黄の魔歌 〜ユニコーンの角〜 p.12
魔歌 | back | end |
いつの間にか、教室の奥まで日が差し込むようになり、窓から見える木々も、緑色から褐色に変わってきていた。秋。そんなある日、キスゲはエツコと、放課後の教室にいた。授業が終わったのはずいぶん前。すでに夕方の光が、教室を満たしている。 エツコは、だらしなく椅子にもたれかかり、片頬を手に預けてキスゲを見た。キスゲは、静かに本を読んでいる。 「ええと、キスゲ?」 「はい?」 キスゲは、うわの空で答えを返し、本を読み続けている。エツコはじっと動かないまま、さらにキスゲに声をかける。 「キスゲ。あんた、今、何考えてる?」 「え?ああ、ほとんど、何にも...」 エツコはいらだたしそうに、手を振り、椅子から立ち上がった。驚いたようにエツコを見るキスゲに、エツコは言った。 「帰る。さよなら。」 キスゲは、かばんをつかみ、大またで教室から出て行くエツコを目で追った。キスゲは片手をあげたが、エツコは振り向きもしないで、教室を出て行った。短い「バイ」の声を残して。 キスゲは、エツコの出て行った、開け放したままの戸のあたりを見ながら、きょとんとしたようにつぶやいた。 「どうしたの、エツコ?」 深くまで夕日の差し込んだ教室は、次第に夜の気配を漂わせてきていた。キスゲは友人の様子がおかしいと思ったが、それほど深刻には受け取らず、自分も教室をあとにした。誰もいなくなった教室の外から、キスゲはそっと戸を閉めた。靴音は、次第に遠ざかっていった。教室は静寂に包まれ、夜の闇に飲み込まれるときを待っていた。 |
![]() |
「聞いた?エツコはミエとコンサートに行くんだって。」 「へえ?じゃ、キスゲはふられたってこと?」 「たぶんさ、疲れちゃったんじゃない?エツコ。やっぱり、たいへんよね。キーさんとのお付き合いは、さ。」 「そうよね。ま、けっこう、もったかな、って感じよね。」 キスゲは、うわさを耳にしたとき、とても信じられなかった。エツコが?だって、エツコは...あり得ないわ。エツコに直接に聞かないと...キスゲは、自分がとうてい出来そうもないことを、考えていることに気付いた。もともと、人付き合いは得意な方ではなかった。今までは、エツコが引っ張ってくれたから、いろいろ出来ていた。しかし、そのエツコ自身がかかわる問題だから、これは自分で取り回さなければならない。キスゲはそのようなことに関するノウハウを、ほとんど持っていなかった。 キスゲは動けなかった。怖ろしくて、エツコに近づくことすら出来なかった。キスゲは頭の中で、何百回、何千回もエツコとの会見をシミュレートしてみたが、いい結果は信じられず、悪い結果は不安感を増殖させた。ひとこと、たったひとこと聞けば済むことなのに。キスゲはそう思ってみたが、そのひとことが、そのもたらす結果を怖れるあまり、どんどん、遠くなってゆくのを感じていた。それでも、このままではいけないということはわかっている。ともすれば、奥に引っ込もうとする自分を叱咤して、エツコと話をすることにした。 キスゲは、エツコが行きそうなところに足を運んだ。テニス部はもう終わって、部員は残っていない。校庭を眺めても、エツコの姿はない。体育館を覗いてみたが、やはりいない。思いついて、図書室にも行ってみた。生徒はけっこう残っていたが、やはりエツコの姿はなかった。ひょっとしたら、行き違って、教室に戻っているかもしれないと思い、行ってみたが、誰もいなかった。エツコの鞄もないので、やはり帰ってしまったらしい。残念だという気持ちと、ほっとした気持ちが半々の、中途半端な気持ちで、キスゲは教室を出た。 階段を下りながら、キスゲは考えをまとめようとしたが、まったく収束してくれない。あっちこっちに考えが飛び、自分がどこを歩いているかも気付かないまま、キスゲは機械的に玄関への道をたどっていた。顔を伏せたままのろのろと靴を履き、玄関を出ようとした。何気なく顔を上げると、腕を組んでいるエツコと視線が合った。キスゲは頭の中が縮み上がるように感じたが、かろうじて平静を保つことに成功した。 「...ミエとコンサートに行くんだって?」 「ええ。あなたはコンサートは好きじゃないって思ったから誘わなかったけど。人込みはきらいだよね。」 「うん。エツコは歌を聴くのも好きだったんだね...」 「ええ。他にもたくさん好きなものがあるわ。」 「そうね...楽しんできて。じゃ、さよなら...」 キスゲはエツコから目をそらし、外に出ていった。 「雨が降るかもしれないよ...」 一人、誰もいない玄関に残ったエツコはつぶやいた。エツコは暗い目をして、たった今、キスゲのいた空間を見つめていた。校舎の奥から少女たちの明るい話し声が近づいてきた。エツコは目をあげ、逃げるように玄関を出ていった。エツコはひどく傷ついているように見えた。 |
![]() |
キスゲは足早に歩いている。いつも通る道ではない、うちに帰る道でも学校に行く道でもない道。キスゲは自分の記憶にない道を選んで歩いているのだ。 《コンサートは嫌いじゃない。私もいろいろやってみたいし、本だけがすべてだって思ってるわけでもない。わたしはあなたといろいろなことをやってみたかったのよ。ほんとうに。でもやっぱり、あなたも疲れちゃったのね。私がいけないから。おもしろくないから。私には何か悪いところがあるんだわ。だからおとうさんやおかあさんも、どこか私を疎んじている。私の本当の気持ちは誰にもわかってもらえない。わたしは誰からも必要とされない存在なんだわ。私はそれを受け入れなくちゃいけない。なぜなら、私はそういう人間なんだから。》 ここはどこなんだろう。自分がどこにいるかもわからない。見知らぬ道、見知らぬ町。キスゲは道端に座り込んだ。もう一歩も歩けそうにない。歩く気力もない。キスゲは、膝を抱え、頭を膝小僧に押し付けた。やがて、その背に最初の雨粒が当たった。2粒目、3粒目...雨粒は次第に多くなり、絹糸のように、細く、キスゲに降り注いだ。キスゲは身動きもしない。キスゲの中で、すべてが吸い込まれるように小さくなり、可視領域から消えていく。キスゲは、自分の内側のそれを、無感動に眺めていた。そして、溶暗。すべてが闇に包まれた。この日、人を疎みながらも、愛したがっていた、寂しい少女は消えた。 |
黄の魔歌 〜折れた角〜 に続きます |