微量毒素

魔歌:Bonus Track 〜家族の伝承〜 p.6


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★ この道は、いつかきた道(1)

 受験生が受験勉強にいそしんでいる部屋の扉を叩く者がいる。間違いなく、叩くものは悪魔であろう。なぜなら、今の俺は、とても誘惑に弱くなっているからだ。勉強以外のことを考えさせてくれるものを、切実に求めているといっていい。

「ナミさん?おやつか何かだと嬉しいな」

 答えはなく、扉が開いた。入ってきたのは、ユウだ。

「おお、どうした。本でも借りに来たか?今ならこの部屋にある本全てについて、詳細に語って、今のユウにぴったり合う本を探してあげてもいいぞ。もういい加減、勉強に飽きたんだ」

 軽口を叩きながらユウの様子を見ると、何か深刻な雰囲気である。ひょっとしたら、長時間の受験勉強からのリタイヤを余儀なくされるかもしれない。不安と期待に心を震わせながら、俺はユウに言った。

「姉さんがらみだな?」

 ユウは頷いた。


 ユウに連れられて、散歩に出ると称して家を出た。ユウはどんどん歩いていく。俺は勉強疲れで大あくびを連発しながらついて行った。どこに行くのかと思ったら、公園だった。木のうろに、秘密のおもちゃが隠されていた、あの公園。今は秋であり、もうたそがれ時のピークを過ぎ、子供たちの姿はない。そして、公園のブランコに、姉が腰掛けていた。

「ズク」

「よう、非処女」

 姉はもう21歳。非処女と呼ばれて傷つく歳ではない、と思う。しかし、姉は明らかに傷ついていた。ユウが俺の前に立った。明らかに怒っている。

「バカ。これに傷ついている限り、おまえらは幸せになれないんだよ」

 ユウはとまどっていた。

「姉貴、これを笑い飛ばせないか?」

 姉は微かに笑いを載せた顔で答えた。

「無理よ、ズク」

「無理でもなんでも、努力してみろよ。それで、きょうは何?」

 姉は俺の目を見ないまま、半ば投げやりに答えた。

「本当なら、こんなことを相談すること自体、バカらしいんだけど。私はユウを連れて、家を出ようと思っているの」


 驚かなかったと言ったら嘘になるが、しかし俺はこの言葉を半ば予想していたのだ。

「駄目だよ」

 姉は驚いて、一瞬俺の顔を見たが、またすぐに目を逸らして言った。

「駄目だなんて、どうして?」

「駄目に決まってるだろう。ユウはいくつだと思ってるんだ。中学生だぞ。今、高校受験の真っ最中なんだぞ」

 姉はふ、と笑った。

「わかってるわよ、そんなこと。それが今さらなんだって言うのよ」

「今さらって何だ。まだ、ユウは未来があるし、姉貴にだって未来がある。今さらなんていうほどのことは何も起こってない。何でそんなに悪く考えるんだ。何でそんなに自分を追い詰めるんだ」

「あんたにはわかんないわよ」

「わかるさ。姉さんは真正面からぶつかるのが怖いから、逃げようとしてるだけじゃないか。ぶつかってみりゃ、大した事のない事実から。真っ当なルートで進んでいける道があるのに、その道をたどるのが怖くて、逃げてるだけじゃないか」

 姉の顔が自分に向けられるのがわかったが、もう暗くなってきており、その表情までは見えなかった。怒ってるんだとしたら、俺の作戦は半ば成功だったが、どうもそうではないように思えた。

「ユウは口が聞けないのよ。それがどういうことだかわかる?」

 俺は姉が何を言おうとしているかわからなかった。

「口が聞けないものが、世間並みのルートに乗ったとして、どこまでいけると思うの?」

 俺は自分の耳が信じられなかった。俺はユウを見て、そしてまた姉を見た。

「姉さん...」

「普通の会社に勤められるわけないでしょ。だったら、苦労して高校に進学してどうするのよ」

 俺は躊躇なく一歩前に出て、姉さんの頬を張った。乾いた音がした。姉は頬を押さえ、途方にくれた子供のように俺を見た。

「自分が可哀想だからって、自分を大事に思ってくれる人間まで巻き込もうとするんじゃない」

 俺は、言葉がうまく言えなかった。上の言葉を言い終わるまで、つっかえたり、間違えたりしながら、ずいぶんかかったような気がした。頭の中が燃えるように熱く、全身の筋肉が付随意筋のように勝手にひくついた。俺は自分の状態を観察して、理解した。俺は今、本気で怒っているのだ。

「だって...だって本当だもん」

 姉は子供のように叫んだ。俺がいらだたしそうに手を振ると、姉は一瞬怯えた。

「バカの言うことは聞きたくない。どうせ泣き言を並べるつもりだろう」

 目の前にユウが割り込んできた。ユウの目も怒っている。が、俺ほどじゃない。

「間違ってんぞ、ユウ。おまえは俺を止めるべきじゃない。俺が信用できないのか」

 俺は低い声で言った。ユウはとまどいながらも、俺の前からどこうとしない。

「サカナはな、水の流れの通りに流されていけば楽なんだよ。流れに逆らって、大変な思いをしながら川上を目指す必要なんてないんだよ。それでいいのなら。でもな、それでもサカナは流れに逆らうだろ。何でだか考えてみろ」

 俺はユウを置き去りにして、肩越しに姉に声をかけた。

「姉さん、間違ってるのはわかってるんだろ。なのに、何でそっちへ行くんだ。そっちに行ったら、絶対いいことなんてないんだぞ」

 姉は黙ってブランコに座っている。俺の言葉は届いていないのかもしれない。そもそも俺自身、言いたいことをちゃんと言えているのかどうか、自信がない。それでも怒りは去ってくれず、頭が今みたいにぐつぐつ煮えている状態では、判断することが出来ない。本気で怒るということは、考えを巡らすことを放棄することだということを発見したりしながら、俺は姉の言葉を待っていた。

「どうしたらいいのかな」

 ポツリと漏らした姉の言葉は、俺を歓喜させた。ありがとう、神よ。姉はまだ諦めきってはいない。まだ大丈夫だ。

「一緒に来い」

 歓喜に見舞われながらも、なぜか、怒りのほうはまだ去ってくれない。もう必要はないのに。その怒りを持て余しながら、俺は姉を呼んだ。姉はついてきたし、ユウはその後に続いて、おかしいほど真剣な顔をしていた。俺は再び、烈しい既視感に襲われた。なかっただろうか、こんなことが?かつて、私たちの上に?デジャビュというにはあまりにも実感をもって、既視感は俺を支配していた。


 俺たちは、また、自分たちの家の前に立った。姉は俺を心細そうに見ているし、ユウは不安そうな顔をしているが、ここで始まったことは、ここで決着させるのが一番座りがいいのだ。俺は言った。

「俺はこう見えて、良識派だ。俺なんかにこそこそ相談する前に、父さんと母さんに相談するべきだ」

 明らかに、姉はひるんだ。俺にはわからない。なぜ姉がそんなに真っ当なルートを通すことに怯えるのか。

「行くぞ」

 ユウは迷いなく一歩を踏み出した。そして、動こうとしない姉を、尋ねるように見る。姉はユウの視線に押されるようにして歩き出した。二人を迎え入れて、俺は家の扉を閉めた。


「せめてユウが高校を出るまで待って」

 もっともな話だ。ナミさんは、精一杯公平に振る舞おうとしている。なかなか出来ることじゃない。それに比べて、姉は主張すらないに等しい。ただ、自分のやりたいことを言うだけだ。いつから姉はこんなになってしまったんだろう。

「ユウはどうなんだ。まさか、高校受験が怖くて、姉さんについていくわけじゃないんだろ」

ユウは首を振った。俺は頷いた。

「さっきから聞いていても、何ですぐに家を出る必要があるのか、まったく伝わってこない。少しでも納得できる部分があれば考えようもあるけど、今のままじゃ土俵にすら乗ってこないぜ」

「女は土俵に乗っちゃいけないんじゃないのか」

 親父が言う。この男は、何を考えているんだ。

「確かそういう論争があったよな。それで、相撲協会側はあくまで駄目を出して、抗議する側は決死隊を繰り出して、隙を見て、土俵の上を走り抜けるという作戦を考えたそうだ」

 何でそんな話を?

「どちらも馬鹿馬鹿しいが、決死隊のことをどう思う?」

 親父は姉に聞いた。

「バカだね」

 姉は短く答えた。親父は頷いた。

「それはわかるように育ててきたつもりだ。他はダメ親父だったかも知れないけどな」

 親父は俺を見て、よりによってウィンクしてきやがった。

「何で馬鹿馬鹿しいかわかるか?」

「目的が違うから」

「そうだ。なぜわざわざ論争をしたのか、本来の目的を忘れている。テル、本来の目的がなんだかわかるか?」

 姉は顔を上げて、気が進まなそうに親父の顔を見た。親父は厳しい顔で頷いた。姉はぽつぽつと喋りだした。

「土俵に乗ってはいけない理由を検証して、必要があれば禁止を撤廃すること。必要がなければ、禁止を残しておくこと」

「ゲリラ行為はなぜやってはいけない?」

「論争の解決に、まったく寄与しないから。土俵の上に実際に誰が乗ろうと、関係ない。正しい筋道で、土俵に上がることを許されるかどうかが、そもそもの論争の目的だから」

「そう。事実が一度あれば、それで解決だなどと考えるのは、下衆だ。何万回そのようなことがあっても、正式に認められないことに変わりはない。だから、そういうことを考える輩(やから)は馬鹿なんだ」

 おいおい、きわどいじゃないか。思いつきかと思ったが、けっこう考えている。さすが親父、侮れない。でも、大丈夫なのか?こんなに深く切り込んで。退路はあるのか?姉が顔を上げた。

「言いたいことはわかってる。でも、今の私には無理」

 断ち切るような姉の物言いを、親父はのほほんと受ける。

「トライしてもみないで、何を言う」

「したわよ!何回も...別れようと思った。元の兄弟に戻ろうとも思って、やってみた。でも、どうしても駄目なの。私はユウにすりよってしまう。誘惑してしまう。私が駄目なの、全部」

「トライすべきゴールはひとつじゃないだろう」

 やはり、侮れない。姉は顔を上げ、親父を見た。親父は姉の目を覗き込んだ。

「もう一つゴールはあるだろうって言ってるんだ」

 ナミさんも頷いている。姉はいやいやをした。

「なぜそちらのゴールに拘るんだ。もし、そっちのゴールが嫌なんだったら、ユウを連れて行くのは逆効果だろう。どうも、自分から進んで野壺に沈もうとしているとしか思えない。化かされている時はいい湯加減で、気持ちいいかも知れないが、覚めた時にどんな気分になるか考えてみろ」

「わかんない。もう、何も考えられないの」

「馬鹿になったのかと思ってカマをかけてみたが、理解力は衰えていない。わからないのは、自分の事だけなんだな」

 姉は頷いた。俺は改めて親父を見た。親父は俺の方を見もせずに言った。

「亀の甲より年の功だ。子供のことは多少はわかっているつもりだよ、ズク」

 くそ。いやな奴だ。しかし、助かった。俺じゃあ、ここまで姉に喋らせることは出来なかったろう。

「利益関係者として言わせてもらえれば、多少面倒だが、真っ当な形でことを収めることは出来ると考えている。おまえの利益代表が俺で、ユウの利益代表がナミさんだ」

 俺は?

「そして、ズクが監査人だ。ズクなら、間違えることなく、公正に判断してくれるだろう。どうだ、テル。こちらの方向で検討することも出来る。その準備は、関係者全員にある。そうだな、ナミ」

 ナミさんは頷いた。ユウは姉を見た。父さんが姉さんを見る。ナミさんが姉を見た。俺は姉さんを見る。姉は顔を上げ、怯えたように目を彷徨わせた。そして、身体を捻ってソファに突っ伏した。

「いやだ、私を見ないで。私は腐っている。私は最低よ。私なんて死んだ方がいいの」

 姉は泣き出した。泣いている姉を見るのなんて、何年ぶりだろう。いや、そもそも、泣いたことなどあっただろうか。姉はこうして許されることが一番怖かったのだ。


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