黒の魔歌 〜夢幻〜 p.5
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千春は、ようやく台所の後始末が終わり、腰を伸ばした。もう12時近い。きょうはお客が何人かあり、その酒肴を用意したので、こんな時間になってしまった。
《それにしても》と、千春は思う。ここ何日か、泊まっている若い男は何なんだろう。まだ若いのに、こんなやくざのうちに来て。後は生ゴミを裏のゴミ箱に持っていけば、すべて終わる。そうしたらお風呂に入って、さっさと寝よう。
髪で顔を隠している。ちらと見えたけど、顔にすごい傷があるみたい。やっぱり、やくざなのかしら。あの歳であんな傷。でも。バケツを持ち上げる。けっこう重いけど、これくらい、いつも、通り。勢いをつけて、裏口へ向かう。でも、なんか雰囲気が違う。この家の主人とか、よくくる舎弟(って言うんでしょうね)の男たちとは。なんか。
バケツをいったん下ろし、ドアを開ける。暗い。常時灯があるけど、かえって暗さが際立っている。ああ、きょうは、お月様が隠れてるんだわ。昼間から曇ってたから。バケツを持ち上げて外に運び出し、ドアを閉める。台所からの明かりがなくなり、一瞬足元がわからない。ああ、大丈夫。これが一つ目の踏み石だ。千春はサンダルの下に、慣れた感触を探り出し、自分の位置を確認した。あとは、これを、裏口の、脇まで、持って、行けば。行けば、でちょうど裏口にたどりつく。これも、いつも通り。バケツの位置を定めて、手を離す。手にバケツの持ち手の型がついている。早く戻してやりたいので、両手を振る。足裏で踏み石を確かめながら、台所に戻る。
なんか、高級なぶどうとか、桃みたいな感じ。これでもか、っていうくらいに綺麗な表面で、さわると、傷をつけちゃいそうでこわい感じ。ここの連中は、岩みたいで、傷つけても大丈夫そうなのに、やっぱり、違う感じ。こんなところにいていいのかねえ。最近、物騒な話も聞こえてくるし。台所のドアを開け、入ろうとした千春の肩に、手がかかった。
「なんかよう、きょうみたいな日は落ち着かなくってなあ。」
コジローは壁に寄りかかり、片膝を立て、膝の上に両手を重ねている。大野の声を聞きながら、暗い間接照明の中で、あらぬかたを眺めている。
「こういうのは、俺だけじゃないんだろうなあ。」
コジローは、大野に目を向けた。
「何か、来そうだってことか?」
「やあ、そこまでは言わんが、何事も慎重になるに越したことはないっちゅうか、まあ、そういうこった。」
「なんであんたが、こんなに真田さんに信頼されているのかわかってきたな。」
「はて、なんのことやら。ま、何かあったら、それなりによろしくな。」
コジローは口の端で微笑んだ。大野もそれきり黙っている。ふと、コジローが顔をあげた。
「なにか、来たな。」
「なに?」大野は腰を浮かす。
「冗談、なんて言うたら許さんぞ。」
「裏の方かな。まだわからん。とりあえず、ボスのところへ行け。」
「わかった。」くだくだ言わずに行動するところが頼もしい。コジローは裏に向かって見ることにした。
千春は震えていた。目の前に拳銃を突きつけられ、もう一人に手足を縛られているのだ。すでに口にはさるぐつわを噛まされている。
「静かにしとけや。静かにしとけば、これ以上のことはせん。」
拳銃を構えている男は声を抑えて言った。千春は慌ててうなづいた。何人いるのだろう。10人くらいの男が入り込んできたようだ。千春の手足を縛った男は、縛り終わるとにやりと笑い、千春のスカートを捲り上げた。
「...!」
千春の目に恐怖が走る。千春の身体に手を伸ばそうとした男に、拳銃を持った男がいらだったように言った。
「いいかげんにしとけ。何しに来たと思ってんだ。」
「ああ、わかったよ。」スカートを捲り上げ、下着を剥き出しにした男は、千春の尻を撫でまわし、名残惜しそうに立ち上がった。拳銃を持った男が、入ってきた全員に向かって言った。
「表の連中が動いて、騒ぎが始まったら、こっちが真田んとこに突っ込む。間違いなく、真田は殺れよ。」
「おりゃあ、大野をやりてえ。あいつには恨みがあるんで。」
「好きにしろ。だがな、ぜんぶ真田をとった後だ。わかってんだろうな。」
同意の声があがった。
「よし。じゃあ、このまま待つ。そんなに待たないはずだ。」
「その間、この姉ちゃんを可愛がってちゃだめかい?」
「ばかやろう。一秒遅れりゃこっちの命取りだ。やめとけ。」
千春は恐怖に震えていた。やっぱり、お給料がよくても、こんな家に勤めちゃいけない。もし、生きて帰れたら、絶対にやめてやると思っていた。そう思いながら、千春は男たちの数を数えていた。6人。ということは、どこかに何人か行っているのか。
「真田は自分の部屋にいるはずだ。打合せどおり...」
ここまで言ったところで、男は言葉を止め、拳銃を持った手を見た。手の甲に棒のようなものが生えている。男は手を返し、掌のほうを見る。
「つ、突き抜けてる」男は拳銃を取り落とした。
「びびってんじゃねえ。」
吹き抜ける風のように、コジローが飛び込んできた。銃を流しの下に蹴りこみ、身体を返したと見る間に、二人の男がのけぞっていた。慌てて拳銃を向ける別の男の手に、またナイフが刺さる。
「こなくそっ!」掌を貫通したナイフの痛みをこらえ、左手で引き金をしぼろうとする男の手に、大根が飛び、銃がはじかれる。一人を蹴り飛ばして、近づいたコジローは、銃をつかみ、男の頭を殴る。振り向きざまにナイフを飛ばし、もう一人の男の掌を壁に縫い付ける。構えかけていた拳銃を落とし、男は縫い付けられた左手に右手を伸ばす。
「まったく、ナイフが貫通しても向かってきた、このおやじくらいの根性を見せてくれよ。」
コジローはしゃべりながら近づき、男の腹に銃把をぶち込む。倒れこむ男の掌からナイフを引き抜き、銃を拾い、流しの下に投げ込んだ。とりあえず、へやの中で動いているのはコジローしかいない。コジローは千春を見つけ、急ぎ足で近寄った。
「大丈夫か、おばさん。」
千春の目に恐怖の表情が浮かんだ。コジローが振り向くと、スキンヘッドの男が引きつったように笑いながら、コジローに狙いをつけていた。コジローが千春をかばうようにかぶさったが、銃声はしない。コジローが振り向くと、スキンヘッドの男が崩れ落ちてゆくところだった。その後ろから、見知った顔が現れた。
「大丈夫っすか。大野さんに言われて来ました。」
「堀口さん。助かったよ。」
堀口は回りを見回して、言った。
「いや、すげえな。ぜんぶコジローさんが?」
「とりあえず、動けないようにしてある。後を頼めるか。」
「縛ってでもおきますか。」
「頼む。」
コジローは千春のスカートを直し、抱き起こして、さるぐつわを外した。
「まだ、2−3人、外に。」千春は息をするのももどかしく、言った。コジローの眉がぴくりと動いた。
「さんきゅ。」
コジローは千春の手足の縛めをナイフですばやく切り、壁によりかからせて、勝手口に向かった。外の様子をうかがい、音のしないように開けて、するりと出て行った。千春は起き上がり、母屋の方に逃げようかと思ったが、コジローのことが気になり、けっきょく勝手口のほうに向かった。こわごわと覗こうとする千春の前に、コジローがあらわれた。
「こら、そんなとこで覗いてたら危ないぞ。」
「大丈夫かと思って。」
「心配してくれたのか。ありがとうよ、おばちゃん。」
「千春。」
「ああ、ごめん。千春さん。とりあえず、裏にはもう誰もいない。今のうちに出て行ったほうがいい。」
「あ、さっきの男が言ってたんだけど、表の連中が動いてから、真田さんを狙うって。」
「陽動か。ありがとう、千春さん。だったらなおさら、今のうちに出ていきな。」
「...大丈夫?」
「おれは大丈夫。さあ、急いで。裏口まではエスコートしてくから。」
コジローに手を引かれ、千春は裏口への道を急いだ。コジローが裏のドアから外を窺い、千春を送り出す。戻ろうとするコジローの手を、千春はつかんだ。
「?」
「気をつけて...」
「さんきゅ、千春さん。」
コジローはニッと笑って言い、屋敷の中に消えていった。千春はあたりの気配に怯えながら、とりあえず、屋敷から離れた。真田さんがかんかんに怒るだろうから、警察には行けないし、とりあえずの行先に困った千春は、駅に行ってみることにした。小走りで駅に向かいながら、別れ際のコジローの笑顔を思い出した。こんな物騒なお屋敷なんて、お手伝いさんの来手があるわけないし、もうしばらく勤めてあげるのもいいかな、などと千春は思っていた。
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