微量毒素

黒の魔歌 〜夢幻〜 p.9

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 キスゲは乱暴にファイルを閉じた。ファイルの後ろに貼りついていた資料が一枚、ひらひらと宙を舞う。キスゲはそれを睨みつけ、空中を舞うそれを乱暴につかんだ。ファイルの上に叩きつけるようにその紙を置き、押しやった。

「うー、いらいらする。うへへ、お嬢さん、あの日かい。死ね、おやじ。」キスゲは下品な一人漫才をしながら、引出しを開けた。

「なんで、こんなに自虐的な気分が維持できるのよ、あたしったら!」引き出しを乱暴にさぐり、チョコレ−トの箱を引っ張り出す。中は空だ。キスゲは箱を思い切り振りかぶり、ドアの方に向けて投げつけた。ドアの横の壁にぶつかって、力なく落ちる箱をしばらく燃えるような瞳で見つめ、キスゲは机に突っ伏した。そのキスゲの口から、うめくような言葉が漏れた。

「プラタナスのくそやろー」

 自分の口から漏れたことばに、キスゲははっと身を起こした。
「何よ、これ。なんなのよ、キスゲさん。」

 キスゲは両手の指を互い違いに組み、親指を両のこめかみに押し当て、しばらくそのままの姿勢でいた。

「なんで、愛想をつかした相手を、ののしらなけりゃならないのよ。もう、切り捨てたんじゃなかったの、キスゲさん。」
 机の上に、しずくが落ちた。

「ばかね、キスゲさん。あんた、いったい何をどうしたいのよ。ちゃんと考えれば、簡単に道筋は見えてくるはずでしょ。」
 キスゲは動かない。
「...だめだ。見えない。なにも。」

 キスゲは顔をあげた。
「何か食べなくちゃ。血糖値が低いからよ。だからいい考えが浮かばないんだわ。」
 キスゲは机の中を引っかきまわした。

「これは...消しゴム。あ、キャラメル?ガムだ。ガムはだめ。噛んでいると、物事を斜めに考えちゃうから。ないかな...あ、すこんぶ。」

 キスゲはすこんぶを出し、口に入れた。眉間にしわがよる。
「う...すっぱい...でもおかげで頭がすっきりしたみたい。」

 キスゲはすこんぶをくちゃくちゃ噛みながら、検討を始めた。
「問題は、まずはこのいらいらね。原因は...はっきりしてるわね。プーさんの部屋で、ヒステリーを起こしてからだから、プーさんの言葉が気に入らなかったのよ、あたしは。では、なぜ気に入らなかったのか?」

 キスゲはいすに座ったまま、椅子をくるくるを回しながら考えている。すこんぶの酸っぱさが薄れてきたので、さらにもう一枚を投入する。思い切り、酸っぱい顔をしたまま、キスゲは真剣に考えている。
「考えられる要因を挙げてみよう。相手と会話がかみ合わなかったから。そんなの、話が終われば忘れるわね。相手が自分を侮辱したから。侮辱ととれば、取れないことはないわね。でも、仕返しをするほどの気になるものじゃない。相手が好きなのに、わかってもらえないから。これもないわね。少なくとも、好き、ではないわ。相手の馬鹿さ加減が我慢できないほどだったから。これがかなり近いんだけど、これは切り捨てればいいこと。思い切り罵って、後は忘れてしまえばいい。」

 キスゲは3枚目のすこんぶを口に入れた。
「す、すっぱー。相手との会話がきっかけで、こんなにいらつく原因なんて、思いつかないな...相手の言葉に触発されてのことだから、レベルが同じくらいの相手でないと、起きないわよね。プーさんなら、間違いなくその対象だわ。ここは問題ない。」

 キスゲは、すこんぶ3枚を口の中でもぎゅもぎゅと噛みながら、思考を進める。いいかげん、邪魔になってきたので、すこんぶを飲み下す。一気に飲もうとしたので、咽喉につっかえそうになり、むせる。何とか咽喉を通過させて、キスゲは新しいすこんぶを唇にはさむ。

「やっぱり、少しは認めていた相手が、思いもかけない馬鹿さ加減を晒したから、失望と怒りを感じていらついている、ってのがいちばん近いな...でも、それなら切り捨てれば大丈夫のはず。切り捨てられないとしたら、それは。」
 キスゲは顔を上下に振り、唇にはさんだすこんぶを、びょんびょんと振り回した。あごと鼻にすこんぶの端がぴたぴたと当たり、白い結晶がつく。やがて、キスゲは動きを止め、宙をにらむ。

「それは、切り捨てられないから。」
 キスゲはまだ、宙空をにらんでいる。

「切り捨てられないのは。」
 キスゲは無意識に、唇にはさんでいたすこんぶを唇をむにゅむにゅと動かして、口の中に送り込んだ。

「切り捨てられないのは。」
 すこんぶの酸っぱさに顔をしかめながら、キスゲは自分の内面を覗き込む。

「...プーさんが私を理解していてくれるからだわ。」
 キスゲの瞳に、淡い哀しみがやどった。

「今まで、プーさん以外に、私をほんとうに理解してくれた人はいない。表面上合わせるだけでなく、内側まできちんと理解してくれた人は。だから、私はプーさんが切り捨てられないんだ...」

 キスゲはすこんぶの箱をとり、弄びながら思考を進める。
「これまでだけでなく、これからも、プーさんみたいに私を理解してくれる人はいないだろう。だとしたら、私のするべきことは。」

 キスゲは立ち上がり、すこんぶの箱を高く掲げて言った。
「プーさんに謝って、仲直りすることだわ。」

 キスゲは、机の前を離れ、歩き始めた。もちろん、プラタナスの部屋に行くためである。途中、無意識に壁の鏡に目をやってから、扉に向かう。今、一瞬変なものを見たような気がして、キスゲは立ち止まった。少し考え、向き直って鏡の前に戻る。鏡を覗き込むと、鼻とあごに、白いものをまぶしたキスゲの顔が映っていた。
「だははははっ」
 我にもなく、キスゲは爆笑してしまった。今まで、こんな顔をして、深刻に悩んでいたのだろうか。キスゲはすこんぶの結晶を拭いもせず、そのまま扉を開け、出て行った。

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