微量毒素

魔歌:Bonus Track 〜家族の伝承〜 p.5


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★ 金銀砂子

 まったく、冗談じゃない。どうして時期もあろうに、受験生にとって一番大事な夏に、こういう問題を顕在化させるかな。俺は半分怒り、半分はおかしがっていた。まあ、大変なのは、当事者の一人であるユウも同じだし、俺の数倍大変だろう。口が聞けないユウの進学問題だけでもけっこう関係者の心を悩ましているのに、その上色恋の話が混ざってきたら、そりゃあもう大騒ぎさ、ということで。しかも、その色恋が自分の姉と弟の間の話だとしたら、もうどうコメントしていいか、わからないっていう気持ちにもなる。ここまで来ちゃうと、半分おかしいってのもわかるだろ。笑うしかないんだよ。


 姉は真っ青な顔をして、家族の構成員の前に座っていた。本人は異端審問所もかくや、という風情だったけど、対面しているのは、異端審問所の審問官だったとは思えない。ただ、当惑して、どう対処していいかわからなかっただけなのだ。そうそう、家族の中で、当事者の一人であるユウはこの場にいなかった。とりあえず、それぞれの話を聞こうという会議だったのだ。

「ぜんぶ、私が悪いんです。私のせいでユウを責めないで」

 のっけから、話し合い拒否である。これでは発展的な話にならない。俺は発言した。

「責めるに決まってんだろう。姉を手篭めにするなんて、ふてえ野郎だ」

 いきなり、右側頭部に衝撃を受けた。親父だ。手加減どころか、パワーを上乗せして殴りやがった。

「ズク。追って沙汰あるまで、発言は許さん」

 緊張しすぎて発言がおかしい。本人は気付いていないようだが。

「ズク、違うの。私のせいなの」

「親父、沙汰を待ってるつもりはない。親父は混乱してるだろ。ちゃんとしたタイミングで沙汰を出せるとは思えないから」

 親父は何か言おうとしたようだが、ナミさんが止めたらしい。らしいと言うのは、俺はずっと姉を見ていて、親父のほうを見るつもりはなかったから。この場合の当事者は姉貴とユウの二人だ。親父は俺と同じ、傍観者の一人だ。もちろん、保護者という肩書きはあるが、この件に関して、その肩書きが意味があるとは思えない。

「姉貴、そりゃ、明らかにおかしい。あんたが悪いってんなら、あんたがユウを誘ったってことだろ」

 物凄い殺気を右側から感じたが、気にしている余裕は、実は俺にもない。

「そうよ...そうなの」

「そんなわけはないだろう。姉さんはいつも必要以上に慎重に行動していた。風呂からバスタオル姿で出てくるようなこともないし、あられもないような格好でうちの中を歩き回ったりもしなかった。性格なんだろうが、今時の女子大生にはあるまじき慎ましさだった。それがユウを誘惑したなんて、どうやって信じてもらおうと思ってるんだよ」

 姉は泣きそうだ。ここで泣かせなきゃ、話が進まない。

「ユウの前で、尻を振って見せたのか?だっちゅーの、でもやって見せたっていうのか?」

 再び、右側頭部に、先ほどの数倍の衝撃。俺はさすがにソファから転げ落ちた。

「い、いってー!受験生の頭を破壊する気か、親父!」

「それ以上バカなことを言ってるなら、なんぼでも破壊したるわ、ぼけぇ!」

 興奮して関西弁になっている。変わった親だ。俺はずきずきする頭を抱えながら、姉を見た。姉は真っ青になっているが、泣いてはいない。まったく、依怙地なところは親譲りなんだから。ここで泣いてしまえば、場の緊張が和らいで、話し合いの雰囲気になるって言うのに。俺は失敗した。親父が硬い声で言う。

「じゃあ、ユウとおまえがどうにかなったのは事実なんだな」

 あーあ、それじゃあ、真面目な姉を追い詰めちまう。姉は頷いた。

「わかった。じゃあ、とりあえず下宿に帰ってろ。ちょっとこちらで考える」

「ユウは悪くないんです。ユウは叱らないで」

「だから、中学生の分際で、姉を抱く男のどこが悪くないんだって言うんだよ」

「おまえは黙ってろ!」

「まあ、俺には関係ないからね。黙りますよ」

 険悪な視線を感じたが、無視。俺は次の案を練った。

「帰ります」

「ああ」

 姉は立ち上がった。俺は姉に声をかけた。

「姉貴、緊張したろ。ちょっと俺の部屋で休んで行けや。したい話もあるし」

「おまえは...」

 立ち上がろうとした親父をナミさんが押しとどめた。ナミさんはわかってくれてるかな。俺はナミさんの目を見た。ナミさんは頷いた。俺はにやっと笑って、姉の肩に手をかけた。姉は、俺に促されるままに、俺についてきた。


 姉をベッドに座らせ、俺は椅子に座った。

「何か、飲む?」

 姉は首を振った。こんなに小さくなっている姉を見るのは初めてだった。

「まあ、そう言わず。ウィスキーのブランデー割りなんてどう?」

 姉はちらりと目を上げた。

「...そんなのがあるの?」

「あるわけないだろ。ご所望なら調達して参るが、いかが?」

 姉はようやく頬にくぼみを作った。

「いらない...」

「コーヒーでも飲んで、頭をしゃっきりさせたら?ネスカフェだけど」

 姉が何も言わないので、俺は下に降りて、台所に行った。お湯を沸かしながら居間を覗くと、がっくりと肩を落とした親父が、物凄い顔で俺を睨んだ。ナミさんが心配そうな顔で俺を見たので、俺は頷いて見せた。やがてお湯が沸く音がして、俺はコーヒーの瓶を探した。


 コーヒーを持って部屋に戻ると、姉は壁に貼ってある絵を見ていた。俺は何も言わず、コーヒーを机において、椅子に座った。

「この絵...あんた、ずっと貼ってるのね」

「ああ。俺の一番のお気に入りの絵だからね」

「あの子、この絵がおまえだって言ってたね」

 そう言ってから、慌てて俺の方を見る。俺が何か辛らつなことでも言うと思ったのだろう。しかし、第三者がいないここで、ユウのことを悪く言うつもりは毛頭ない。

「その通り。その言葉が俺の支えになって、俺は何とかやっている」

「お菓子の家の話を覚えている?気がついてみたら、私は、どうしてもお菓子の家にたどりつけなくなってしまっていたの。お菓子の家にたどり着く前に、別の家があって、通りかかるといつも待ち構えていたようにそのドアが開いて、私を差し招くの。そうすると、私はどうしてもその家の中に入って行ってしまう...」

 俺は姉の言うことをじっと聞いていた。姉は吐き出さなければいけないことを抱えている。それを全部吐き出せれば、道が見えてくるはずなのだ。しかし、姉はそれきり黙ってしまった。俺は溜息をつき、とりあえず手札を並べてみることにした。

「ユウが誘って、姉さんが受け入れたんだね」

「ユウは悪くないの」

「姉さん、それは逆だよ。ユウは、真剣に姉さんを好きになった。それで、よくないことと知りながら、姉さんと関係した。姉さんも、よくないと知りながら、それを受け入れた。だとしたら、自分だけで罪を負おうとするのは傲慢だよ。一人前として扱わないのは、ユウに失礼じゃないか?」

 姉は顔をふっと上げた。俺の顔を見る。

「...そうかしら」

「あたりまえだろう。俺ならそうだし、そうでなかったら、俺はユウを許せない。でも、俺はユウを知っているつもりだ。そんなことにはならないだろう。これは、後でユウにも確認するよ」

 姉は頷いた。次は、少し聞きにくい。聞きにくいが、聞かないと、次のアクションを間違ってしまう。

「言いたくなきゃ言わなくていいし、嘘をついてもいいから。姉貴はユウに、無理やりやられたんだろう?」

 姉は返事をしなかった。が、それ自体が何よりも雄弁に真実を物語っていた。

「ごめんよ。こんなことを聞いて。じゃ、この件はお終い。コーヒーを飲んでよ。せっかく俺が淹れてきたんだから」

 俺が手渡したコーヒーカップを、姉は受け取り、両手で持って、少し飲んだ。そしてくすっと笑った。

「濃すぎるよ」

「目を覚まさなくちゃいけないと思ってさ、なんて。俺、コーヒーなんて初めて自分で入れたんだ。ココアみたいなつもりで入れたんだけど、やっぱり駄目だね」

「うん、おかげで目が覚めた。ありがとう」

「じゃあ、全部飲めよな」

「無茶言わないでよ。眠れなくなっちゃうじゃない」

「話によると、インスタントコーヒーには、カフェインはほとんど入っていないんだって。だから大丈夫だよ」

「へー、そうなの」

 姉はしばらく黒く濁った液体を覗き込んでいた。俺も自分のを覗き込んでみたが、ぐねぐねと揺れる自分の影が映っているのが見えた。

「冬だったの...」

 姉があまり突然に言い出したので、俺は一瞬何のことかと思ったが、すぐに覚った。

「みんながいるとき。夜、トイレに行って、戻ってきたら、ユウがドアを開けて、私を見ていた。私はつい、入って行ったの。そしたら、いきなり抱きしめられて、キスをされた。わたし、何がなにやらわからなくて。でも、ユウの気持ちは伝わってきた。それで、朝まで一緒にいたの。ユウはずっと私を抱きしめていた。私は気持ちよくて、ユウの腕の中で寝ちゃった。夜が明けて、初めてとんでもないことをしたことに気づいた。それで、ユウを突き飛ばして、自分の部屋に戻った。怖くて、布団に潜り込んで、ずっとそのまま震えていた。そのまま調子が悪いって言って、学校も休んだ」

 そんなことがあったろうか?あったかもしれない。普通に暮らしていれば、そんな日々は普通にある。そして、淡々と過ぎていく。裏に何があろうと。

「...ユウはずっと姉さんのことが好きだったのかな」

 姉は答えず、別の話を始めた。

「前にズクとエロ本の話をしたことがあったよね」

 あった。

「あの時、タブーの話をしたじゃない?私はちょっと気になるの、近親姦のタブーの話。ユウは私が姉じゃなくても、私を抱きたいと思ったかしら。姉だから、抱きたいと思ったのかしら」

「それは...」

 俺に訊くな、頼むから。一介の高校生に、その質問は重すぎる。姉は寂しそうに笑った。

「それが、私たちの間に、私が感じている不安。それに、私たちは歳が離れている。私が6歳上。それも不安。そういうものがなければ、胸を張って親たちと向かい合えるんだけど」

「別に向かい合う必要はないだろ。血のつながりはないんだし、生物学的にも何の問題もない。やりたいようにやれば?」

 姉はそう言ったおれの目を覗き込んできた。俺は、姉の目の色に狂気の翳を認めたように思い、戦慄した。

「そして。一番の問題は私自身。私は、ユウと一緒になりたいと思ってるのかしら、本当に?」

 もちろん、俺ができる返事など、どこにもなかった


「遅くなったから、駅まで送ってくよ」

 俺はまだ居間にいる親たちに声をかけた。

「気をつけてね」

 ナミさんの心配そうな声と、親父の意味のわからない言葉が聞こえた。俺は姉を促して、外に出た。姉の下宿は、電車で1時間ほど離れたところにある。うちから駅までは20分くらいだ。靴紐に手間取り、少し遅れて出ると、姉が空を見上げていた。俺も見上げた。今日は星が綺麗に見える。

「考えたら、もうすぐ七夕だね」

 姉が言った。

「そうだな」

「七夕の話を覚えている?」

「まあ、ぼちぼち」

 嘘だ。七夕の話は様々なバリエーションも含めて、10通りくらいが頭に入っている。姉の言うのは、おそらくあの話だろう。

「ユウは、瓜の実を横に切っちゃったの。私たちは引き離されることになる」

 やはり。でも、神話は神話だ。瓜から大水が溢れてくることなどない。

「関係ないね。あんたたちが、それぞれやるべきことをやっていればいいんだろう」

「違うわよ。あの話は、タブーを犯した二人を引き裂く理由を作るために、無理やり彦星にやり方を知らないことをやらせて、失敗させたんじゃない。やってはいけないことをやったら、どこかで見張ってる誰かが、タブーを犯したものを罰するの」

「どこかで見張ってる誰か、って誰だよ。親父は混乱しているだけだ。二人を罰しようなんて思っていない。そりゃ、あんたが勝手に作ってるんだ。今日だって、あんたがあんなに意地を張ってなけりゃ、もっと簡単なところに落ち着いたはずなのに」

「お父さんだなんて、思っちゃいないわ...」

「じゃあ、神様か?宗教に逃げるなよ、姉貴。逃げたら終わりだぞ。何に喰らいついてでも、正面からぶつかれよ。逃げれば逃げるほど、追っかけてくるものは大きくなって、終いには自分では対処しきれなくなっちまう。逃げるなよ」

「重すぎるお言葉だわ、今の私には...」

「くそ、どうしてそんなに弱くなっちまったんだ、昔はゴジラよりも強かったのに」

「私は昔から弱かったのよ。逆境になると、すぐ逃げて、あんたに助けられてたわよね。今でも思い出すわ、山の上」

 もう駅だ。夜の中、駅の階段は、明るく光に満ちている。

「何があっても、俺は味方だ。助けが要れば、いつでも呼ぶんだぞ、わかったな」

「ありがとう、ズク。私も頑張ってみるわ」

 言葉のなんと無力なことか。俺はそれを痛感した。俺の言葉は、姉の心の中までは届いていない。姉はここでいいからと手を振り、階段を上って行った。俺は取り残され、吐き気がするほどの無力感に苛まれていた。


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