魔歌:Bonus Track 〜家族の伝承〜 p.7
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★ この道は、いつかきた道(2) |
俺は姉の部屋に行って、ベッドに座っている。ふと、このベッドで姉とユウは抱き合ったのだろうかと考えて、ざわっとしたので考えるのを止めた。姉は机の椅子に座っている。これは、うちの兄弟が他人の部屋に入った時の、暗黙に決まったルールだ。部屋の持ち主は机の椅子に座り、訪問者はベッドまたは床に座る。些細なことだが、このような細かい約束事を積み重ねて、人間と人間は一緒に生きているのだ。婿や嫁など、外の人間が入った時にぎくしゃくするのは、この約束事が乱されるからなのかな、とふと考えた。その乱れをどこまで許せるかで、人間関係はうまくいったり、乱れたりするんだ。 「どうしても、出て行くのか」 姉は言葉に微かに笑みを含ませて、見当違いのことを言った。 「久しぶりに父さんの演説を聞いたわね」 「いや、ほんと。切れ味は衰えてないねえ。滅多に使わないくせに」 「父さんは優しいんだよね、いつも」 「そうか?俺にはそうでもないけど」 「いいの、わかってる。照れちゃって」 いつもの姉に近い。やはり親父はすごいのかもしれない。 「ねえ、ユウ。私、もうちょっと頑張ってみるわ。みんなが一生懸命協力してくれているし、私もまだまだやるべきことをやり尽くしていないし」 「姉さんが罰してもらいたがってるなんて思わなかったよ」 姉はからかうように、歌うように言った。 「ほんとかな。ほんとは気付いてたんじゃないのかな。気付くまいとしてただけじゃないのかな」 姉に言われて、俺は詰まった。そんなことはない。そんなことはないと思うが、しかし... 「俺は、馬鹿なのかな」 「馬鹿なんじゃないよ。いつも、考えすぎるだけ。本当のことは、ずっとずっと単純なんだよ。覚えておきなさい、いつかおまえに好きな人が出来るときまで」 「そういうことってないような気がするんだけど」 「3年も経てば、考えが変わるわよ」 「3年なんて永遠の先のように思えるぜ」 「すぐだよ、ほんとに」 姉は落ち着いている。少なくとも、ここ数ヶ月のうちで、いちばん落ち着いて見える。 「私はユウを幸せにしなくちゃね」 「しないといけないと思うと、負担に変わっていくぜ」 「ズク、私を見ていてね。私が間違ってたら教えてね。このごろ、自分のしていることが正しいことかそうでないのか、わからないことが多いの。正しいと思ってしていることが間違ってたり、間違ってると思ってしていることが間違いではなかったり」 「自分のことはそうさ。俺だってわからない」 「ズクはいつでも、一番正しい道の真ん中を、堂々と歩いているように見えるよ」 「とんだ買い被りだね。偶然だよ、きっと」 「じゃあ、私もズクが道を間違えそうになったら教えてあげる。よかった、頼んでばかりだから、だんだんズクの敷居が高くなっちゃってさ。これで少しは入りやすくなったかな」 「そうか、それじゃあ、俺ももう少しお姉さまに甘えた方がいいんだな」 「そうだね、可愛い弟よ」 「お姉さま−ん、新しいパソコンが欲しいんだけどー」 「受験生にパソコンはいらねえな」 「ひどい!」 姉と俺は笑いあった。久しぶりに、昔に戻ったような気がした。気持ちが通じたついでに、俺はもう一つ知りたかったことを訊いてみることにした。 「それで、ちょっと気になってたんだけど、姉さんはユウとやった時には処女だったの?」 |
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次の朝、洗面所に行くと、ユウが顔を洗っていた。ユウは首を傾げ、俺の頬を指す。 「ああ、きのうちょっとヒグマに襲われて、痛烈な張り手を喰らったんだ。どうもこちらの質問が気に入らなかったらしい」 ユウは首を傾げた。鏡を覗くと、見事に手の形に赤く腫れ上がっている。 「一晩越すなんて、あいつはホセ・メンドーサかよ」 呟いているとユウが出て行こうとしたので、声をかけた。 「ユウ?」 ユウは振り向いた。俺は鏡越しにユウを見ながら言った。 「それで、高校には行くんだろ」 ユウは嬉しそうに頷いた。 「だったら、ふんどしを締めてかかれよ。これで落ちたら大笑いしてやるからな」 ユウは厳粛な顔をして頷き、出て行った。俺は顔を洗いにかかった。 「まあ、まずまずといったところかな」 俺は顔を洗いながら呟いた。 |
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それでも、やはり家の空気は変わってしまった。皆が緊張している、微妙な空気。この空気の中で、俺とユウは平常心を保ちながら受験勉強を続けた。俺はともかく、当事者のユウにとっては大変だったのではないだろうか。姉さんは意識して家に戻ってこないようにしていたし、正月も三が日だけ家にいて、すぐに大学の方に戻ってしまった。明らかにユウのことを考えてのことだろう。年が明ければ、受験は目の前。色々なことを考えるゆとりもなく、ひたすら勉強した。もう、どこまですればいいかわからないのだけれど、とにかく目の前にある問題を解きまくり、知識を詰め込んだ。俺にとっては、それほど苦痛でもなかったが。ユウも俺も、様々な妨害はあったものの、とりあえず希望の学校に進学することが出来た。俺は家から離れた大学に入り、一人暮らしを始めた。 少し遠いので、帰省は長期の休みくらいしか出来なかった。そして、帰ってくる度に家の空気が変わっていくように感じられた。時が経つほどに、家は食い荒らされ、昔の夢の残滓が、かろうじて家の形を崩さないでいるだけ。その緊張した空気の中で、久しぶりに再会する家族が神妙に決められた所作をこなす。能舞台の上にでもいるような、緊張感と違和感があった。姉は就職して、会社勤めをしている。それなりにこなしているようだ。ユウはしっかり高校生をしている。なんと、野球部に入り、日々汗を流しているということだ。休みの間も、ほとんど毎日部活に行っている。すっかり大人になっていた。 須由の間に時は経ち、ユウは3年生になった。進学の話の時に、ユウは北陸の、漆塗りの職人になりたいという話をしたという。色々調べて、ある職人の仕事に魅せられたらしい。野球部をしながら、いつそんなことを考えていたのかと思うと不思議だが、ユウはユウなりにいろいろ考えていたのだろう。ユウの決心は固く、職人の方とも話を通して、高校卒業後に住み込みで働かせてもらうことになった。姉は、会社をやめてついていくという。そっちで仕事を探して働くつもりのようだ。 「絵が好きだったもんな」 俺の言葉に微笑むユウ。しかし、どこか哀しみの翳が身についている。結局、結婚は後にまわすことになった。ユウがもう少し落ち着いてからということで。姉が強硬に主張したのだが、ユウが6歳という年齢差を慎重に考えて欲しいという思いもあったのではないかと俺は思っている。俺はもう訊かなかった。訊いても、詮無いことだったから。 俺はユウが旅立つ時まではいられない。俺が学校に戻る時、ユウに激励の言葉をかけた。 「わかってるな、ユウ。男は女を守らなきゃいけないんだぞ」 ユウは俺の目を見る。遠い日の約束。もちろん、ユウが忘れているはずがない。ユウは頷き、右手を出した。俺はその手を握った。そして俺は手を離し、一番大事だった人たちを置いて、自分の世界へ歩き出した。 次にここに来る時は、この家はもう大きく変容しているだろう。器は変わらなくても、そこに在るものは変わる。外見だけでなく、中身も変わって行く。いつ戻っても安心できた場所は、その意味を変えていく。戻る場所から、訪なう場所に。そして、過去は、大きな水音を立てて、淵の底に潜っていった。人は時にこの淵の際に戻り、淵の底で奏でられる過去の残響を聞くのだ。首を垂れて、敬虔に。 |
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