微量毒素

黒の魔歌 〜夢幻〜 p.2

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 キスゲは不機嫌そうにマウスを押しやった。ディスプレイの光を受けて、眉間のしわが、深く刻まれたように見える。横で立ったままコーヒーを飲んでいたプラタナスが言った。

「どうしたんだ、キスゲ。珍しく感情が見えているぞ。」

「何よ、それ。皮肉にしちゃ、生彩がないわよ。」

「皮肉じゃない。率直な感想だ。なにかまずいことでもあるのか?」

「それがね。わかんないのよ。まずいと感じる理由が。他の連中と変わらないように見えるのに...」

「きょうはラッキーだな。ここしばらく聞けなかった、キスゲ嬢の弱音を聞けるとは。」

「ぜんぜんラッキーじゃないわよ。なんでわかんないんだろう。」キスゲは髪をかき乱した。乱れた髪のままで、ディスプレイに見入っている。無意識に左手の親指の爪を噛んでいる。右手の爪がぼろぼろなのを見ると、かなり嵌りこんでいるらしい。爪を噛んでいる姿は、まるで途方にくれた幼子のように見える。

「なんなら、私が見てやろうか?ひょっとしたら、あんたの気付いてないことに気付くかもしれん。」キスゲはきつい目をプラタナスに向けた。しばらく値踏みするように見つめた後で、言った。

「...そうね。お願いするわ。」
プラタナスは、これにはほんとうに驚いた。悪口雑言の嵐が襲ってくると思っていたのだ。キスゲが他人に仕事をみてもらうとは、やはり尋常ではない事態なのかもしれない。プラタナスは気を引き締めた。しかし、ここで変に気を使うと、今度こそたたき出される。たたき出されても痛くも痒くもないが、失うには惜しい、仕事中の気晴らしのひとつを諦めなければならなくなってしまう。プラタナスは黙って、キスゲの空けてくれたディスプレイに向かった。しばらくコンピュータを操った後で、プラタナスは言った。

「俺にはそんなに問題があるようには見えないが。あんたの作った分析シートは非常によく出来ているし、わかりやすい。見落としはしていないつもりだが、問題は見えない。」

「やっぱり、そうよね。」キスゲはプラタナスの脇に立ち、指で画面をなぞるようにした。この部屋は、けっこう広いのだが、椅子は一つしかない。複数の人間が作業することを想定していないのだ。キスゲはキャミソールの上に、黒い色の薄いカーディガンを羽織っている。マニッシュな仕立てのパンツは黒の縦縞で、全体的に男性的な服装であるがこうして立っていると、細い身体は、かえって華奢に感じられる。

「すまん。役に立てなくて。」
 場所を空けながらプラタナスが言うと、キスゲはプラタナスを見た。
「なんでだろう。なんでまずいって感じるんだろう。」

 キスゲはまだ、自分に頼ってきている。プラタナスは奇異な感じを覚えた。自分に自信をなくしている?いや、自分に自信があるからこそ、理解できないのが納得できないのだろう。しかし、プラタナスが見た限りでは、プランのどこにも齟齬は見つからなかった。だからこそ、キスゲの状態が理解できないのである。

「私のみる限りでは、プランに問題はない。もし問題があるとしても、プランのほうを眺めていては、見つからないだろう。」

「それは、そうかもしれないわね。」

「この上、問題点を追うなら、元のデータに戻って拾ってみるしかないんじゃないか?ただ、やる価値があるかどうかは疑問だ。莫大な工数がかかるぞ。」

「そうね。」

 キスゲは、プラタナスの方を見ずにうなづいた。そうね、が工数がかかるからやめるというのか、元のデータを一つ一つ当たってみるということのどちらなんだろうとプラタナスは思ったが、これ以上はキスゲの領域であり、聞くわけにはいかない。

「あまり、無理をするなよ。」
 プラタナスは声をかけ、コーヒーのカップを握りつぶしながらへやを出た。その背後に、キスゲの声がかかった。

「助かったわ。」
 プラタナスは、閉まったドアをしばらくみつめ、首を振って言った。
「どう、いたしまして。」

 閉ざされた扉の内側では、キスゲが悩ましい目をディスプレイに向け、爪を噛んでいた。
「こいつの動き、やっぱりまずそう。何でなんだろう。説明できないのに...」

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