微量毒素

白の魔歌 〜地吹雪〜 p.9


魔歌 back next


 兄を思い出す時、いつも頭に浮かんでくるのは、ニコニコと笑っている顔だ。兄は、およそ人を疑う、とか、憎むということをしなかった。いや、知らなかったのかもしれない。ユカルにとって、兄は太陽のような存在だった。兄のそばにいれば、それだけで安心していられたし、兄の膝の上で胡座を組んで、大人たちの話の輪の中に、入っているのが好きだった。

 両親は、兄の性質を不安がっていたが、兄を愛していたので、その性質を曲げるようなしつけは出来なかったようだ。いや、いずれは、それなりに教育するつもりだったのだろうが、あいにく、それに手をつける前に、事故で死んでしまった。兄は、大いに悲しんだが、その結果,広大な土地を受け継ぐことになった。

 兄は、人が自分の利益のために、他の人間を騙すということを理解できなかったのだろう。和人の業者が、村おこしのためと称して、兄の相続した広大な土地の、売り買いの話を持ってきたときに、村のためになるならと、相手の言い値で土地を提供することにした。相手の話では、この広大な土地にリゾート・エリアを作り、そこに観光客が集まることで、村に利益が落ちることになるという。話はもっともなように思えたし、村の発展のシミュレーションの資料も、確かに村に利益をもたらすことを裏付けていた。疑う理由はないし、村は人口が減り、このままでは存続も難しいと思われた時期だったので、受け入れやすかったのかもしれない。村に仕事があれば、村を離れたものもまた戻ってくるだろうし、新たに村に来るものもいるだろう。

 しかし、実際に開発が始まると、いろいろな現実が目の前に突きつけられてきた。仕事については、開発中は、作業員としての仕事はあるが、楽ではないし、開発が終わってしまえば、継続してある仕事の当てもない。リゾート・エリアでの従業員も、雇ってもらえる時期は、観光に向いた季節のころだけで、1年の3分の2以上は仕事がない。これでは、この仕事だけで生活していくことは出来ない。

 また、入ってきた企業は、リゾート・エリアの近くに、集落があることを好まなかった。観光客が集まって騒ぐところの近くに、一般民家があれば、何かと紛争がおきやすい。企業は、金を出して、集落を根こそぎ買い取り、なくす方向で動き出した。村のために入れた企業は、いまや村自体を滅ぼそうとし始めていた。

 ほとんどただのような値で、全てを奪い去られた兄は、それでも村のはずれに家を借りて、村の行く末を見守っていこうとした。そして、村のためになると信じていた事業が、村に何の利益ももたらさず、和人の土地のどこかにいる人間が、すべての利益を吸い上げてゆくのを見続けることになった。それどころか、吸い上げられた金で、村の土地が次々と買い荒らされ、村が荒廃してゆき、親しんできた村人たちの姿のない、美しい街が作られていく様を、見せ付けられることになった。人のいない村は、既に生きてはいない。村は、こうして完全に消滅した。

 もともと大した蓄えもなく、次第に乞食のような生活を、強いられるようになった。兄は、自分自身より、ユカルがこのような生活を強いられることを苦痛に感じていたらしい。兄は何も言わなかったが、自分のすべてを奪い取った企業に、雇ってもらおうとして、断られたらしかった。それから兄は、次第にユカルの言葉にも答えなくなっていた。目を覗き込んでも、ユカルの目を見返しては来ない。澄んだ瞳は、どこか遠くの世界を見つめつづけているようだった。時たま、意識が戻り、ユカルのことをひとしきり心配しては、またどことも知れぬ世界へ、去っていった。

 ユカルは兄と自分の二人を支えつづけなければならなかった。12歳の少女にとっては、過酷な毎日だったが、ユカル自身は、別に苦痛には思っていなかった。家族を支えるのは、あたり前だと思っていたのである。なにより、ユカルは兄を愛していた。

 ある朝、兄は死んでいた。いつものように、返事をしない兄に声をかけ、食事の支度をしていた。後ろから、声が聞こえたような気がして、ユカルは振り向いた。兄は動いていなかった。ユカルは首を振り、食事の支度を続けた。食事の支度が終わり、兄を起こしに来ると、兄はもう死んでいた。その頬は冷たく、今死んだのか、昨夜の内に死んだのか、ユカルにはわからなかった。ユカルにわかっていたのは、さっき聞こえたように思った言葉。それは、たしか、すまないと聞こえたのだ。ユカルは、死んだ兄と3日間いた後、家を出てゆき、それから帰る事はなかった。美しい街を作りつづけていた企業の事務所は、ある朝おびただしい血流が玄関の外まで流れ出て凍りついているのを、新聞配達の若者に発見された。

 社員のほとんどが遺体で見つかったので、まだ、社員が残っている時間に犯行は行われたらしいということがわかった。社員はすべて東京の会社から単身赴任で来ており、そのために発見が遅れたらしい。抵抗らしい抵抗の後がほとんどないため、襲撃は、驚くほど短時間に終了しているらしい。おそらく、状況が把握できた時には、ほとんどの者が死体になっていたようだ。


 村にいた人間は、犯人が誰かはわかっていただろうが、外部から来て、自分たちの生活を根こそぎ奪っていったものに対して、協力しようとする者はいなかった。警察も、ある日を境に姿を消した人間を、重要参考人として特定するところまで行ったが、その重要参考人の住居を訪れると、ごつい木の椅子の上で、半分凍った死体があった。その死体は、その家の世帯主のものだった。検死の結果、衰弱死のようなものだということがわかった。ずいぶん前から、正気を失っていたという話も聞いており、自然死に近いものだという結論だった。しかし、その家にいるはずの、重要参考人の姿は、まったく見つからなかった。その人間は、最初からいなかったように、完全に姿を消してしまったのだ。

 村にいた人間たちは、警察が帰ると、声を潜めて意見を確認しあった。意見は一致していた。可哀想なあの子は、パウチに連れて行かれてしまったのだ。

 村はすでに雪に蹂躙され、それ以上捜査も進めようがなかった。おおやけに言われる事はなかったが、警察内部でも、少女が生きている可能性はなく、おそらく山に逃げて、雪の下に埋まってしまっただろうという空気が強く、いつの間にか、未解決事件の仲間入りをしていた。

そしていつか、闇の世界で、まだ若い女の殺し屋が、仕事を始めていた。人間を物のように、確実に殺すやり方は、闇の世界で評価され、実績は彼女の能力を語った。噂によると、彼女は童女のような姿で、年齢も15は越えていないようだが、殺しの時にまったくためらいがなく、人間的な何かが欠如した、夢魔のような存在だということだった。噂はうわさである。しかし、その人物の通った後には、けっこうな数の死体が転がっているのは事実であり、その仕事ぶりは、噂のような存在だったとしても、けして違和感のないものであった。


 ユカルは兄の顔を記憶から呼び覚ましながら、いつも顔を背けていた。兄の顔は見られなかった。

《だってしょうがないじゃない。兄さんはあたしのお日さまだったんだもの。》

 兄が脳裏に蘇ると、ユカルはいつも、言い訳をしてしまうのだ。

《お日さまがなくなったら、後は闇に沈んじゃうのは、あたりまえじゃない。》

 それでも、見ることのできない兄の顔が、生きているうちは見たこともない悲しみに満ちているのを感じ、ユカルはそれを振り切るために、夜の町に出てゆくのだ。


魔歌 back next
home