「ほんとうに、もう行っちゃうんですか。」
千春はコジローの荷物を見ながら言った。
「ああ、お世話になりました、千春さん。」
乱闘の一夜が明け、警察が来ていろいろと騒がしかったようだが、何とか一方的な襲撃事件ということで、真田側が罪に問われることもなく、片がついた。襲撃側が拳銃を所持しており、真田側に武器の準備がなかったという点が、大きく警察の判断に影響した面もある。
コジロー自身は、ごたごたが片付くまで、ホテルに住まわされていた。同じホテルに千春も滞在しており、何かと面倒を見に来て、コジローはかなり困惑させられた。買い物にも付き合わされ、コジローはかなり参っていた。
ようやく警官の取り調べも落ち着き、警備も外れてから、コジローは屋敷に戻った。その時、コジローは武器の件を真田に聞いたが、真田は笑って言った。
「蛇の道はへび、ってやつでな。まあ、必要になればどこからともなく、たっぷりと出てくることになってるのさ。まあ、詳しくは言わんがな。」
千春はコジローといっしょに、屋敷に戻ってきていた。
「こんな危ないお屋敷に勤めようってお手伝いさんが、そうそういるわけないでしょ。次の人が見つかるまで、とりあえず面倒見させてもらうから、早くいいお手伝いさんを捜してくださいね。」
千春に言われて、真田を頭を下げた。慌てる千春に礼を言い、千春は今しばらく、真田の屋敷の面倒を見ることになった。
それなりの金を真田から受け取り、コジローは出てゆくことにした。ここに長居すれば、またこのうちに迷惑がかかることになる。コジローはそう思っていた。アザミと一緒にいたとき、いつも監視している目があった。たぶん、今も。その目はコジローに害意を持っている。そして、コジロー自身、人を殺している。傷のあるものが、ひとところに長い間いれば、必ず何かが起きてしまう。食いつなげる金があれば、どこまでもさすらい、金がなくなったら金を手に入れる。コジローはそうして生きていくしかないのだ。
「まったく、あんなに危なっかしいのに、何を考えて一人になりたがるんだか...」
涙交じりに見送る千春の横で、真田は憂鬱そうに遠ざかるコジローの背を眺めていた。真田は、後ろを向き、大野と目を合わせた。真田は目をふせ、大野は頬をひくつかせ、慌ててごしごしと手の甲でこすった。真田は千春の肩を軽くたたき、屋敷に入った。千春も続いて門をくぐり、見送っていた者たちは、三々五々、屋敷に戻っていった。大野はしばらく考えているようだったが、門には入らず、外にむかって歩き出した。
|
  |
「よお。」
町の外れで、コジローは声をかけられた。コジローが振り向くと、大野が立っていた。
「大野さん。こんなところで何を...」
「いやあ、な。おまえさんが行っちまうんで、ちょいと、別れの盃でも、なんてな。」
大野は相変わらず飄々としている。
「何を...おれは酒なんて飲めないし。」
「ばっきゃろ、嬉しいって顔に書いてあんぞ。無理はしちゃいかん。さあ、来い。馴染みの酒屋がある。」
抗議するコジローの肩を抱くように、大野は町のほうに向かった。
|
  |
「まあ、こちらハンサムなのに、お顔の傷が大変ね。」
「そうよね。大野さんなら、傷がついてても変わんないのにね。」
「おめーら、たいがいにしとけよ。犯すぞ。」
「きゃー、こわい。こちら、セクハラよん。」
「あーん、犯されたいン。」
「さあ、飲んで、お兄さん。飲んでもらわないとお店の売上にならないのよお。」
「あ、でも俺は...」
「何よ、あたしのお酌が不満だってえの?犯すわよ、こらぁ。」
しかたなく、コジローは注がれた酒に口をつけた。洋酒の味が口の中に広がる。酒を飲みつけないコジローには、けっこうきつい刺激だった。両側には甘い匂いのする女性がぴったりと貼りつき、下手をするとおつまみまで口に入れてくれる。
まるでピンクの霧に巻かれているような気分だったが、この二人からは懐かしい気配を感じてしまう。以前に返しようもないほどの恩を受け、大事な人を託した女性の気配が。それがコジローを忘我から救ってくれているが、また、その懐かしさが、また別の夢見心地にコジローを誘う。けっこう飲まされて、コジローは足元もおぼつかなくなるほど酔ってしまった。
頬にぶちゅっとキスをされ、ハートに似た形の口紅の後をつけて、コジローと大野は送り出された。夜道の風が、火照った身体に心地よい。
「大野さん、あれが別れの盃かい。おれはまた、静かな酒屋で、しんみりと交わすもんだと思ってたよ。」
「辛気臭いのは嫌いなんだよ。あれぐらい賑やかでちょうどいいやな。」
「それにしたって...ありゃ行き過ぎだろ。」
「いやいや、もう何軒か梯子したいくらいなんだが。」
「勘弁してくれ。もうだめだ。」
「そうか。なら、ここらでお別れするか。」大野の語調が不意に変わった。
「大野さん?」
大野は黙って立っている。街灯を背負っており、表情は見えない。
「大野さん、いったい...」
突然、大野は大声をあげ、ふところから出したものを腰だめにし、コジローに向かって突っ込んできた。コジローは目の前の光景を見ていながら、何が起きているのかがまったく理解できなかった。
「大野...」コジローが言いかけたところで、大野の身体がコジローにぶつかってきた。大野の手元で光を受けたものがきらめき、刃物らしいと知れた。酒を飲んでいたせいで、コジローの身体が勝手に動き、大野の手を押さえ、次に大野を跳ね飛ばした。大野は地面に転がった。
「大野さん...?」
コジローはまだ状況が飲み込めなかった。
「ああ...」擦れた声で、大野が言った。大野の体の下から、黒いものが拡がっていた。暗くてわからないが、臭いで血と知れた。
「大野さん、あんた...」
「ああ。見事に切腹だあ。ま、しょうがないこった。」
コジローの頭に、ようやく事と次第が飲み込めてきた。大野はコジローを殺そうとしたのだ。
「真田に俺をやれと言われたのか?」
「ああ、おまえは危険すぎるんだって、兄貴がな...まあ、俺にも意見があったんだがな。」
大野が苦しい息の下から語る言葉に、コジローは言う言葉を持たなかった。大野の背広の内ポケットから、携帯電話が滑り落ちた。コジローはそれに飛びつき、真田の家の番号を押した。呼び出し音が鳴る。
「けどよ、やっぱり失敗したな。まあ、俺がいけなかったら、もうおまえに手は出さないでくれって、兄貴には言っといたから、もう来ねえだろう。」
真田が出た。
「大野か?」
「大野さんが危ない、早く...」
「コジローさんか。」
「誰か、人をよこしてくれ。場所は、キャバレー・ユラの前の道を、はずれに向かうところだ。とにかく...」
言いながら、コジローは大野を見た。大野は片手をあげた。コジローは大野の横にひざまずいた。大野は力のない手で、コジローの膝をたたいた。真田が耳元で喋っているが、コジローの耳には入ってこない。
「だけどよ、おまえもあんまり長生きしそうもないよな。あっちで待ってるからよ。早く来いよな。」
一つしかないコジローの目が大きく開く。大野の手が、ぐらりと落ちる。コジローは大野の肩に手をかける。もう生命の兆候はなかった。裏通りに風が吹く。また一つの魂が、コジローの元から去った。
|
  |
真田が駆けつけてきたときには、コジローの姿はなかった。壁に立てかけられた大野の姿は、まだ生きているかのようだった。真田は、何も言わず、町の外れに向かう、暗い道の先を見つめた。言葉が真田の口から零れる。
「すまない...」
それが誰に向けられたのか、知る術はない。
|
  |
コジローは、飲み屋も店を閉めた、真夜中の街を歩いている。木枯らしが吹き荒んでいるが、コジローの耳には入っていない。コジローの耳には、大野の最後の言葉が繰返しこだましている。
《だけどよ、おまえもあんまり長生きしそうもないよな。あっちで待ってるからよ。早く来いよな。》
「やなこった...。」コジローは呟いた。
《あなたは死神。人を殺すのが務めよ。》女の声が重なる。
コジローは歩いてゆく。闇の中へ。さらに濃く、目の前の掌さえ見えない闇の中へ。
|