微量毒素

黄の魔歌 〜打つも果てるも〜 p.6


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 ドアがノックされた。返事はない。時間をおいて、もう一度。やはり返事はない。ドアの外では、ユカルが、途方にくれたように立っている。

「あれ?おかしいな。さっき、トレーニングから帰ったんだから、もういると思ったんだけど。」

 ユカルはもう一度、ノックをしてみる。

「居留守?ありうる...」

 ユカルはドアを開けてみた。開いた。

「鍵がかかってない...」

 ユカルはドアを少し開いて、中を覗き込んだ。

「やっぱり、戻ってない。不用心だな、鍵もかけてないなんて...」

「別に、盗まれるものもないからな。」

 背後から、いきなり声をかけられて、ユカルは飛び上がった。

「コ、コジロー...」

 コジローは水のペットボトルを下げている。

「ああ、水を買っていたのね。」

「そうだ。で、何の用だ。」

「あ、あ、別に、用ってほどのこともないんだけど。」

 ユカルの心臓は、おかしいほどに脈打っている。あり得ないことだが、この振動が、コジローに伝わっているような気がして、ユカルはさらに動揺した。

「すまないが、通してくれ。」

「あ、ごめん。」

 ユカルは横によけて、コジローを通した。コジローは部屋に入ると、ユカルに背を向けたまま言った。

「出て、ドアを閉めてくれ。」

「ちょっと待って。あたしはあんたと話がしたいんだ。」

「こちらには、話したいことは何もない。」

「そりゃ、あんたはそうだろうさ。でも、あたしにはあるの。いいから、聞いて。」

 コジローは向き直り、ユカルを見つめた。ユカルは言葉に詰まった。もとより、話すことなど、何もないと言っていいのだから。

「聞こう。」

 あくまでも冷ややかなコジローの態度が、逆にユカルの闘志をかきたてた。ユカルは言葉を押し出した。

「あんた、前に子供と遊んでたろ。」

 コジローの眉がピクリと動いた。

「ああ。」

「あの子たちは、知り合い?」

 ユカルは唇をかんだ。あたしは何を言っているんだろう。

「いや。時々出会うだけだ。それが何か。」

「近所の子かな。」

「俺は知らない。」

「そうだよね。いつもはここにいるんだし...」

「話はそれだけか。」

 ユカルは、これ以上話を続けることは出来なかった。あたしは何を話したかったんだろう。

「話がないなら、出て行ってくれ。」

 ユカルは瞬間、引き裂いてやりたいほどの憎悪を、コジローに対して覚えた。火が噴き出るかと思うほどの殺意をこめた目で、コジローを見たが、コジローの見返してくる目を覗き込んだとき、炎は嘘のように消え去り、あえかな哀しみだけが残った。ユカルは黙って後ろに下がり、ドアを閉めた。ユカルはしばらく、そのドアの前に立っていたが、やがて、自室に向かって歩き出した。



 なんで、こんなことになったんだろう。気に入らない奴は、抹殺するだけ。それでいいはずだったのに。私の心は私のもの。他のものにかき回されることなんて、絶対ないはずだったのに。私はなぜ、コジローを殺せないんだろう。あれほどの憎しみを感じたのは、生まれて初めてだったのに。ユカルは、自分ではけっして解決できない問題に突き当たったのを感じた。こういう時はどうしたらいい?

「いったい、どうしたらいいんだ...」

 自分で解決できないなら、他の人間の知恵を借りるしかない。しかし、ユカル自身、問題の本質がわかっていないし、とても聞きづらい問題のような気がする。それでも、このままにしていれば、ユカルはそのうちコジローを殺してしまうだろう。さもなければ、自分を。ユカルはあれこれ考えるより、行動することで事態を変えてゆくのに慣れていた。

「...決めた。」

 誰か、頭のいい人に訊けばいい。キスゲは問題外。コウガは...おちょくられそうなので、駄目。プラタナスなら?プラタナスなら、いいかもしれない。口は堅いし、人を笑わない。こちらの言うことにも耳を傾けてくれる。

「...決めた。」

 プラタナスに聞こう。いつ?今から。

 ユカルは自室に向かっていた足の向きを変えた。目的地はプラタナスの部屋。この廊下を戻った方が早いけど、コジローのへやの前は、今は通れない。別の階段を上がって行こう。

 うまくいくかな。大丈夫。もし駄目でも、それはその時考えればいいこと。ユカルの足は、ようやく目的が定まった喜びで、なめらかにユカルを目的地に送り届けようとしていた。


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