微量毒素

黄の魔歌 〜ユニコーンの角〜 p.2


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 キスゲは庭に、一人でいた。母親は昼食の支度をするために、家に入っていた。まだ2歳のキスゲは、世界を手探りしていた。世界には、まだキスゲの知らないものが山ほどあり、キスゲの好奇心はそれらすべてを吸収しようとしていた。

「おはな。おはな。くさ。...?おはな?」

 キスゲは手を伸ばした。ちょうはひらひらと舞い上がり、惑うようにはためいた後、飛び去った。

「ぱた、ぱた。」

 キスゲはちょうの飛び去ったほうを見あげていた。犬が庭に入り込んできた。キスゲは手を伸ばした。

「わう、わう。」

 犬は低いうなり声をあげた。キスゲは戸惑い、手を伸ばしたまま止めた。犬はキスゲの腕に噛みついた。キスゲは犬の目を見つめた。犬は牙を離し、再びうなり声をあげた。キスゲの手から血が流れた。

 犬の吠え声をきき、母親が窓からのぞくと、キスゲが犬の前に立っているのを見た。
《どこから入り込んだのかしら。気をつけないと。噛まれでもしたら...》
 そこまで考えて、母親はキスゲの白い腕から赤い血が滴っているのに気づき、悲鳴をあげた。


 キスゲは病院で治療を受け、細い腕に包帯を巻いた。キスゲは犬に噛まれたことで泣きはしなかった。むしろ母親のほうが度を失い、病院につれてくるまで一騒ぎを演じた。

「泣かないで偉いね。痛くはない?」

 治療してくれた医者の言葉に、キスゲは重々しく首を振り、言った。
「いたい。」

「そうか、そうか。もう大丈夫だからね。」
 キスゲは包帯を巻かれた自分の手を眺め、医者の目を見つめていった。

「まだ、いたい。」

「そうだね。痛いのは、君の身体が自分で治そうとしているから、痛みを感じるんだよ。消毒もしたし、悪くなることはない。後は時間が経てば痛くなくなるから、それまで待つんだね。」

「どれくらい?」

「2,3日くらいかな。」

「ずっと?」

「だんだん痛みはなくなっていくから。知らないうちに痛くなくなるよ。」
 キスゲは理解したというようにうなづいた。2,3日というのが、どれくらい先のことかわからないが、このおとなが心配していないから、そんなにひどいことではないのだろうと考えたのである。

「おかあさん、大丈夫ですよ。狂犬病の問題もなさそうですし、ショックも受けていない。それにしても我慢強い子ですね。それとも、まだ自分に何が起こったのか、わかっていないのかもしれない。とにかく、様子を見てください。何かあったら、連絡してください。急に痛みを訴えるようなことや、昏睡に陥ったりするようなことですね。」

「こんな小さな身体で、あんな大きな犬に噛まれて…」

「確かに大変でしたが、軽い怪我で済んでよかったですね。キスゲちゃんは、犬に噛まれたとき、抵抗したりしなかったんじゃないでしょうか。抵抗して暴れたりしたら、もっとひどい怪我になったかもしれません。」
 母親はそれを聞いて、激しく身震いした。これよりひどい怪我ですって?

「それは、下手したら死んでたかもしれないってことですか?」

「まあ、犬に噛まれて死んでしまうとことも、時々ありますね。特に小さい子供ならなおさら危険です。注意する必要がありますね。」

「注意って言っても...」

 キスゲは、医者の話を聞いている母親の横で、足をぶらぶらさせながら、じっと包帯を見ている。キスゲは考えていたのだ。今まで知らなかった世界の構造について。今まで、キスゲは自分の回りに、自分を傷つけようとする何かがある、などということを、考えたこともなかった。おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃん。知らない人も、みんなキスゲをかわいがり、優しくしてくれていた。

 でも、今度出てきたわうわうは、キスゲを痛くした。先生とおかあさんの話を聞いていると、もっと痛くなったかもしれないらしい。自分のまわりには、自分に優しくしてくれるもののほかに、自分を痛くしようとするものもある。ひょっとしたら、もっと悪いものもあるのかもしれない。

 キスゲはお母さんの横で包帯を見ながら、自分の世界に現れた新しい概念、有害な意図を持つものと、その有害な意図について考慮し続けていた。


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