微量毒素

黒の魔歌 〜序・破・急〜 p.3


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★ 夢の倉庫ライフ

「で、どっち?」

「ううん。現在位置はどこだろう」

「ここが商店街の端だけど…ねえ、お店はどっちなのさ」

「こっちだな」

「じゃあ、こっちだ。この先を右に折れて、路地を抜けて突き当たり。けっこう近いね」

「まあ、地図の縮尺が合っていればな」

「なに、このお姉さんの絵は」

「奥さんが地図を描いてくれたんだけど、自分らしい」

「美人?」

「んー、とても魅力的な女性だよ。昼飯も出してもらえるから、明日連れて行こう」

「僕もいいの?」

「話してある。いいって」

 コジローは思い出して、ポケットを探った。

「それと、床屋に行けって。前金をくれた」

「もったいない。僕が切るよ」

「切るよって...出来るのか?」

「工作は好きなんだから」

「工作とは随分違うと思うぞ。それに、好きと得意は違うしな…」

「猫の髭を切ってものすごく怒られたことがある。だから、大丈夫だよ」

「すでに、全然説得材料になっていない」

「いいから、僕が切るの。決めたからね」


 公園のベンチで、コジローは首に雨具のポンチョを巻きつけたまま、アザミに訊いた。

「アザミ?終わったのか?」

 アザミはなぜか少し下がったまま答えない。コジローは声を高くした。

「いいんだろ、アザミ?」

「あ、ああ」

 いつものアザミの声ではない。コジローは気に留めず、首の周りの毛を払い落としながら立ち上がった。

「かゆいんだよな、切った毛が。さっさと銭湯に行こうぜ」

 コジローはポンチョを脱ぎ、それをふるった。くるくるとそれを巻き、小さくまとめる。アザミが話しかける。

「あの、コジロー…」

「何だよ」

「どうだろうか、と思ってさ。その、髪型の好みとか、さ」

「そういうのは始める前に訊くもんだろう。何をいまさら」

「ちょっと、独創的になりすぎたかな、とか思って」

「待て。その言い方、少し気になるぞ」

 アザミはかなり落ち着きのない様子である。コジローは自分の頭に手をやり、絶句した。何か、すごく尋常でない様子である。長さはバラバラで、手の平に受ける刺激がランダムで心地よい。コジローは心ゆくまで自分の頭を撫で回し、ゆっくりとアザミを振り返った。

「…アザミ」

「…ごめん。こんなふうになるなんて、思わなかったんだ」

「こんなふうって、おまえ…」

「床屋さんを見てると、すごく簡単に切ってるじゃないか。だから簡単だと思ったんだ」

「…それは、言い訳だよな」

 コジローが言うと、アザミは目を落として言った。

「ごめんなさい。僕が悪いんだ」

「うーむ…」

 コジローは髪を引っ張ってみた。

「ごめん…」

 アザミは小さい声で言った。

「まあ、いいさ。いつもより短いけど、これで揃えよう。ハサミをよこしな」

「え?」

 アザミは顔をあげた。

「ハサミだよ。あとは俺がまとめる。いつもやってんだから、これぐらい何とかなる」

「ほんと?」

 アザミがすがるような目を向けてきた。

「ああ。涼しくていいさ。ハサミ!」

 アザミは慌ててハサミを持ってきた。コジローはもう一度ポンチョを広げて被った。そして、自分の頭を指で探り、飛び出している毛を揃え始めた。見る見るうちにまとまってゆく。不揃いだが、それほどおかしくはなくなってきた。

「ちょいと来い」

 コジローはアザミを招いた。アザミの前で、髪を指で挟んで見せる。

「基本はこれだ。髪を指で挟んで、はみ出しているところだけを切る。この繰り返しをすれば、それほどおかしくはならない」

「うん」

 アザミは頷いた。

「後ろは出来ないから、やってくれ。今言ったようにすれば大丈夫だ。後は時々離れて、全体を見ながら整えること」

「また失敗しそうだ…」

「大丈夫だ。やってみろ」

「でも…」

「怖がることはない。おまえなら出来るよ」

 アザミはおそるおそるハサミを取り、コジローの後ろにまわって髪を切り始めた。

「あせるなよ。ゆっくりとやれば失敗はしない。ま、多少失敗してもいいが」

 アザミはコジローが不安になるほど緊張し、集中して切っている。しばらくして、アザミは離れて、全体を見た。

「だいぶ揃ったけど…」

 コジローは頭を撫で回した。なるほど、だいたい良さそうだ。コジローはアザミを近寄らせ、何箇所かを指示して切らせた。

「まあ、こんなもんだろう」

 コジローは立ち上がった。さっきと同じように髪を払い、頭を撫で回す。

「じゃ、行くぞ、銭湯。早くしないと閉まっちまう」

 コジローが荷物をまとめて歩き出すが、アザミがついて来ない。

「何してんだ。行くぞ」

「…ごめん、コジロー」

 コジローは苛立たしそうに手を振った。

「ばかやろ。さっさと来い。最初からそんなにうまく出来るわけないだろう。そんなのはわかっててやってもらったんだから、いいんだよ!」

「…そうなのか?」

「あたりまえだろう」

「ぼくが可哀相だから言ってるんじゃないだろうね?」

 コジローはうんざりしたように言った。

「おい、俺は言ったよな。俺はおまえを特別扱いはしないって。自分のことは自分でやってもらうって」

「…うん」

「今やったのは、自分のことじゃないよな。俺がやってもらったんだ。これは、おまえの俺へのサービスだ。だから、俺は感謝する。しくじったからって、俺が怒る筋のことじゃない」

「でも、出来もしないのに出来るって言ったのは、ぼくだ」

「ああ。そりゃそうだ。これからは、もっと職人さんを敬う気持ちを身に付けろ。簡単そうに見えても、それはすごい技量に裏打ちされて、初めてそう見えるんだ。見た目の判断基準を、もう少し考えるんだな。」

「うん、わかった」

「それに、おまえがやってくれたおかげで、一人でやるよりははるかに楽だったしな。次もまたやってもらうさ。慣れりゃ、それほどひどくは失敗しなくなる」

「…うん。ありがとう」

「礼を言うのはこっちさ。今まではやろうとも思わなかった、ベリーショートの髪型を試すことが出来たんだからな」

「コジロー、それは少し非難が入ってるね?」

「もちろんだ。俺はもう少し長めのほうが好きなんだからな。覚えとけよ」

「うん、わかった。今度は頑張るよ」

「力を入れ過ぎんなよ。モヒカンや虎刈りは嫌だからな」

「うん。じゃあ、お風呂に行こう」

「ああ。首の辺りが痒いんだ。早く風呂で流しちまいたいぜ」


 アザミとコジローは公園を出て行った。公園の外の暗がりから、影が立ち現れた。そのまま、コジローたちの行った方向へ歩き始める。夜の中、その暗がりに溶け込むようなダークスーツを着た男は、慌てることなく、ゆっくりとコジローの後をつけていた。


 暗闇の中、窓から入る月の光を頼りに、コジローが左の壁にスイッチを見つけた。それをぱちんと跳ね上げる。倉庫全体が橙色のふわっとした白熱灯の光に照らされた。内部は4坪はある広さで、床の半分くらいがダンボールや酒などの木箱で埋まっている。3メートルくらい上に床があり、中2階のようになっている。上には梯子であがるようになっているが、荷物も上げにくいのか、ほとんど使われていないようだ。

「うわー、予想以上にすげーなー」

 コジローが溜息をつくのと同時に、アザミが声をあげた。

「素敵!」

 音がいつもよりオクターブ上がっている。

「へ?」

 コジローが不審な目でアザミを見ると、アザミの目は大きく見開かれて、きらきらと光っている。その目がコジローの方を向いた。瞳の異常な煌きを直視してしまったコジローは、ある種の危機感を感じ、すぐに目を逸らしたが、アザミは意に介してもいなかった。

「コジロー、あたし、明日ずっとかけて、ここを綺麗にするからね!」

「あたし?」

 聞き慣れない一人称に戸惑って、目を直視しないようにアザミの様子を窺うと、アザミはやはりコジローの振る舞いを気にかけてもいない。ひたすら自分だけの世界に入り込んでしまったようだった。

「ま、まあいいけどね」

 何かが、アザミの中のどこかを活性化したらしい。それも、コジローの得意でないあたりが活性化されたようなので、コジローはこの件に深入りするのは避けることにした。しかし、アザミのきらきらは伝染性を持っているらしく、気付かないうちに、コジロー自身も気分を多少なりとも浮き立たせていたのである。


 コジローはあたりを満たしている白光で、眠りを乱された。つい、この瞬間に、灰色の光の中、扇状に飛び散る血の中心点にいる少女を見ていたのだが。

 コジローは助けたかったのに、間に合わなかった。すべて後手に回り、コジローの努力は無となった。少女はコジローを助けるために、コジローを突き落としたのだが、重力に引かれて、どんどん離れて行くコジローの眼前で、少女は刺されたのだ。覚醒し、見開いたコジローの眼からは涙が流れていた。

「おはよー」

 聞き慣れた声が、コジローの耳朶を打った。コジローは声の方を向き、自分がどこにいるのかを思い出した。コジローは秋の雨がやむことなく降りしきる、北陸の海岸にいるのではなかった。スナックのマスターに借りた、倉庫の上段で寝ていたのだ。半分開けられた、すりガラスの窓にはカーテンもないので、朝日の白い光が倉庫を満たしている。窓は上にしかないので、荷物の置いてある下のほうは、まだ黒い闇が蟠っている。そして光の中に少女がいた。

「おまえ...」

「朝だよ。すごくいい天気」

 一瞬、重なって見えた薄紅色の着物の少女はすぐに消え、アザミがそこにいた。窓枠に手をついて、爪先立ちになって外を見ている。寝る時にジーンズを脱いだままで、白い足を剥き出しにした、シャツを羽織っただけの姿である。どうやら朝日を浴びてうれしくなり、窓を開けて外を眺めていたようだ。コジローは起き抜けに側頭部を雪平なべでがんっと殴られたような衝撃を受けた。それほど、その光景は好ましかった。コジローは湧き上がる欲情を、必死で抑えようとした。アザミは嬉しくてたまらない様子で、弾みをつけてくるりと回り、コジローの前にやってきた。シャツの裾を踊らせて舞い、目の前に舞い降りるアザミの姿を見て、コジローは呟いた。

「天国とはこういうもののことだろうか...」

 どこか少年のように思っていたが、アザミはやはり少女だった。そして、アザミは欠片ほどの疑いもなくコジローを信じ切っている。だからこそ、こんな格好でいるのだ。

「やはり、地獄かも知れん...」

 呟くコジローを不審げに見て、アザミは自分の見たものの報告をした。

「窓から見てもさ、ほとんど建物しか見えないの。家と家の間から、道が見えるだけ。空もあんまり見えない。身を乗り出しても、屋根と屋根の隙間に青い色が細長く見えるだけなんだよ。やっぱり、都会なんだねえ」

 興奮しているアザミを見て、コジローの気落ちは落ち着いてきた。少し前まで、この少女は人の数よりも木の数がはるかに多い、自然に溢れた町で暮らしていたのだ。故あって、コジローが連れてくることになった少女は、環境の激変を苦に病むこともなく、こうしてあるがままに受け入れている。この子は南野の山の神たちからの、大切な預かり物だ。馬鹿なことを考えずに、この子を世界に受け入れさせてやらなくては。コジローはアザミの顔をじっと見つめた。

「まだ、寝ぼけてんの?コジロー」

 アザミは言い、座ったままの姿勢から手を後ろに伸ばして四つん這いになり、膝を立てて、着替えるために自分の荷物の方に行った。コジローは再び雪平なべを、今度は後頭部に受けた。がん。

「アザミ!」

「はい?」

 アザミはコジローをハイハイの姿勢のままで振り向いた。コジローは真っ赤になっている。怒っている、らしい。

「パンツを見せるな!」

 アザミはしばらく考えていたが、見る見る真っ赤になって、転がるように座り込み、毛布を体中に巻きつけた。

「すけべ!」

「何が!」

 謂れのない謗りを受けた気はするが、とりあえずコジローは安心した。意識されないでこのまま無防備でいられるのは、拷問を受け続けるようなものだからだ。後はコジロー自身の理性に任せればよい。多少、不安な感じは残らないでもないが、それならコジローは自分自身の責任で対処することができる。コジローを睨み続けているアザミの視線は、かなりちくちくと痛いが、これはある程度しょうがあるまい。コジローは咳払いをして言った。

「悪いが、ここで言っておく。俺は男で、おまえは女だ。」

「本質的な違いじゃないと思ったけど、そうでもなさそうだ」

 アザミはぶつぶつ言った。

「いや、本質的な違いじゃない。おまえが男だったとしても、いろいろ起こる可能性はあるんだからな。それは、今はどうでもいい。俺が男だということを、おまえはしっかり認識しろ。連れてくる時に言ったように、おまえは俺のただの連れだ。おまえに何も悪いことをしないと言った覚えはない」

 アザミは渋々それを認めた。

「それを考えて、男に対するように、俺に気を使うようにしてくれ。俺は、いつおまえに襲いかかるかもしれないスケベ男だと思って」

 アザミはコジローを斜めに見ながら、しばらく考えて、荷物の中から包丁を取り出し、コジローを見た。コジローは慌てて言った。

「そこまではしなくていいだろう。危ないし。言いたいのは、そばにいるのは身内ではないと意識すること。自分の身は自分で守るという意識を持つこと。俺も自分を抑えられるつもりだから、不必要に刺激しないようにしてくれれば、それでいい」

 アザミは疑わしそうにコジローを見たが、やがて包丁をしまった。コジローは溜息をついた。やはり、色々と問題がある。連れてくるべきではなかったのかとも思うが、あそこで突き放すことは出来なかった。まあ、これも運命なのだろう。コジローはそう思うことにした。

「今日の予定は?」

 アザミが聞いてきた。それなりに納得したらしい。

「朝飯を食って、ここを少し片付ける。11時にはウンディーネに行って、おまえを紹介して、そこからは俺は仕事だ。おまえはどうする?」

「小物売りは夕方からだから、ここの掃除を続けるよ。コジローは気にしなくていい」

「わかった。じゃあ、朝飯だな」

「公園で食べよう。天気もいいし」

 コジローは頷いた。着替え始めたコジローに、アザミは言った。

「ぼくもこれから着替えるから、こっちを向くなよ」

 コジローはなぜか、がくーっと疲れた。

「ああ、わかった」


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