撃するのは、人間としての本分にあると思う。動物の本能にもあるしな。問題は、そこに確かに悪意があるのに、それを認めようとしない、今の社会の在り方だ。覚えてるだろ、キスゲさんと、そのまわりの気配。何か、よくないものが、俺たちの世界にはあるんだよ。俺にとっては、って意味だけどな。でも、誰もそんなものがないように振る舞っている。それが嫌なんだよ」

「確かに、何かに追い詰められているような感じはあるよな」

「それは社会の問題でも、個人の問題でもないんだ。奇妙な話だけど、それは複合化した願いから顕れてくる。ひとつひとつの願いは、悪いものじゃなかったとしても、複合化していくことで、醜い化けものを生み出すことになる。一人の女の子が、たった一輪のバラの花を欲しがるだけで、何千人もの人を殺すことになったりするんだ。それは、願いがいくつも縒り合わされていくうちに、本当の願いとかけ離れたものになっていってしまうためだ。バラが欲しいという気持ちと、その少女に心を打ち明けたいという気持ちと、自分のふるさとを大事にしたいという気持ちと、家族を思う気持ち。そういうものが、いつか大勢の人間を殺すという結論を導き出してしまう。それは、どこかで道を間違っているんだ。俺はそういうものを見つけて、破壊したかっただけなんだ」


 ムサシは黙り込んだ。イガは車を運転している。

「あそこの交差点を、左に行くんだよな」

「ああ」

 イガは交差点で左折した。そして、次第に人の手が入らない気配を見せ始めた景色を眺めながら言った。

「いつからそんなことを考え始めたんだ。」

「中学生のころだ。」

「あのころから、もうそんなことを考えてたのかよ。」

「俺が最初に疑問を持ち始めたのは、中学生のころだ。教育という形で、上からどんどん押し付けられてきたものをこなさないと、人間としてまともでなくなるようなことを言われてるだろ。最初は、大人になれば自分の思うように生きられるんだと思っていたが、注意してみてみると、どうもそうじゃないらしいということがわかった。それからだよ。自分の宿題を抱えたのは。」

「ああ、そう言えば、そんなことをおまえから聞いたな。ずっと前に。」

「同じメニューをこなしてきたものが作る社会というものは、そのメニューをベースに形作られるだろ。その社会の中で、メニューにないことをすれば、やはりまともじゃないと言われるんだ。つまり、今は勉強して、大人になったら好きなことをしなさい、という親の言葉は、結局、まったくの空手形になるということだ。そもそも、好きなことをして文句の出ない世界などないんだよ。」

「そりゃ、確かにそうかも知れんな...好きなことをして生きている大人なんていやしない。おまえ、目的なしでうろつきまわることで、何かを炙り出そうとしてたんだな。」

 ムサシは頷いた。

「ああ、たぶん、な。でも、実際のところ、俺はそんなことはないって思いたかったんだ。そんなのは、俺の考え過ぎだってね。しかし、な。」

「確かにあるぜ。その障壁みたいなもんはな。」

「おまえも感じてるんだな。俺は、そのエッジがどのあたりなのかを知りたかったんだ。自分がやりたいことをして、誰にも文句を言われない範囲がな。でも、もうこの社会は、ほとんど固まってきている。俺が思ったより、その範囲はずっと狭かったようだ。そのエッジの監視人たちが、俺たちを今、素晴らしいどこかへ招待してくれているということだ。じきに、俺たちはとんでもないものを見ることになるだろう。」

「でも、まさか...」

「それもあるさ、きっと。事故もあれば、家出人もある。言い訳なんて、いくらでも作れるし、メニューの中の普通の人間たちは、それ以外の事実なんて信じたくないのさ。信じたくないものは、信じなくてもいいんだよ。ここは自由の世界だからな。」

「おれ、普通の人間がいいなー。」

「降りるか?おまえがおりても、俺はいいよ。」

「せめておまえが美少女だったら、もう少し覚悟の決め甲斐ってもんもあったのにな。言ったろ。一緒に行くって。」

「ど間抜けが...」

「ど阿呆に言われたくないね。」

 二人は凄惨な笑みを浮かべた。

「おい」

 イガが顎をしゃくった。ムサシは前を見る。荒野の中、忘れられたように立っているビルが見えてきたのだ。


 イガは建物の手前で車を止めた。

「話だと、このスロープを登って建物の中に入って、トラックごと置いてこいということだが」

 ムサシは言った。イガは答えた。

「何か、やな気配があるぜ。俺、この中には入りたくないな...」

「俺もそう思う。ここに連れ込んで、何をするつもりだろう」

「わからんが、きっとよくないことだよな」

「うむ。きっとよくないことだ」

 ムサシは同意した。そして、きっとスロープの上を睨んだ。イガは、背後を見ている。イガはムサシに囁いた。

「何か来たぞ…」

「こっちもだ」

 男たちが現れた。上から3人。後ろからも3人。ムサシが呟く。

「スリーマンセルか。教科書通りだな」

「いや、3人揃って出て来るスリーマンセルなんて聞いたことないぞ。意味ないだろう」

「おまえ、けっこう余裕あるな」

「ばかやろ、パニクってて、なんか喋ってないといられないんだよ」

「黙り込むと体が動かなくなるからな。それよりはいい」

「やっぱり、身体を動かす必要があるわけ?」


 男たちはきれいに並んで二人の前後についた。

「ここの上にトラックを入れていただきたいんだ、君たち」

「あの、トラックはそこにありますから、後はご自分たちで入れといていただけませんか?車庫入れは苦手なんで...」

 ムサシは交渉を試みた。男は微笑んで言った。

「あいにく、私も苦手なんだ。入れて欲しい」

「ちょっとごめんなさい」

 イガが動いた。イガの押さえた男の手に、スタンガンがある。それを見咎めて、ムサシが抗議する。

「気絶したら、運転できないじゃありませんか」

 男は苦笑して言った。

「聞きしに勝る度胸だな。仕方ない、強制執行にかかろう」

「いったい誰に...」

 ムサシは言いかけたところで突き飛ばされた。ムサシは危うく転びかけて向き直った。

「おい、イガ、危ないじゃ...」

 目の前を白刃が過ぎる。

「うわっとっと」

 喋っていた男が、日本刀を構えている。地摺り正眼だ。腰も据わっており、美しい構えだ。

「こりゃ、やばいな」

 ムサシは呟く。男は地面を流れるように運足し、ムサシに迫る。とりあえず、ムサシは下がるしかない。男は確実にムサシをスロープに追い詰めている。その背後で、イガが飛び回っているのが見える。イガは叫んでいる。

「突然こういう展開?こういうのってあり?」

 イガはスタンガンを持った一人目の腹にこぶしを打ち込んで悶絶させ、その男を飛び越えながら二人目の頭を蹴り飛ばす。男は脳震盪を起こしたのか、ふらふらと崩れ落ちる。着地したイガの背後に3人目が迫る。男は両手に短刀を持っている。一気に3メートルの間合いを詰め、打ち込む。イガは短刀を腕で受けた。

「イガ?」

 イガの手は短刀を受け、それを支えている。イガは短刀を引き外し、両手をハの字に開いて男に正対した。

「君は自分の心配をしたまえ」

 ムサシは剣をからくも避けながら、人数のカウントをし、がっかりした。

「あと二人もいるじゃん...」

 その途端、首の後ろにひやっとした気配を感じたので、慌ててひっくり返ると、その上を刀が音をたてて行き過ぎた。

「危ないっての!」

 ムサシはそのまま後転倒立の要領で、後ろにいた男を蹴り飛ばした。男は一瞬ふらつく。その隙に立ち上がったムサシは右ひざを蹴り飛ばす。

「えい、関節蹴り!」

 男はきりきり舞いして倒れた。念のため、頭をステップインで蹴り飛ばすと、男は動かなくなった。ムサシは最初の男の剣を避けて、倒れている男の左に回りこみ、刀を拝借した。ずしりと重い。真剣である。ムサシは正眼に構え、男に向き直った。

「ほう...」

 男の口から感嘆の言葉が漏れた。

「いい構えだな」

「感心してくれるんなら、見逃してくれない?」

「もちろん、だめだ」

「まったく...」

 ムサシは剣を振り上げながら打ち込んだ。男はそれを受け、にやりと笑う。ムサシは男の腹を蹴った。男は刀を引き外しながら下がる。ムサシは蹴った足をそのまま踏み込みにして、男を追った。男が下がるスピードより早い。

「バカなっ」

 男の顔に驚愕が走る。蹴りに見せて、初めから踏み込みのつもりだったのだ。ムサシは峰を返し、真正面から打ち込んだ。さがる姿勢でいた男は十分に受けきれない。ムサシの剣は、男を完全に捕らえた。ムサシは剣を前に伸ばしきった残心の構えでいる。男は打ち倒され、動く気配もない。ムサシは一気に6メートルを飛んだのだ。


魔歌 赤の魔歌・目次 back next

微量毒素