微量毒素

魔歌:Bonus Track 〜家族の伝承〜 p.4


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1 ユウ
2 燃ゆる柴

★ ユウ

 以前は一夏に何回かは、必ず海水浴に来ていたものだが、長女が大学生、末っ子が中学生ともなると、回数も減り、今は年に一回来るか来ないかになってしまった。もっとも、姉は大学の友達とも遊びに行っているようだ。ちゃんと大学生活をエンジョイしているから感心だ。

 珍しく、全員の空き日が一致したので、今日は家族で海水浴にきた。父さんと母さんはあまり泳がない。何が楽しいのか、砂浜のパラソルの下で潮風に吹かれている。姉さんは、なかなか大胆なデザインの水着を披露していらっしゃる。あれで普通だというが、本当かな。まあ、肌を露出するのは、若いうちしか出来ないからな、などと爺むさいことを言っているが、身内でなければ目を奪われるだろう。姉はなかなかいいプロポーションをしている。身びいきかもしれないが、けっこういい感じだろう。

 ひとしきり泳いで、ぼくとユウは休んでいる。姉はまだ水をはね散らかしている。元気だねえ。思い切りコーラを流し込む。冷えたコーラは最高だが、あっという間にぬるく、気が抜けてくる。しかし、それでも、夏にはコーラが似合う。この褐色の液体は、本当に夏のために産まれたものだと思う。ユウも、コーラを飲みながら、目を細めて海のほうを見ている。ずっと、一ヶ所を見ている。ユウの視線をたどると、姉さんがいた。ユウは姉さんの姿を追っている。もっと同年輩の、ぴちぴちの女の子もいっぱいいるっていうのに。

「姉さんばかり見てるね」

 頷くユウ。

「あんな寸胴を見てるより、もっとナイスバディの子がいっぱいいるじゃないか。こういう時に目の保養をしておかないと、長い人生、やっていけないぞ」

 そういう僕自身は、女の子を見ているわけじゃない。見たい気もあるんだけど、気恥ずかしいのだ。姉さんを見ると、いつの間にか女らしくなったラインに気がついてしまい、やはりなんとなく恥ずかしい。だから、ぼくは海を見る。夏の海は水平線がずっと遠く、空と海の境界がぼやけている。冬は全てが灰色で、空と海の区別がつかない。だからぼくは秋の海が好きなんだけど、彼女でもいなけりゃ、秋の海になんて行く機会はそうそうない。残念なことだ。

 次にぼくは空を見る。夏の空はいい。冬や秋ほどきつくもなく、春ほど柔らかくもない。気持ちいい青に、くっきりと混ざらない白い雲が在る。見ているうちに、雲はどんどん流れていく。

 目を地上界に戻すと、天使たちが戯れている。子供たちだ。親は皆砂浜で、疲れて横になっている。子供たちは疲れも知らず、水に入っても、砂を浴びても怒られない非日常を満喫している。帰りの電車や車の中では、草臥れきってみんな死んだように眠りこけるのだろう。思惑もなく、性もなく、ひたすら遊び続ける子供たちが、ぼくは羨ましい。ぼくはもう、遊びそのものが目的である時代からは遠く隔たってしまったから。遊びながら、帰りの渋滞のことを考えたり、日焼けの予防を考えたり、シャワーが混まないかどうかを考えたり。子供の頃は、時折顔を上げて両親がそこにいることを確認してさえいれば、後は何も考えず、遊びに集中していられた。いったいいつから、純粋な遊びが出来なくなってしまったのだろう。


 ユウはと見れば、未だに姉さんに見とれている。シスター・コンプレックスかな、こいつ。怪しげな世界に入り込まないよう、一つ荒療治をしてあげよう。

「ユウ、立て。行くぞ」

 ユウを連れて、ぼくは姉の後ろから近づいた。姉は立ち上がり、ぼくたちのいたほうをきょろきょろ見ている。いなくなったので、不審を感じているらしい。ぼくはその姉の足を掴み、思い切り上に持ち上げた。姉は悲鳴を上げながら水しぶきをあげて海面下に消えた。満足して頷いていると、ユウが前に出て、姉の手を取り、引き上げた。姉は口と鼻から海水を噴き出しながら引き上げられた。

「こらぁ、ズク!」

 姉の剣幕は尻すぼみに消えた。ユウが姉の顔を、指で拭っているのだ。さすがのぼくも、言葉を出せなかった。優しい手つきで目の下を拭い、頬を拭って、鼻水のついた鼻の下を拭う。鼻の下を拭われて、さすがの姉もユウの手から逃れた。

「やだ、ユウ。恥ずかしいよ」

 どう見ても、初々しい恋人たちだ。ユウは心配そうに姉を見ている。姉はその視線に気付き、にっこりと笑った。

「大丈夫よ。ありがとう、ユウ」

 そして姉はぼくの方を見て言った。

「ズク、私の隙をつけるとは、君もずいぶん達者になったねえ。でもこれで済むと思うなよ」

 姉は言うなり、飛びかかってきた。これにはぼくも不意をつかれた。年頃の娘が、フライングボディアタックを仕掛けてくるとは思わないもんな、普通。ぼくは姉に乗られて、思う存分沈められた。姉の身体が離れて、ようやく空気を吸うことが出来、思い切り咳き込んだ。飲んでしまうといつも思うんだが、海の水は塩辛い!こんな濃度の塩水の中で、魚や鯨はよく生きていられるもんだ。鼻に入ると、粘膜が灼けるようだ。思い切り鼻をかんで、顔を上げると、姉が勝ち誇って立っている。


「まったく、年頃の娘が、何てことでしょ」

 ぼくが言うと、姉は顎をぐいと上げて返してきた。

「年頃の娘を押し倒すなんて、なんて男の子でしょ」

「今のは、押し倒すというより、引き倒すだろう」

「バカ。どっちにしても、倒しちゃいけないのよ。だから、相撲をすれば全勝よ」

「さぞ、ふんどしが似合うだろうねえ」

「バカ!」

 身を逸らして、あやうく蹴りを避けたが、今のは完全に入れるつもりだったな。

「年頃の娘が大またを開いて...」

「しつこいわい!」

 姉は言い放ち、これ見よがしにユウに身体を擦り付けた。

「同じ弟でも、あんたとは大違いよ。ちゃんと助け起こしてくれるんだからね、ユウは。ほんと、いい子だよね、ユウは」

 コメントできないユウのために、何か突っ込みを入れてやろうと思ってユウを見ると、面白い現象が起きていた。ユウが顔を真っ赤にして固まっており、その赤が身体中に展開していっているのだ。

「姉さん」

 ぼくがユウを指すと、姉も離れてユウを見た。顔を発生源とした赤みは、いまや臍のところまで来ている。そのまま赤みは南下を続け(なぜ南かは聞かないで)、太ももまで達し、まだどんどん下りていっている。姉が毒気を抜かれて呟いた。

「アニメではよくあるけど、本物を見たのは、これが初めてだわ...」

 ぼくも同感だった。そもそも、こんな現象はアニメ表現上しか存在しない、足がぐるぐる回って、上半身が走り去った後に、慌てて足が後を追うというような、誇張表現の一種だと思っていたのだ。現実にあるということ自体、信じられない。次はきっと足元の海水から湯気が出てくるだろう。


「だいじょうぶか?ユウ」

 ユウは頷き、赤くなった顔のまま、浜を目指して歩き出した。ううむ、シスコンを昂進させてしまったか?ぼくは後ろから、ユウの首を腕で絞めながら言った。

「まあ、お兄さん。毒喰らわば皿までだ。君は体温を引き下げた方がいい。それにはねえ」

 ぼくはユウの足を水中で払い、上から力を入れて押し込めた。ユウは海中に沈んだが、後ろから押されて、ぼくも海中に沈みこんだ。ユウの体が、水面から差し込む光でゆらゆらと揺れている。身体を捻って後ろを向くと、姉が足でぼくを押し込んでいる。もちろん、すぐにその足を掴み、引っ張った。手真似でユウを呼ぶ。ユウもすぐ寄って来て、姉のもう一方の足を掴み、思い切り引っ張った。水中に物凄いあぶくが上がり、姉が海底近くまで沈み込んだのが見えた。海面に顔を出し、横を見ると、ユウの顔がある。ぼくが親指を立てて見せると、ユウも同じポーズをして見せた。そして、二人で笑い出した。その途端、ユウの顔が消えた。おや、と思うまもなく、ぼくも足を引かれて沈んだ。ようやく顔を出すと、やはり姉が勝ち誇って立っているのが見えた。

「十年早いわ!」

「十年経ったら、姉さんは30だね」

「29じゃー」

 姉は水をかけてくる。本当に大人気ない。ユウはそれを見て笑っている。姉はそれに気付いて、今度はユウに水を掛け始めた。もちろん、ぼくも姉さんに合流する。二人がかりで水をかけられて、ユウも切れて、両手で盛大に水をはね散らかし始める。大笑いして、水掛け合戦が終わった。笑いながらふと姉の方を見ると、胸がひとふさ、水着の外に零れだしている。

「姉さん、胸」

「へ?」

 胸元を見た姉は、慌てて水に潜る。海中で直しているらしい。

「まったく、そんな水着で子供みたいにはしゃぎまわるから...」

「だって、ズクが...」

 姉は真っ赤になっている。やはり、お年頃だ。

「ま、大丈夫でしょ。近くに男もいないし、遠目にささやかなものが垣間見えたくらいで」

「攻撃したいけど、またポロリはいやだしな...まあ、いいわ。久しぶりにおおはしゃぎ出来たから」

 確かにそんな気がする。子供の頃を思い出して感慨に耽っていると、姉の悲鳴が聞こえた。

「どうしたの、胸が大きくなったと思ったら、実はくらげだった?」

「バカ!ユウよ、ユウ。溺れてる!」


 けっきょく、ユウは熱射病だということで、海の家に運び込んで、扇風機に当ててもらった。けっこう、大騒ぎの海水浴になったが、結果、楽しい行楽になったと思う。帰りの車の中では、ぼくは珍しく寝込んでしまった。いつもは車外を流れる風景を眺めるのが好きで、滅多に寝ないので、助手席を占有しているのだが。

 夢の中で、ユウが姉にしきりと何かを訴えている。口が聞けないのに、どうして訴えられるんだろうと不思議に思っていたが、姉には通じているようだ。頷いているが、その表情は哀しい色を湛えている。しきりにかきくどくユウと、じっと聞いている姉。その二人を見ているうちに、ぼくは、やっぱりユウが気を失ったのは、熱射病のせいじゃなく、姉の胸を見てしまったからだったんだな、と納得していた。そして、目を覚ますと、父が嬉しそうに声をかけてきた。

「起きてくれてたか。すごく、つまんなかったんだ。なんせ、これだから」

 父は後ろを指した。3人とも、ぐっすりと眠っていた。姉はユウを寄りかからせて、気持ちよさそうに眠っている。ぼくは何となく、ピエタを思い出した。

「夢でも見てたか。うなされてたぞ」

 父に言われて、ぼくは答えた。

「うん、見てたんだけど、全然覚えてないや。ユウや姉さんがでてたと思うんだけど」

「今日は久しぶりに思いっきり遊んでたみたいだったからな」

「そうだね、夢にも見るわさ」

 そう答えながら、夢のトーンは何か哀調が支配していたような気がして、思い出そうとしてみたが、夢の内容はまったく思い出せなかった。



★ 燃ゆる柴

 季節は淡々と過ぎ去って行く。今はもう秋。しかも、高校2年の秋だ。この期に及んで、浮いた話一つないのは、ちと情けない。来年は受験で、遊んでいる暇はないだろう。俺の高校生活は、バラ一つ咲かないまま終わりを告げるのだろうか。濡れ縁に座って、感傷的な秋の空気を感じながら、枯れ始めた庭の草木を眺めていると、ユウがマッチを持ってやってきた。

「おお、焚き火かい」

 声をかけると、ユウは笑って頷き、つっかけを履いて庭に下りる。木の下に積んでいた、庭の手入れで出た切れ端を庭の真ん中に持ってきて、積み重ねる。面白そうなので、俺も濡れ縁を降りて手伝った。木を交互に積み重ね終わる。ユウが丸めた新聞紙を持ち、俺がそれにマッチで火をつける。火がついたそれを木の下に放り込み、ぱちぱちと音をさせながら、白い煙が木の間をくねり上ってくるのを眺める。その音を聞きつけて、姉が顔を出した。


 どうも最近、姉の顔には暗い翳がある。気になるのだが、高校生の俺が妙なことを聞くのも憚られる。姉はもう20歳なのだから、色々あるのだろう。そう言えば、俺もバラが咲かないが、姉のそういう話も聞かない。隠しているのかもしれないが、そういうものは「忍ぶれど...」というものがある。うまくいっても、うまくいかなくても、そういう気配はあるだろう。級友が、ついたり離れたりをするのはほとんどわかるから、たぶん、姉には浮いた話はない。それなりに人好きのする顔だから、まったくないということはないだろう。大学時代なんて、みんながさかっているようなもんなんだろうから。もちろん、この考えは数年後、自分が大学に行ったことにより、認識を改めざるを得なくなるのだが、このときはそんなふうに考えていた。


「燃やしてるの」

 姉は木を燃やしているのを見て、庭に下りてきた。

「乾いてる?」

「十分。下のほうは少し湿ってるけど、OKでしょう」

 白い煙に代わり、オレンジ色の炎が舌を伸ばしてきた。木の回りに、確かめるようにまつわりつき、見る見る木の表面を黒く染めていく。そして、そこからまた新たな炎が噴き上がり、全体が炎に包まれる。ぱちぱちという音をさせながら、炎は勢いを増し、先を競うように立ち上がる。ユウは焚き火のそばにしゃがんで、じっと燃える木々を見つめている。姉もその横にしゃがみ込み、ユウと並んで燃える炎を眺めていた。

 俺はまた濡れ縁に戻り、何かを考えようとしたが、頭の中に在ったものが炎に煽られて四散したか、何も考えが浮かんでこなかった。ここからだと、二人の横顔が見える。炎に照らされると、人の顔は妙に色を失って見える。二人の顔には何の表情も浮かんでいない。二人のそんな表情には、心騒がせられる何かがあった。俺も火を見ている時はあんな表情を浮かべているのだろうか。突然、焚き火の中で何かが跳ねた。

「熱ッ」

 姉が立ち上がり、膝を払っている。乾燥した木が弾けたらしい。

「大丈夫?」

 俺が濡れ縁を降りようとすると、ユウが姉の膝に顔を近づけ、唇をつけた。姉は驚いて見下ろしている。

「唾をつけたのか?」

 ユウは頷く。

「どう、姉さん。冷やす?痛みは?」

「...大丈夫」

 姉はそれだけ言い、逃げるように家に入って行った。俺は、まだしゃがんでいるユウを見下ろし、訊いた。

「火傷は?」

 ユウは首を振った。

「まあ、よかった」

 俺はそう言って、燃えている柴を、じっと見続けた。ユウも隣りで、じっと炎を見つめていた。


 姉はその日は自分の部屋に閉じこもり、出てこなかった。食事も、食欲がないと言ってとらなかった。


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