突然、扉をどんどんと叩かれ、プラタナスは眉をひそめた。こんな叩き方をする人間に心当たりはない。不快な気持ちを感じながら、尖った声で言った。
「誰だ?用があるなら、鍵はかかっていない。」
ひめやかな笑いとともに、キスゲが滑り込んできた。プラタナスは虚をつかれた。キスゲは顔を伏せたまま、プラタナスのそばに来た。
「ど、どうした?何かあったのか?」
キスゲは答えず、さらにプラタナスに近寄った。かすかに酸っぱいような匂いがする。
「キスゲ...?」
プラタナスの困惑した顔に、キスゲは息がかかるほど近づき、顔をあげた。
「...キスゲ...その顔は。」
「す」
「す?」
「すこんぶ。」言うなり、キスゲは笑い出した。プラタナスにしがみつき、笑いつづける。
「すこんぶか。」プラタナスは、その結晶の正体を知った。しかし、だから、なんで?しがみつくキスゲに困惑しながら、プラタナスの思考は止まったままである。冷たいキスゲの手が、プラタナスの肌を泡立たせる。
「キ、キスゲ。落ち着いて、説明してくれ...」言いながらキスゲの二の腕を押さえ、キスゲの身体を離した。
「!」キスゲの顔を見るなり、プラタナスは言葉を失った。キスゲの瞳からは、透明な涙が零れ落ちていた。
「...どうしたんだ、キスゲ。」
キスゲは笑いながら、涙を流し、プラタナスに目を合わせない。プラタナスはキスゲの身体を軽く揺すった。
「どうしたんだ。」キスゲの瞳が、突然プラタナスの目の奥を覗き込んできた。涙は流し続けながら、笑うのをやめ、キスゲは言った。
「...ごめんなさい...」
「いったい、何を...」
「ひどいこと言ったわ。プーさんが悪いわけじゃないのに。」
「いや、あれは俺が立ち入りすぎたんだ。俺のほうが悪かった。」
「...あれ。」
キスゲはへやの一角を指差した。プラタナスは振り向かなくても、キスゲの指しているものがわかった。
「とりあえず、飾らせてもらっている。飾り方が正しいのかどうか、わからないが。」
「ごめんなさい、プーさん。」
「だから謝ることはない。おまえは何も悪くないんだから。」
突然、キスゲの涙は止まり、プラタナスをにらみつけた。
「いいの!私が謝りたいから謝ってるんで、謝りたいものには謝らせておいて。私は謝りたいんだから、プーさんは黙って謝られていればいいの!」
プラタナスはなんちゅう理屈だと思いながら、うなづき、それ以上言葉をつながなかった。キスゲは微笑み、プラタナスから離れた。プラタナスはあらためて、自分の心臓がおかしいほどに激しく脈打っていることに気付いた。鼓動はなかなかおさまろうとしない。その鼓動がどこからきているのかをプラタナスは検討し、それが恐怖からのものであることを知った。
《やはり、壊れやすい砂糖菓子だ。》目の前のキスゲを見ながら、プラタナスは思った。
《そして、お菓子の家は、この建物だ。》食べられてしまうのは、プラタナス自身ではなかったのだ。
《だから、頭を使って、逃げ出すやり方を考え出さないと。》逃げ出すやり方はあるのだろうか。
シミュレーションの専門家であり、あらゆる可能性を検討し尽くすのが仕事であるプラタナスにとって、その可能性を検討するのは、そんなに難しいことではない。実際、この可能性は、ほとんど無意識に、瞬時に検討された。プラタナスのシミュレーションは、逃げ出す可能性をいくつも導き出した。現在の状況はすべて検討されており、実施に当たって問題はないはずだったが、プラタナス自身は、根拠のない怖れを覚えていた。
《お菓子の家に入った子供は食べられてしまう。》プラタナスは、ふたたび襲ってきた、激しい恐怖に耐えた。
「プーさん?」キスゲが声をかけた。
「ああ、すまない。少し考え事をしていた。何か?」
「おみやげ。」
差し出したキスゲのてのひらには、中身が半分以下になった、すこんぶの箱が乗っていた。
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