赤の魔歌 〜ハチのムサシ〜 p.7
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1 | ユカル、イガを誘い込む |
2 | 眠り姫は目覚めて何をするか |
★ ユカル、イガを誘い込む |
「くそ、どっちに行きゃ出られるんだ?」 イガが走りながら悪態をつく。 「まったく、わからん。何だ、この建物は。迷路か?」 「こんな馬鹿な設計をするから、見捨てられたんだろう。廃墟になるのもわかるわ」 「とにかく、出ないと袋のねずみだ。袋に入ったねずみがどうなるか知ってるか?」 「知らん。知りたくもない気がする」 「沈められんだよ、水に」 「あー、聞きたくなかった」 「埒があかん。分かれるぞ」 「御意」 二人は、分かれて出口を探し始めた。 「くそ、行き止まりか」 ムサシはエレベータを見つける。スイッチを押すが、反応しない。どうやら、生きてはいないようだ。 「エレベータのそばには、非常階段があるもんだが」 角を曲がったところに扉があったが、ノブのところが針金でグルグル巻きにされており、到底短時間では開けられそうにない。針金は新しい。 「くそ。やっぱり、ここを棺おけにする腹か?」 ムサシは壁を叩き、また走り出した。 |
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「金のしずく 降る降るまわりに 銀のしずく 降る降る回りに」 ユカルは目を瞑り、大事な歌を口ずさむ。楽園を去ってからも、これだけは失くせなかった歌。ユカルは兄に向けて、キスゲに向けて、この歌を送る。死に行くもの、生まれ出るものすべてにこの歌を届ける。ユカル自身は気づいていないが、世界にこの歌を送る時、ユカルはいつも耐えかねる苦痛に耐えているような表情を浮かべている。この歌はユカルにとって死よりもつらい運命を象徴しているのだが、それでもユカルはこの歌を捨てることが出来ないのだ。 遠くで、走り回る足音がしている。二人の、若い男。十分な鍛錬をしていることがわかる足音。その足音を聞いているだけで、ユカルの闘争心がかきたてられる。戦いを告げる太鼓の音のように。タムタム、タムタムと。 「久しぶりに、たっぷりと楽しめそうだわ...」 ユカルは目を瞑ったまま、したたるように艶麗で、陰惨な笑顔を浮かべる。獲物は追い込まれた。後は、狩るだけ。これは私のいつもの仕事。これが、私のやるべき仕事。太鼓の音は近づいてくる。そして、突然止まった。 |
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建物を一回りしたらしい。ムサシはイガが走ってくる姿を見た。イガも気がつき、声をかけてきた。 「だめ、だな。その様子だと」 「出入り口は針金で厳重に封鎖されている。さっき上ってきたところが閉じられたら、出口がないようにしてあるな」 「飛び降りようにも、ここは元工場らしい。2階の窓から地面まで十数メートルはある。無傷じゃあ、降りられないな」 「たぶん、外にも何かが待ってるだろう。怪我をしたら意味がないな」 「ロープ代わりに使えるようなものを捜そう。もっとも、この敵はそんな余地を残してくれていそうもないけどな」 「まあ、上手の手から水が漏れると言う諺もある。自由な発想で行こうじゃないか、イガ君」 「それしかないよな、俺たちには。じゃあ、部屋を当たろう」 イガは手近の部屋のドアを開けた。何もない。次の部屋のドアを開ける。何もない。 「イガ、相手は何でこんなところに閉じ込めたんだろうな。やりようはいくらでもあるだろうに」 「さあな。おっと」 食堂だろうか、会議室だろうか、中にテーブルだの何だのが残っている。 「いろいろあるぞ。ちょっと捜してみる」 イガが部屋に走りこんだ途端、その背後でドアが閉じられた。イガは瞬時に振り返り、ドアの横に立っている人影を認めた。 |
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「ようこそ、わたしたちのパーティへ」 ユカルはからかうようにイガに声をかけた。光沢のあるたっぷりした薄いグレイのブラウスに、濃いグレイの膝丈のタイトスカートで、腕を組んで立っている。 「おお、きれいなお姉さんだ...」 「あら、暗いのに。目がいいのね」 ユカルは軽く腕を振った。イガは何かが飛んでくる気配を感じ、飛びのいたが、危うくナイフに切り裂かれるところだった。軽く投げたようだが、避けるのがやっとのスピードだ。イガを掠めたナイフは、数メートルは離れた後ろの壁に刺さる。 「へえ。これはよけられるんだ」 ユカルは興をそそられたように言った。 「これで動けなくなるようなら、あっさりと済ませてあげるつもりだったのに」 「おお、きれいで危ないお姉さんだ...」 ユカルは壁から離れ、イガに近づいてきた。挑発するように身体を揺らしているが、そのどこにも隙がない。イガは相手の非凡さを感じ取って戦慄した。 「坊や、おねえさんとあそびましょ...」 「ああ、悪いけど、田舎にフィアンセを残してきてるんで...」 近づきながら、ゆっくりとユカルは左腕をイガに向けて上げた。右手で二の腕の辺りを摘まむような仕草をする。イガは危険を感じ、弦の音がするより早く、足でテーブルを蹴り上げ、蹴り上げた状態で器用に止めた。鋭い音がして、矢がテーブルの天板を突き抜けて刺さり、震えている。 「何じゃこりゃ!」 「おもちゃよ、おもちゃ。大人のおもちゃ」 ユカルは左腕をイガのほうに見せた。腕に小さなボウガンがセットされている。 「なんて危険な大人のおもちゃなんだ...」 イガはぶつぶつと言った。ユカルは次の矢を装填しながら近づいてくる。イガはもちろん、付け込む隙を捜しているが、運ぶ足一歩一歩のどこにも付け込めるような隙はない。イガの視線を感じて、ユカルは艶やかに微笑んだ。 「いいわね、その視線。ぞくぞくするわ」 「げ。やば...」 ユカルは無造作にも見える足取りで近づいてくる。イガはおたおたと後ろに下がる。イガの手が壁に触れた。イガは慌ててさぐるが、もう後ろはない。 「さあ、坊や。もう逃げられないわよ。どうするの?」 ユカルは艶然と微笑む。 「あの、お姉さん?」 イガは身体を斜めにして、ユカルのほうを透かすように見る。ユカルはそれに合わせて、近づく姿勢を調整し、左を心持ち、前に出すようにして、歩みを止めた。 「なあに?大丈夫、なるべく痛くないようにしてあげるから」 「いや、その、ね」 イガは言いながら、にやりと笑った。イガの手が振り上げられ、ユカルは優雅に身体を少しひねり、その身体のすぐ横を、白い光芒が飛び過ぎる。イガは壁に刺さっていたユカルのナイフを探り当て、それを投げたのだ。しかし、ユカルはそれをも予測していた。 「あら、残念ね。え?」 ユカルはボウガンに目をやった。 「飛び道具を持ってるときは、相手に近づきすぎるといいことはありませんよ」 イガの投げたナイフはボウガンの弦を切断していた。苦笑したユカルは固定ベルトを外し、手首をしならせてミニ・ボウガンを投げ捨てる。 「んー、わかってんだけど、あのサイズだとある程度近づかないと貫通できないのよ」 「貫通できなくても、おれは全然問題ないと思うんですけどね...」 「ま、あれはおもちゃだからいいの。坊や、じゃあ本格的にいくわよ」 「あ、待って、まだ心の準備が...」 |
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ユカルは、優美さは崩さないまま、目にもとまらぬスピードでイガに迫る。身体が一瞬翻ると同時に光芒が弧を描いた。イガはそれをかいくぐり、ユカルと位置を変えていた。 「ちょっと違うな、今までのとは」 「ちょっとだけ?」 「いえいえ、言葉を間違えました。レベルが違いますね」 ユカルはくすっと笑った。 「でもあなたも思ったよりやるみたいね。これじゃあ、本気でお相手しなくちゃ」 「いや、そんなにしていただかなくてもけっこうですよ。せいぜいちょっとした遊びの相手と思っていただければ...」 「あーら、ご謙遜ね」 ユカルは右手を引き絞るようにして構え、また音もなく凄まじいスピードでイガに迫る。右手を中心に円弧を描くように光が走り、イガは後ろにすさり、それを避ける。と同時に、ユカルの左手が回り、同様に光を走らせる。光はイガの腹を掠め、服を切り裂いた。 「ああ、お気に入りなのに...」 再び位置を変えた二人は相対峙する。ユカルは目を細め、軽く首を振った。 「すごいわ、坊や。今までにないくらい刺激的。私、もう大サービスしちゃうわ」 「あの、あまり経験がないんで、これくらいでけっこうですから...でも、お得意な技はわかりましたよ。サイ、ですね」 「それまで見切られちゃうなんて...経験がないなんてうそでしょ。このいけず」 みたび、ユカルの手から光芒が走る。殺到する光芒から辛くも身をかわしつつ、イガは体を入れ替える。 「厄介だな、サイは。なまじな刃物じゃ折られちまうし。ただ、強いていえばリーチが短いのが付け込む隙かな...」 |
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ユカルは声を立てて笑った。笑い終えてイガを見るユカルの眼は、今までとはまったく違う光を放った。 「いいわよ、坊や。付けこめるもんなら付け込んでみなさい。存分にお相手したげるわ」 「遠慮するって言ってんのに...お姉さんが漬け込むなら奈良漬かなんかの方が好みなんだけどな...まあ、しゃーないな。じゃ、あたしはこれでお相手させていただきます」 イガは腰の後ろに手を回し、両側から黒い棒のようなものを取り出した。棒に持ち手が付き、それを握っている。 「トンファか。面白いものを使うのね。けっこうメジャーだけど」 「そうなんですよ。アメリカじゃ、警官の警棒として正式採用されているし」 「でもねえ。素人に持たせて効果のある武器っていうのは、いろいろと限界も多いんじゃないの? 大丈夫?」 「なんとも言えませんな、そこのところは。とりあえず試してみないとね」 「ずいぶんと偉そう。自信があるのね。お姉さんのテクニックとどっちが上か、試してみる?」 「こうなっちゃうと、もうどうしようもないすね。よろしくお願いしゃーす」 イガは言葉が終わらないうちに飛び出す。ユカルの目が細まる。体を開きつつ、左のサイを回し、イガの背後を襲う。イガは背に回したトンファで打撃を受け止めている。と、次の一瞬に右回転しながらユカルの足をトンファで払う。ユカルは右手でイガの頭を押さえ、ふわりとイガの頭上を越える。その着地点をイガの足がさらに払うが、ユカルは空中で足を広げ、イガの足が通り過ぎた後に降りる。イガはクルリと回って向き直る。ユカルは足を前に揃えてすっと立ち上がる。腰に手を当て、首をかしげて"おかしいな?"というような顔をした。 「あなた、本当にやるわね」 「感心していただけるのなら、それに免じてここを出していただけないでしょうか...」 「それとこれとは話が別よ。さあ、もっと楽しみましょう」 「もうかなり堪能してんだけどな...」 ユカルの手ではサイがかなりのスピードでクルリ、クルリと回されている。前触れもなく、ふたたびユカルの攻撃が始まった。 |
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★ 眠り姫は目覚めて何をするか |
静かで少し薄暗い中で、キスゲは意識を取り戻した。回りは何かの影が連なり、林のよう。 《そう、わたしは夢を見てたんだ...しっとりと湿った涼しい林の中を、柔らかい苔を足の裏に感じながら歩いていた...》 キスゲはやはり眠いような気がする。 《じゅうぶん寝たようだけど...どうしてこんなに眠いのかしら...》 キスゲは記憶をたどろうとする。 《小学校のころ...病気で休んだ日みたい...でも、病気じゃない...今の私は健康体で...》 キスゲの頭の後ろ当たりがズキンと痛む。 《あれは...プラタナスの声?...》 岩と水。きれいな層理面。化石でも出そうだわ。 "死ぬなよ、キスゲ、死んでも死ぬな。"《むちゃ言ってるわ》"急いで!"切迫した声。《これは...ユカルの声...》キスゲは甘酸っぱいような気持ちを感じた。《来てくれてたんだ...私のために...》私のために? キスゲの目の焦点が急速に合い、林のように見えていた影が、点滴やさまざまな医療用の器具であるということがわかった。 《今はいつ? わたしはいったいどれくらい眠っていたの?》 自分では起き上がったつもりだったが、身体がかすかに揺れただけだった。そのかすかな揺れは、点滴のチューブをゆすり、かすかな林の中のようなざわめきを病室に広がらせていった。 《だめ。急がないと...》 キスゲはプラタナスの姿を探した。首を上げようとしたが、首は全く言うことを聞いてくれない。目だけを動かして見たが、けっきょく見つけられなかった。これだけで全身に重い疲れが降りてきて、キスゲはふたたび眠りに引き込まれていった。 《わたしは考えなくちゃ...もっともっと...そしていちばんいい道を見つけなきゃ...もっとよく...深く...深く考えて...》 キスゲは蒼ざめた頬を薄闇の中にさらして、浅い寝息を立て始めた。病室はあくまでひそやかに、深海のように金属やチューブの触れ合う音を広がらせていた。 |
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