微量毒素

黒の魔歌 〜序・破・急〜 p.8


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1 悪夢の始まり
2 待ち伏せ


★ 悪夢の始まり

 記憶の中で、そこはいつも雨が降っている。激しくはないが、絶え間なく降り続く冷たい雨。そこに蟠る、黒い塀に囲まれた巨大な屋敷。その中で、薄紅色の着物を着た少女がこちらを見ている。いけない。あの少女はこの世のものじゃあない。しかし、少女は確固とした実体を備えているようにしか思われない。振り返ると、そこには赤い壁の家がある。2階建ての,その細長い部屋の窓から、水色のキャミソールを着た、浅黒く、溌剌とした顔を見せる少女がいる。その子はコジローに手を振っている。コジローは手を振り返そうとして、自分に振り返す資格があるのかどうか、迷ってしまい、ついに振り返すことができない。寂しそうに手を振るのをやめた少女に、もう一人の面影が被さる。

「エミ...」

 振り向いたコジローの眼に、黒屋敷の薄紅の着物を着たエミが映る。着物の色はいつか真紅に金糸銀糸の豪奢なものに変わり、厚い金色の座布団の上で、エミはお手玉をしている。投げ上げられるお手玉と、つまみあげられるお手玉。おひとおつ。おふたあつ。一定の動作を繰り返し、1ユニットが終わる。習熟しきったその動作は流れるように美しい。ユニット毎に落ちたお手玉はかき集められる。おさらあい。全てのお手玉を片手の甲に乗せることに成功した少女は、コジローを振り向く。その顔は、エミであり、マヤであり、もう一人の名もない少女になる。悲鳴をあげたコジローは、自分が夢を見ていたことに気付く。眼の前にあるのは、白い天井。ただし、右目は何かが乗せられており、開くことができない。

「ここは...?」

 コジローは顔を動かした。枕のすぐ横にアザミの寝顔がある。椅子に座ったまま、突っ伏して寝てしまったらしい。閉じた瞳の下に、涙の後が見える。誰がおまえを泣かしたんだ。俺がそいつをとっちめてやる...

「アザミ?」

 コジロ−は思い出した。すべてを。

「アザミ、大丈夫か?大丈夫なのか?」

 突然揺り起こされたアザミは、少し寄る辺ない表情を見せる。が、次の瞬間、コジローを突き飛ばすような勢いで抱きついてくる。

「コジロー!」

「アザミ、大丈夫か...?」

 自分の問いが意味がなさそうなことを知り、コジローの問いは尻すぼみになる。コジローはアザミの背中を撫で、頭を撫でる。アザミは大丈夫そうだ。俺は?俺はあの時...凄まじい剣。間合いを超えて伸びてきた剣。月の光を浴びて発光するそれが、コジローの肉を切り裂いたことまでは、はっきりと覚えている。

「!」

 コジローはアザミの肩を掴んで引き離した。

「おい、アザミ、あの男は?あの男はこの病院にいるのか?」

 アザミはゆるゆると首を振った。アザミの目が赤くなっている。

「やっぱり、死んだか」

 コジローは自分の手を見た。手応えは十分にあった。殺したと思った。ひょっとしたら、という思いもあったが、自分をだますことは出来ない。

「どこの誰かはわかったのか?」

 アザミはまた首をゆるゆると振った。アザミの目はコジローを見ていない。つらそうなその顔は、コジローから離れようとするかのように斜めになり、目尻から涙が零れ落ちた。

「いなかったの」

「?」

 コジローはアザミの言っていることがわからなかった。

「いなかった?」

「ぼくを連れて行った男の一人が、コジローとぼくをここに連れてきてくれた。喧嘩の怪我だ、と言って、そのままいなくなった。大騒ぎになったけど、ぼくには全然分からない。警察が来たから、あの公園の話をした。警察でいろいろ調べてくれたけど、そんな喧嘩の後はどこにもないって。警察の人がぼくを連れて行ってくれて、あの公園を捜した。見つかったけど、喧嘩の後は何もなかった。私は、縛られていた木に、コジローの投げた釘の1個が刺さって、木が振動したのを覚えていた。木の上の方を見たら、刺さってたよ。コジローの釘が」

 アザミはつらそうに言った。

「でも、誰も信じてくれない。あの人たちが何だったのか、もう安心していいのかどうかもわかんない。私はずっとコジローについてた。離れるのが怖かった。あんまり聞かれるんで、小夜子さんの名前を出して、来てもらった。迷惑かけたくなかったんだけど」

 アザミ一人で全てをこなすのは大変だったろう。聡明だとはいえ、ようやく16になったばかりのこの子が。コジローは、のこのこ罠にはまりに行った自分の迂闊さに、腹が立ってしょうがなかった。くだらない自負心が判断を誤らせたのだ。

「ありがとう。大変だったな」

 アザミは笑い、また涙が溢れた。コジローはそっと顔に巻いてある包帯に触れた。

「俺の眼はおしゃかだな」

「...先生は、駄目だって。ぼくの目を取って、って言ったんだけど、駄目だって。どうして?コジローのほうが、ぼくよりずっとみんなのために色々出来るのに、やらなくちゃいけないのに。片目がなかったらどうするの?ぼくの目なんて、いらないのに」

 アザミはそれで泣いていたのだ。

「アザミ...」

 コジローはコジローの膝の上に顔を伏せて泣いているアザミの頭を撫でた。

「だから、言ったろ?人間に、特別大事な人間なんていないんだよ。俺は俺で、アザミはアザミで、一番大事なんだ。アザミだって、やる気があれば何だって出来る。やり方は教わらなくちゃいけないかもしれないけどな」

「違うんだ!」

 アザミはがばと体を起こして、涙を零し続けながら叫んだ。

「コジローは人を殺した。コジローは目を失くした。コジローは、自分が許せなくなる。コジローは、お日様が嫌いになる。コジローは行っちゃいけないんだ。でも僕にはどうすることも出来ない。そしたら僕はどうすればいいの?僕は何が出来るの?」

 アザミの心の中から溢れ出る言葉は、コジローを圧倒した。コジローにはこれから考えなければならないことが山ほどあったが、つまるところ、アザミのこの言葉に集約されるのかもしれない。コジローは、手遅れにならないように、いろいろしなければならないことがある。とりあえず、手始めには、目の前で身も世もなく泣いているこの少女を救わなければならない。コジローはアザミの頬を両手で押さえ、唇を合わせた。

 アザミの眼が大きく広がり、不意に閉じた。世界中の音が消え、コジローも目を閉じた。そこにあるのは、お互いの鼓動。永遠に続くとも思われる、二人だけが分け合う時間が満ちていた。どこかの木の上から、鳥が飛び立つ音が聞こえた。唇が離れ、目を開けると、そこにコジローを見つめる、アザミの顔があった。それはたいそう美しく、コジローの眼に映っていた。アザミはそっと指を唇に触れさせた。

「...コジロー。ぼくに、キスした?」

 コジローは頷いた。アザミはじっと考えて、立ち上がった。

「アザミ?」

「先生を、呼んでこなくちゃ」

 コジローが止めるまもなく、アザミは病室から出て行った。


 アザミが出て行ったドアを見ながら、コジローは考えていた。誰がアザミを攫ったのか。誰がコジローをおびき寄せたのか。あの男たちは何者か。あの男たちに、殺意がなかったわけは何か。誰がコジローとアザミを病院に送ったのか。答えは一切ない。ただひとつ分かっているのは、狙いはコジローであるということだ。

 自分と共に行動するものは、もし、またあの男たちのようなものが襲ってきたら、必ず巻き込まれる。今回はアザミは無事だったが、今度はどうなるかわからない。だとすれば、コジローの取るべき道は一つしかない。一つしか、ないのだ。


 アザミは廊下で、ずっと心配してくれていた看護婦さんに出会った。

「アザミちゃん、どう?コジローくんは目を覚ました?」

「はい。それで先生に伝えようと」

「わかった。すぐ先生に連絡するから。アザミちゃんはコジロー君についていてあげて」

 看護婦さんは慌ててナース・ルームに向かった。アザミは病室には戻らず、玄関の方に向かった。

(天国でも地獄でも、大人でも子供でも、愛でも無関心でも、もうどうでも構わない)

 アザミは外に出て、木の下に行って手を樹皮に押し当てた。そして、気持ちを鎮めようとしたが、うまくいかなかった。

(生でも死でも、天使でも悪魔でも、黒でも白でも、もう、どうでも構わない)

 アザミは、この大き過ぎることを、どう吸収すればいいのかまったく分からなかったし、吸収したほうがいいのかどうかすら分からなかった。そして、自分が幸福なのか不幸なのかすら、今のアザミには分からなかった。



★ 待ち伏せ

 モリは左右に分けられて、ぴっちりと撫でつけられた髪を、さらに神経質に指で撫でつけた。その指先が細かく震えている。目の前にいるコウガを、刺すような眼で睨みつけていた。

「賛成できないな。俺はあんたを止めなきゃいかんのだろう。しかし、あんたの気持ちはわかる。手伝うことは出来ないが、訊かなかったことにする。」

 ゴブジョウも肩まで手を上げた。

「右に同じだ。何も意見はない。好きにすればいい」

 コウガとゴブジョウは出て行った。モリは震える指で、椅子を掴んだ。あの人が死んだ。あの人が。けっして誰にも負けることなどないと思っていたのに。その場に居ればよかったのに。そうすれば、あの小僧をその場で八つ裂きに出来たのに。ゴブジョウの奴、こともあろうに病院まで運んだって…指令なんてどうでもいい。何で殺さなかったのよ。まあ、いいわ。おかげで私の手で殺せるんだから。天国にも、地獄にも行けないくらい、滅茶苦茶に切り刻んでやる。後で誰かが拾おうとしても、絶対に拾い切れないくらいにカラスに食われ、蟻に食われ、身体がひとつになれないようにしてやる。それが、あの人を殺した報い。私から、あの人を奪った報いよ。待っておいで、コジロー。おまえは私が殺す。

 モリの手が動き、白い光が一瞬見えた。モリが再び指を伸ばすと、光は隠れた。あの人が、あの世でおまえに復讐出来るように、私がすぐに送り込んであげる。あの人は、欠片だけになったおまえを、残さず焼き尽くすだろう。だから、待っておいで。今すぐ、私が会いに行くから。おまえを千の破片に変えに行くから。モリは立ち上がり、ドアを開いて消えた。音もなく、空気の流れも乱さず、気配も動かさずに。


 コジローは、深夜そっとベッドを抜け出した。もう、二度とこの町に来ることはない。いつものことだ。そうは思っても、コジローは、たくさんのものをこの町で得て、そして失ったことを忘れることは出来ないだろう。そのすべてを、コジローは背負っていかなければならない。コジローは病院を出て、病院に向かって頭を下げた。挨拶して回らなければならないところはたくさんあるが、コジローはどこも回ることはできない。コジロー自身が何かに狙われているなら、行っただけで迷惑をかけてしまうかもしれないからだ。

 空に見える月は欠け始めているが、光は白く、煌々とあたりを照らしている。その光の外側、漆黒の木の陰で、何かが動いた。コジローはそちらに近づいていった。何かは包んでいるものを開き、顔を見せた。コジローの顔に衝撃が走った。木下闇の中、仄白く見える顔は、アザミだった。

「ったく。ガキなんだから」

 アザミは毛布を落としながら立ち上がった。

「一人で行く気だったんでしょ。バカ。ぼくが何年コジローを見てきてると思ってるんだよ。ぼくを連れていると、ぼくが危ないからって。バカじゃないの」

 コジローは何も言えない。

「ぼくはどうなるんだよ。置いていかれて。ずっと、コジローを待ち続けるの?生きているかも死んでいるかも分からない状態で、待ち続けなきゃならないの?ぼくは死んじゃうよ。そんなことになったらね。だから、連れて行って。コジローの行く先に死があるんだったら、それでもいいから。ぼくがいれば、その死を抑えられるかもしれないだろ。だから、コジロー。連れて行って。ぼくを」

 コジローもこれ以上、アザミの言葉を聞いていることは出来なかった。コジローはアザミに歩み寄り、アザミを抱きしめた。癒すための抱擁ではない、奪い取るための抱擁で、荒く、強く。アザミは、恐怖を感じたが、コジローの囁きで、これが自分たちの行き着くべきところだとわかった。

「アザミ...」

 アザミは限りない安らぎの中に沈みこみながら、コジローの愛を受け入れた。

「ぼくの名前だ...」

 コジローに強く、つよく抱かれながら、アザミはコジローに伝えた。

「それ、ぼくの名前だよ、コジロー...」

 アザミは自分が被っていた毛布の上に横たえられた。コジローはアザミを体中で欲し、アザミは、体中でコジローを欲した。百万言を費やしても足りない思いが絡み合い、今、二人は一つになった。


「対象が出てきました。今、女に引っかかっています」

「わかった。すぐに行くわ。30分で行く」

 電話を切り、モリは口の両端をきゅっと吊り上げて笑った。歯が白く、肉食獣のように光る。

「いよいよ、お楽しみの始まりだわ。待っててね、アオ」

 モリは弄んでいた丸い金属のケースをずらすように握る。すると、側面から、刃が左右に飛び出した。再びずらすと、刃は仕舞い込まれた。サークル・ナイフである。刃の仕舞われたサークル・ナイフは、しゃれたコンパクトのようにも見える。モリはそれをバッグに落とし込み、滑るように部屋を出て行った。


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