ノックの音がしたので、プラタナスは入ってくるように声をかけた。ドアが細めに開き、キスゲが顔を半分だけのぞかせた。
「今、いい?」
プラタナスは作業中だったが、それほど緊急のものでもなかったので、途中で切り上げることにした。キスゲがプラタナスの執務室にくるのは、初めてだったのである。何か、聞くだけのことはあるはずである。
「作業中だが、かまわない。何か話があるのか?」
「ごめんね、作業を中断させて。」
「中断してまずいものなら、そう言っている。気にしなくていい。」
キスゲは部屋の中を見回した。すべてが整理整頓されている。キスゲの部屋も整理はされているが、もう少し荒い。それより気付いたのが、飾り物の類がいっさいないこと。業務に関係のないものはひとつもないのだ。
「きれいなへやね。」
「片付いた、という意味だろう。居心地はあんたの部屋のほうがいい。」
「そうなの?」プラタナスはばつが悪そうに言った。
「残念ながら、私には、部屋を心地よく整える感覚がないらしい。」
「私だって、特に意識して整えているつもりはないけど。」
でも、確かにこの部屋は人間を拒否しているように感じる。私もそういう傾向はあるけど。キスゲは思い、そこでプラタナスに仕事を中断させて入ることを思い出した。
「ごめんなさい、無駄話して。この前の76301号の件なんだけど。」
「ああ、ムサシ、という男だな。あんたが何か引っ掛かると言っていた。」
「ええ。」
「なにか、理由がわかったのかな。」
「いいえ。アドバイスをもらったでしょ。それで、元データに当たってみたんだけど。」
「元データに。」
プラタナスは驚いた。莫大な量のデータであるはずだ。しかも、ほとんどは、まったく重要性のない日常のデータである。
「もちろん、ぜんぶは見られないから、ランダムに抜き取って見たり、いろいろな要因で層別してみたり。もう、久しぶりにいろいろな分析手法を試しまくってみたのよ。」
「それで?」
「言ったでしょ、だめ。理由がわかるようなものは見つからなかった。」
「やっぱり、気のせいなんじゃないか?」
つい、頭に浮かんだ考えを口にしてしまった。
「プーさん、あなたがそんなこと言うの?気のせいなんて、この分析クルーの中ではありえないんでしょ。」
キスゲの言うとおり、ここの分析クルーは、あらゆる分析を行うエキスパートである。この中では、気のせいなどということはあり得ない。すべての事象に原因と結果の因果系を見つけ出すのが仕事なのである。この分析は、あまりに洗練されているため、もっとも先端の部分では、個人の特性によって得意、不得意が出てきてしまう。Aさんの視点と、Bさんの視点は微妙にずれており、見える部分が違ってくるため、異なる結論が出ることがある。そのような場合は、両者で視点の調整を行い、お互いが共通認識を持てるまで検討する。その結果、因果系は一つに収束し、二人は新たな視点を持つことができるのだ。このように磨き上げられてきた分析者が、気のせいなどというものを認めることはない。ほとんどの場合、因果系を見通せるのだから。これは、キスゲの入所時に、プラタナスが説明したことだ。
「その通りだ。まったく、よく覚えてるな。」
「印象に残ったから...全ての因果系を見通すなんて、私の力を発揮できる場所はここにあると思えたわ。」
「でもな、それで、今、おまえが本当に幸せになったのかどうか...」
また失言。キスゲが驚いたような目で見ている。プラタナスは深い自己嫌悪に襲われた。まったく、俺はどうかしている。
「...あなたが連れてきたのよ。」
「わかっている。済まない。今日はかなりおかしいようだ。あまり、こんなことはないんだが。」
「プーさんは、間違ったり悩んだりしないと思ってた。」
「馬鹿言うな。俺も人間だ。逆に人並み以上に迷走してるさ。あんたもそうだろうが。」
「あたし...?」
キスゲは胸に手を当てた。その様子を見ながら、プラタナスは、胸に手を当ててよく考えてみろ、って言う言葉は経験則なのか、ととりとめのないことを考えていた。
「迷走しているから、雨の中で座り込んでいたんだろう。」
「...あたし。」
また失言。どうかしてる。もうやめて、話を戻そう。キスゲはプラタナスを見つめている。プラタナスはその瞳を受け止められない。目をそらしたまま、言う。
「...それで、結局、ムサシのことはどうなったんだ。」
キスゲは目が覚めたように言った。
「あ、ああ。そう、ムサシのどこが引っ掛かるのか、私にはわからなかった。プーさんにも見てもらったけど、たぶん私以外の人間にはわかりそうもないの。」
「八方塞がりだな。」
「だから、備えを持つことにしたの。」
「備え?」
「ほら、モリさんの執着してた、37002号を、何かあったときの抑えにしたいの。」
「...コジローか。他のものでは?」
「けっこう、みんな、いろいろな人のプランに組み込まれちゃってるでしょ。コジローさんは、ここに来て取り込む人間だから、まだフリーなのよ。」
「モリはどうする?」
「とりあえず、わからないようにしておくしかないわよね...うん、ちょっと考えてみる。ありがとう。プーさんに話したことで、だいぶ方針が掴めてきた。また組み上げてみる。」
キスゲは、もう一度部屋の中を見回した。ほんとうに殺風景である。プラタナスに目をやる。プラタナスはキスゲの話を待っている。
「とりあえず、これだけ。」
「少しは役に立てたようだな。」
「うん。ありがと」
キスゲはドアのところに行き、ドアを開けた。外に出て、ドアを閉じかけ、止まる。目を落として、逡巡していたが、少し目を上げてプラタナスの方を見ながら言った。
「これからも、時々来ていいかな。」
プラタナスは、少し驚きながらも答えた。
「ああ、ぜんぜんかまわん。もっとも、作業が入っているとお相手はできないが。」
「ええ、それはわかってる。自分もそうだから。じゃ。今度は何か、お土産を持ってくるね。」
キスゲはドアを閉めた。プラタナスは、なんとなしに砂糖菓子のことを考えた。甘く、壊れやすく、美しい菓子。それは、この建物全体に、そぐわない想像だった。
《お菓子の家に入った子供は食べられちゃうんだ。》プラタナスの頭の中に、昔の、ずっと昔の自分の考えていたことが、不意に蘇った。《だから、頭を使って、逃げ出すやり方を考え出さないと。》
プラタナスは突然襲ってきた、激しい恐怖にとまどった。おれはおとなだ。おとぎ話でこわがることはない。しかし、その恐怖はプラタナスの心臓をしっかりと締め上げ、なかなか去ろうとはしてくれなかった。
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